*追憶*

20


 香穂子のいるマンションを出て、吉羅は溜め息を吐く。
 香穂子は近々出ていくつもりだ。
 咄嗟に隠した封筒は、母子寮のものであることを直ぐに悟った。
 そこで生活をしながら、仕事を探すつもりなのだろう。
 そんなことは許さない。
 許したくもない。
 香穂子も暁愛もかけがえのない大切なふたりだ。
 絶対に放したくはなかった。
 そのためには、監視を強化しなければならない。
 香穂子が出ていくのを阻止するために、吉羅はどんな手でも尽くそうと思っていた。

 携帯電話が鳴り響き、香穂子はそれに飛び付くように出る。
 相手は役所の福祉課だった。
「日野さん、審査が通りましたよ。母子寮には二週間後から入居が出来ますから、それ以降に手続きをして下さい」
「有り難うございます。嬉しいです」
 香穂子はホッとして電話を切る。
 これで二週間後にはここを離れることが出来る。
 なのに素直に喜べない自分が存在する。
 吉羅との別れは辛い。
 こんなにも良くして貰ったのだから。
 これ以上はない程に良くして貰えたのだ。
 香穂子は胸に激痛が走るほどに、切なさを感じる。
 また恋をしてしまった。
 しかも同じ相手だ。
 学習機能が全くないと言っても良かった。
 香穂子が深い溜め息を吐いていると、暁愛が心配そうに見つめてきた。
 こんなにも温かなまなざしはない。
 暁愛の前では、弛んで泣いてしまいそうだ。
 それでも母親として何とか我慢をした。
「…大丈夫だよ、あきちゃん…。もう病気じゃないからね。後少しだけここにいたら、お引っ越しするからね。ごめんね…」
「…あい…」
 香穂子が言い聞かせると、暁愛もまた何処か切なそうに頷いた。

 幾つかの派遣に登録するために、香穂子は息子を友人に預けることにした。
 友人の天羽は雑誌記者をしており、平日休みのためかある程度の融通は聞いてくれるのだ。
「あきちゃんは責任を持って預かるから。心配しないで」
「うん有り難う、菜美」
 天羽は心配そうに、香穂子を見つめる。
「…大丈夫? 何時でもうちに来てくれて良いんだよ」
「うん、有り難う。二週間後には母子寮に行けるし…。大丈夫だよ…」
「だったら良いんだけれど。もし何かあったらうちにお出で」
「有り難う」
 天羽の優しさに感謝しながら、香穂子はふわりと微笑む。
 本当に有り難い友人だと、香穂子は思っていた。

 派遣の登録を無事に終えて、香穂子は息子を迎えに行くために急ぐ。
「…あ…」
 銀座のメインストリートを歩いていたからだろうか。
 吉羅と肩を並べて歩く美しい女性を見掛けた。
 恋人なのだろう。また。
 香穂子とは、恋人同士ではないのだから、無駄に嫉妬をすることもないはずだ。
 かなり切ないと言っても、それは香穂子の身勝手な感情だ。
 そう割り切って考えられたら良いのに、実際にはそこまで割り切ることは、出来なかった。
 吉羅に恋人がいる以上は、一緒に住むことや認知は受け入れないほうが良いのだ。
 ぼやぼやしていると、もっと苦しい感情を抱いてしまうだろう。
 だから離れてしまったほうが良い。
 香穂子は、吉羅に背を向けるように反対方向に歩くと、離れる覚悟を決めた。

 暁愛を迎えに行くと、グッスリと眠っていた。
「遊び疲れてすっかり眠ってしまったよ。だけどこの子は凄いね。ママが働いて頑張っていることをちゃんと理 解して、泣いたりわがままを言ったりしないんだから」
「だから助かっているんだ。本当に良い息子だよ」
 香穂子は息子の髪を撫でながら、目を細めて見つめる。
 とても温かな気分になった。
「菜美、明日から暫くね、あなたのところに置いて貰って良いかな? 母子寮に引っ越しが出来るまでで良いから」
「…香穂子…」
 天羽は香穂子を痛々しいそうに見つめると、静かに頷いてくれた。
「有り難う、菜美…」
「あきちゃんは良い子だから大丈夫だよ。だからいつでもお出で」
「有り難う」
 友人の助けにホッとすると同時に、有り難いと思う。
「有り難う、本当に。手早く荷物を纏めて…って言っても、余りないけれど…、ふたりで少しだけお世話になります」
「うん、お出で」
「じゃあ荷物をまとめてくるから…」
 香穂子が泣きそうになりながら言うと、天羽は何処か怪訝そうに見つめてきた。
「香穂子? 何かあったの…?」
 心配そうに訊いてくる親友の声に、とうとう涙が溢れてくる。
「…私…ね…、病気になって…、あきちゃんを…擁護施設に取り上げられた時に、あきちゃんの実の父親に助けを求めたんだ…」
 香穂子の言葉に、天羽はハッと息を呑む。
「…それで…病気に治るまでの間、あきちゃんの父親のお世話になってたんだけれど…、これ以上はお世 話になんかなれないから、出て行くつもりなんだよ…」
 香穂子はかいつまんで天羽に報告をする。流石に核心は言えやしなかった。
「…で、あなたが出て行こうとしているのは、やっぱりあきちゃんの父親が好きだから…?」
 鋭い天羽の言葉に、香穂子は躰を硬くする。
 まさに香穂子が一番知られたくない核心を突いてきた。
 洞察力の凄さは、ジャーナリストならではなのだろう。
「…違うの。最初から躰が良くなったら出ていくつもりだったし、あちらも恋人がいるからね。これ以上は迷惑をかけられないんだよ。だから早めにと思って、あなたにお世話になれれば…、と、思っただけなんだ。直ぐに母子寮に行けると思っていたんだけれど、なかなかだね。最近、シングルマザーが増えているからね」
 香穂子が誤魔化すように笑うと、天羽はそれ以上訊いては来なかった。
 天羽なりの気遣いだったのだろう。それは本当に有り難かった。
「…解ったよ。じゃあさ、香穂子、直ぐにお出で。そこにいてもしょうがないからね…」
「うん。有り難う、菜美」
 友人の優しさに香穂子は救われながら、笑顔で頷いた。

 マンションに戻ると、早速荷造りを開始した。
 持ってきたものは余りないから、直ぐに荷造りが出来た。
 最新の高価な玩具が沢山あるが、それは諦めて貰うしかない。
「ママ、またお引っ越し?」
 不安げに見つめて来る息子を抱き締めると、香穂子はその背中を撫でた。
「ごめんね…。またお引っ越しをするんだ。今度は菜美お姉ちゃんのところに行くんだよ。それから新しいおうちにお引っ越し」
 香穂子が言い聞かせるように言うと、暁愛はしょんぼりとしてしまう。
「…ここはダメ…?」
「うん、ごめんね」
 香穂子はそれしか言ってあげることが出来なくて、胸を痛める。
 暁愛にとっては初めての大きな空間だったから、ずっといたいのだろう。
 だがそれはとても難しいことだ。
 そこは解って欲しいと、香穂子は思わずにはいられなかった。
 テーブルにカードキーを置いて、忘れものがないかどうかを確認する。
 少しの間だが、親子水入らずで過ごした場所だ。想いがないはずはない。
 だが、いつまでもここにはいられないのだ。
 それを誰よりも解っているからこそ、ここから出て行くのだ。
 香穂子は、古びたバギーカーに息子を乗せると、荷物を持ってエレベーターに乗り込む。
 このマンションがオートロックで助かったと思いながら、部屋を後にした。
 管理人のいる受付を上手くすり抜けてマンションから出ると、駅に向かってゆっくりと歩き出す。
 駅までは少し距離はあるが散歩にはちょうど良い。
 駅近くまでたどり着いた時、聞き慣れたクラクションを聞いた。


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