19
重なった吉羅の唇は、記憶の中にあるよりも、しっとりと奥深く、官能的だった。 重なり合う唇から、かつて以上の情熱や愛情が感じられる。 最初は柔らかく触れるだけだったのに、胸が痛くなるほどに激しく唇を重ねられる。 苦しい。 なのにどうしてこんなにも気持ちが良いんだろう。 それは吉羅との恋に似ていた。 唇を割り、舌が口腔内に入り込んでくる。 久々にくまなく愛撫をされて、息が詰まりそうになった。 こんなにも苦しい感覚は他にないのに、どうして幸せなのだろうか。 香穂子がキスに酔い始めると、吉羅の抱擁が強くなった。 お互いに息が出来なくなる程のキスを交わした後、吉羅は香穂子の唇を両手で包み込みながら、そっと離れた。 潤んだ瞳で見つめていると、スッと目を細められる。 「…君に逢いたかった…。それだけだ。息子は関係ないんだ」 「…吉羅さん…」 息子ではなく、自分を第一に考えてくれるのが嬉しくて、香穂子の心は揺らいだ。 離れなければならない相手なのに、このままずっとそばにいたいと思ってしまう。 もっと吉羅のそばにいたい。 もっとキスをされたい。 「…昨日は済まなかった…。急に外せない用が入ってしまってね…」 外せない用。 香穂子は燃え上がる感情が急激に冷めていくのを感じた。 吉羅は何よりもあの電話の主を優先したのだから。 香穂子は、急に冷静さを取り戻すと、瞳を伏せて、吉羅から離れようとした。 「…香穂子…!?」 「…あなたにとって…、このキスがどのような意味があるかは解らないですが…、私には…もう…過去のことだから…」 嘘を吐いているのはその声が震えていることで明白になってしまうだろう。 だが、香穂子はあえてそうするしかなかった。 吉羅への恋愛感情はもう無くなってしまったのだと、そう言い聞かせるしかないのだ。 吉羅は不快そうに目を細めると、香穂子から離れてしまう。 その冷たさが痛くて堪らない。 だが、仕方がないことだ。 そうせざるをえないのだから。 「…吉羅さん…、コーヒーを淹れましたからどうぞ」 「いや。今夜は失礼する」 吉羅は冷たく言うと、静かに玄関先へと向かう。 「おやすみ」 「…おやすみなさい…」 香穂子が静かに言うと、吉羅は振り向きもせずに行ってしまった。 仕方がない。 吉羅を怒らせてしまった。 だが、ここで溺れてしまったら、また同じようになってしまう。それだけはどうしても避けたかった。 涙が零れて、胸が張り裂けそうになるぐらいに苦しい。 触れられた唇は、まだ吉羅の熱情の余韻で疼いていた。 今夜は眠れそうにないと感じながら、香穂子は溜め息を吐いた。 結局、香穂子は余り眠ることが出来なかった。 朝食を軽く済ませた後、息子を連れて役所へと出向くことにした。 役所で、母子寮のことを訊くためだ。 上手く入居が出来れば早くそこに越して、仕事を積極的に探せば良い。 香穂子は役所の福祉課で詳しい話を聞き、書類を貰うことが出来た。 恐らくは入居出来るだろうと言われて、ホッとする。 これで吉羅には迷惑を掛けることもなくなる。 これで完全に離れて、また元の世界に戻ることが出来るだろう。 香穂子と息子だけの穏やかな世界に。 もう愛して傷付くことには疲れてしまった。 こんなにも切なくも苦しい気分は、もう二度と味わいたくはなかったから。 「ママ、公園に行きたい」 「…そうだね。公園に行こうか…」 香穂子は息子の手を取ると、ゆっくりと公園に向かった。 家に電話を掛けても、香穂子は出なかった。 いたしかたなく携帯に電話を掛けたが、こちらもまた繋がらない。 苛々する。 香穂子と連絡することが出来ないだけで、こんなにも苛々とするなんて、思いもよらなかった。 かつて人生最大の情熱で恋をしていた時、香穂子がそばにいるのは当たり前だと思っていた。 こうして連絡をすることも余りなかったように思える。 吉羅は苦しい想いを抱きながら、溜め息を吐くしかなかった。 一度失ってしまったから、今度は二度と失いたくはない。 だから連絡が取れないだけで、こんなにも不安になってしまうのだ。 自分のことを忘れ去られてしまったように。 香穂子を心の中に閉じ込めてしまいたい。 そんな情熱的なことを、吉羅は感じてしまう。 また逢いたい。 今すぐ逢いたいと思ってしまう。 吉羅は恋心を募らせる余りに、電話を取っていた。 「…少し出掛けます。直ぐに帰ってきます」 秘書に内線で声を掛けた後、吉羅は直ぐに車に飛び乗る。 香穂子のところへと向かった。 息子と遊んで和んだ後、香穂子はようやくマンションへと戻った。 マンション前でスーツ姿の吉羅を見つけ、息を呑む。 「…吉羅さん…」 「何処に行っていたのかね?」 「公園に…」 香穂子はバッグから出ていた役所の封筒を咄嗟に隠す。 「…公園に…ね。ランチでも食べに行かないかね?」 吉羅はまるで香穂子の行動などお見通しとばかりに、じっと見つめてくる。 出ていくことを見破られてしまうのではないかと思いながら、香穂子は少し躰を震わせていた。 「…有り難うございます。ですがお昼の準備が出来ているので、ランチはお断りします…。簡単なもので良ければ、ご一緒にどうぞ」 「有り難う」 香穂子はセキュリティを解除して、吉羅と一緒に部屋に向かう。 「…ち、ちらちゃ、抱っこ」 息子が両手を一生懸命上げて、吉羅に抱っこをねだっている。 吉羅はフッと父親特有の笑みを浮かべると、息子を抱き上げた。 「ありあとっ!」 にっこりと吉羅だけに向けられる太陽のような笑顔に、すっかり甘く温かな表情を浮かべている。 香穂子は嬉しいと同時に、何処か痛みを伴う感情を同居させていた。 部屋に入り、香穂子は手早く食事の支度をする。 今日はスパゲティミートソースとサラダ、そして野菜たっぷりのスープだ。 暁愛が大好きなメニューだ。 作っている間、吉羅は暁愛の相手をしてくれていた。 イタリアンテーラードのスーツで子どもの相手をする吉羅が、何処か微笑ましくてしょうがない。 香穂子は食事を作りながら、このようなシーンがもう見受けられなくなるのが切なかった。 食事は前日に殆どを用意していたから、素早く作ることが出来る。 作り終わり、香穂子は息子と吉羅を呼びに行った。 昼ご飯が出来たと告げると、暁愛は歓声を上げる。 ランチは大好きなものだから当然だ。 「ママのしゅぱげちが一番!」 「有り難う、あきちゃん」 三人でひとつのテーブルを囲む。 暁愛は大好きなメニューのせいか、鼻歌を歌っていた。香穂子がよく弾いてやるヴァイオリンの曲だ。かつて吉羅にもよく弾いた曲だ。 「ヴァイオリンを頑張っているのかね?」 「趣味として頑張っていますよ」 「趣味として…ね…」 吉羅は香穂子の言葉を反芻すると、じっと見つめてくる。 「…香穂子、再び私と暮らして、ヴァイオリンの勉強をしてはどうかね? ヴァイオリン講師の手配はする」 なんて魅力的な申し出。 だが、また傷付いてしまうのではないかと思ってしまう。 「…吉羅さん…申し出は嬉しいですが…私…」 香穂子がやんわりと断ろうとすると、吉羅は神経質に見つめる。 「ここで即答することはない。ゆっくりと考えれば良い」 「…はい。有り難うございます…」 香穂子は返事をしながら目線を下げた。 受け入れられないと思いながら。 |