*追憶*

21


 社に戻ると、直ぐに携帯電話が鳴り響き、吉羅はそれに出た。
「吉羅だが…?」
「日野さん親子がマンションを出ました」
「直ぐに行く」
 吉羅は慌てて立ち上がると、駐車場へと向かった。
 こういうことは簡単に予測することが出来たから、吉羅はボディガードをマンションに張らせていたのだ。
 思った通りだ。
 香穂子は、今どきの女性には珍しく、奥ゆかしさがある女だ。
 相手に迷惑が掛かると考え過ぎるきらいがあるが、いつも引き際を考えている。
 そういう優しい部分に、吉羅は惹かれたのだ。
 今どきいない女だ。
 だが弱いわけではない。
 弱くないからこそ、腹が据わっているからこそ出来ることなのだ。
 柔らかくて芯が強い女だ。
 吉羅は、車に乗り込むと、マンションに向かって走り出す。
 支社から近いところで良かったと思わずにはいられない。
 最近は本社よりも、より香穂子の近くで仕事をしようと、支社に顔を出すことが多かった。
 マンションから駅まで、バギーカーを引いているならば20分はかかる。
 恐らくは間に合って掴まえることが出来るだろう。
 吉羅は溜め息を吐く。
 こうして吉羅から逃げ出す女なんて、香穂子以外にはいない。
 いつもこちらから別れを切り出す立場だったのに、香穂子に関しては逆だった。
 全く信じられない。
 だが、香穂子らしい選択だとも思わずにはいられなかった。
 車が駅近くに差し掛かってきた。
 香穂子の姿を捕らえる。
 スピードを落としながら、吉羅はクラクションを鳴らした。

 聞き慣れたクラクション音に、香穂子は飛び上がりそうになった。
 吉羅暁彦だ。
 それ以外には考えられない。
 背筋に冷たいものが流れ落ちるのと同時に、こころは何処か華やいだ気分になった。
 矛盾する感情。
 揺れるこころ。
 それが愛に他ならない。
 香穂子は、急に足取りが重苦しくなるのを感じながら、立ち止まらなかった。
 吉羅の愛車フェラーリが少し先で停まり、予想通りの人物が降りて来る。
 何処にも隙がなく、完璧なように見える吉羅が、髪と息を僅かに乱している。
 艶と圧倒的な雄としての魅力に、香穂子は立ち止まるしかなかった。
 吉羅は香穂子の前に立ちはだかるように現われると、クールなまなざしできつく睨み付けてきた。
「…どうして出ていったのかね?」
「…あ、あの…。あなたに迷惑をかけたくはなかったから…」
 吉羅の顔をまともに見ることは出来ずに、香穂子は声を震わせる。
「…私は何度も言っているはずだ。迷惑ではないと。それに…、君たちをきちんとした形で家族として迎えたいと」
 吉羅は訳が分からないとばかりに言うと、呆れ果てるような溜め息を吐いた。
「…君のように常に私から逃げ出す女性は…、初めてだよ…」
 吉羅は長い前髪をかきあげながら、大きな溜め息をもう一度吐く。
「とにかく、乗りなさい。君が何処に行くかは知らないが、戻ろう」
 吉羅は香穂子の腕を掴むと、強引に連れて行こうとする。
「待って下さい! 不義理をしたのは承知しています。…後からご挨拶に伺うつもりでした…。私があなたから離れたことを、あなたは後から良かったと思うようになります。きっと…」
 香穂子が力強く諭すように言っても、吉羅は離さない。
「私がそうは思わないと言ったら? ここで離してしまえば後悔すると言ったら?」
 吉羅の切迫した瞳を見せつけられると、香穂子は動けなくなった。
「…私は君達を諦めるつもりはないからね。車に乗るんだ。暁愛も乗りたがっている」
 吉羅からは逃げられない。
 香穂子はそう思うと目を閉じて頷くしかなかった。
「解りました。乗ります」
「今日は少しだけ素直だね…」
 吉羅はクールに言うと、香穂子をエスコートして車に乗せてくれた。
 暁愛はチャイルドシートに乗せ、バギーカーはトランクに入れてくれる。
 吉羅は運転席に腰を掛けると、直ぐにマンションに向かって走り出した。
「…全く…、君のような頑固で変わった女性は初めてだよ」
 吉羅は苦々しく呟きながら、ステアリングを華麗にさばく。
 マンションに到着すると、香穂子は静かに車から降りた。
 息子を下ろし、チャイルドシートを外してバギーカーを畳む。
 荷物は総て吉羅が持ってくれた。
「…有り難うございます」
 香穂子が素直に礼を言っても、吉羅の表情は冷徹なままだった。
 マンションの部屋に入り、荷物を置くと、吉羅は香穂子をまるで攻撃でもするかのように見つめた。
「…香穂子、君を監視せざるをえなくなるから、勝手な行動は慎みたまえ」
 まるで香穂子が自分のもののように、吉羅は言い放つ。
 ただの所有欲だ。そこには愛なんてないのは解っている。
 だが、期待せずにはいられないだなんて、なんてことだろうか。
 愛なんてない。
 なのにこうして期待させるのが腹が立った。
「…私たちはあなたのものではないです。監視する資格はあなたにはないです」
 香穂子が怒りを抑えて静かに言うと、吉羅のまなざしは攻撃的に輝く。
「…暁愛は、我が子だ。私の血を受け継いでいる。君もそれを認めていれだろう? 私と暁愛を引き離す資格は君にはない。そばにいるのは当然だ。香穂子、我が子を私の前から連れ去ろうとする君を監視する権利は私にあると思うがね」
 吉羅の冷た過ぎる声に、香穂子はぞくりとする。
「…私と闘う気ですか…?」
 思わず握り拳を作ってしまう。
 吉羅と闘えば、香穂子なんてひとたまりもない程に徹底的に打ちのめされるだろう。
「…闘わざるをえない状況に追い込んでいるのは…、君のほうじゃないのかね?」
 吉羅は香穂子を挑発するように見ている。
「…もしそうならば…、私はとことんまで君と闘うつもりだが…?」
 吉羅に法的手段に訴えられてしまったら、いくらこちらが有利であったとしても、簡単に覆るだろう。
 吉羅暁彦とは、そんな男なのだ。
「…君次第だ。君が私の側に暁愛と共にいてくれるのであれば、それで解決する。私は息子を得て、君は息子のそばにいられる。これ以上の解決策はないだろう。違うかね?」
 吉羅はストレートに香穂子の痛いところを突いてくる。
 全くなんて男だと思った。
「…それに暁愛を1人にする気はないからね。君には…、暁愛の弟か妹を産んで貰いたいと思っているしね」
 暁愛の弟か妹。
 もう叶わないと思っていたことを吉羅は申し出てくれる。
 それは嬉しい。
 だが吉羅には愛はない。
 そんな状況で子どもを産むなんてことなんて、出来やしないと香穂子は思った。
「…愛がないと子どもは産めないわ…」
 香穂子が吉羅を見ると、僅かに驚いたように目を開く。
「…君は…、愛があったから、暁愛を産んでくれたということなんだね…?」
 真実を突き付けられて、香穂子は一瞬言葉を失った。
「吉羅さん…、それは…」
「君は…愛情がないと子どもが産めない女性だ…。それでも暁愛を産んでくれたのは…、私を愛してくれていたと思って構わないね?」
 吉羅に頬を撫でられて、香穂子は苦しさの余りに目を閉じる。
「…ご想像にお任せします…」
「だったら、そうだと思っても構わないということだね…?」
 香穂子は返事をすることが出来ない。
 それが事実であるから余計に切なかった。
「…暁愛を産んだのは後悔していません…」
「それは結構なことだ」
 吉羅は静かに言うと、香穂子に至近距離まで近付き、強く抱擁してきた。


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