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「吉羅さん…っ!」 吉羅の抱擁の厳しさに、香穂子は息が出来なくて喘ぐ。 「言った筈だがね…。私は君を離す気はないと…」 吉羅はゾッとする程の冷たい声で呟くと、香穂子を挑発するように見つめてくる。 「…君がこんなことをしないように…、一緒に住むことにしないといけないね…。…君は…、本当に何処まで…」 「愚かだと言いたいんですか?」 香穂子の言葉に、吉羅は唇を歪めた。 「…よく解っているじゃないか…、香穂子…。うちで暮らすにはもう少しだけ待って貰わなければならないから、私がここに来る」 吉羅がずっと側にいる。 頭がくらくらしてしまいそうだ。 そばに吉羅がいれば、意識をせざるをえなくなる。 そうなればもっと苦しい感情が覆ってくる。 また傷付いてしまったら。 そんなことばかりを考えてしまい、香穂子は唇を噛み締めた。 「吉羅さん…、何処にも行かないから…お願いします。一緒に住むことは…」 吉羅は、香穂子が切ない恋心に揺れていることを知らないだろう。 こんなにも苦しい恋ことを知りもしないだろう。 「…それは…私を嫌い…だということなのかな…?」 吉羅に髪を撫でられて、香穂子は目を閉じた。 嫌いじゃない。 それどころか好き過ぎて苦しいからこそ、吉羅の側にはいられないというのに。 きっと解ってはくれない。 「…あなたを嫌い…な訳はありませんから…」 香穂子が掠れた声で、搾り出すように言うと、吉羅はゆっくりと離れていく。 「…私は当分…ここから出勤する。いいね」 香穂子は答えられず、俯いた。 ふたりの様子に気付いたのか、ひとり遊んでいた暁愛が、香穂子に駆け寄ってくる。 「ママ、どうちたの?」 「何でもないよ、あきちゃん」 香穂子は息子に視線を合わせると、膝を曲げて抱き締めた。 「ママ、お引っ越しはなし?」 無邪気な息子の言葉に、香穂子は答えられない。 「…そうだ。お引っ越しは止めることにしたんだよ…」 吉羅が香穂子に代わって答えると、息子は途端に笑顔になった。 「お引っ越しちなくて良かった! うれちい!」 息子の明るい表情に、吉羅は頷きながら微笑む。 その表情は、憎らしいぐらいに魅力的だ。 「ここであしょんで構わない…?」 「ああ。構わないよ」 吉羅の言葉に、暁愛は飛び跳ねながら遊びに行く。 「暁愛も、ここで遊びたいと言っている。ここに残りたいとね。君にはもう選択の余地はないということだね…」 「…吉羅さん…」 吉羅の巧みさに、香穂子は溜め息を吐くしかない。 息子はふたりで育てていかなければならないということだろう。 吉羅が飽きるまで。 香穂子は纏めた荷物を解き始めた。 「香穂子、部屋がひとつ空いているから、私はそこを使わせて貰う。二週間後には、うちの整備が終わるから、その時は、ここから引っ越しをする。そのつもりで」 「…はい…」 二週間後。 それは、母子寮の入居時期に重なる。 それまで何とかやり過ごして、母子寮に入れば良い。 だがそれが上手くいくかどうかは解らない。 「…ここに当座の荷物を持ってまた来る。それと、逃げだそうとしても無駄だ。ボディガードに見張らせているからね。ふたりでここにいるんだ。私は荷物をつめたら、直ぐにこちらに戻ってくるから。 「…解りました…」 ここは逃げ出せない。 母子寮に入居出来るまでの間を、何とかやり過ごすしかない。 だが、無事にすむとは思ってもいない。 なるべくそうなるように祈るしかなかった。 吉羅が行ってしまい、香穂子は荷物の整理をした。 どうせ出ていくから、直ぐに準備が出来るように整頓するしかなかった。 息子はと言えば、楽しそうに最新の玩具で遊んでいる。 今まで手作りの玩具か、古びた玩具ばかりで遊んでいたから、余程嬉しいのだろう。 香穂子も嬉しいと思うが、これは仮初の夢に過ぎない。 息子の姿を見つめながら、香穂子は溜め息を吐いた。 天羽に連絡をし、世話にならなくて済んだことを伝えると、黙って受け入れてくれた。 また頼りたい時はいつでも言って欲しいと言ってくれたのが、嬉しくてしょうがなかった。 どうしてそうなったかを訊かずにいてくれたのも、香穂子にはかなり有り難いことだった。 外に食べに行く気分にはなれなくて、香穂子は簡単なローストビーフを作り、スープをたく。 吉羅がここにやって来る。 なんて刺激的で官能的なのだろうか。 同時に、これ以上苦しいことも他にはなかった。 これが永続的に続くことなんてないのに、そう願ってしまう自分が何処か切なかった。 吉羅は手早くスーツと当座の生活に必要なものをスーツケースに詰め込む。 香穂子とは一緒に暮らすつもりではいたから、それが少しだけ前倒しになっただけの話だ。 こうしなければ、香穂子が離れていくのは確実だ。 香穂子と息子と三人で暮らせるなんて、これ以上の幸せは他にない。 吉羅は本当に幸せであると感じる。 この幸せを本物にしなければならないと、吉羅は強く思っていた。 荷物を車に詰め込み、仕事のパートナーであるパソコンを助手席に詰め込んだ。 支度が終わると、吉羅はフェラーリを飛ばして、香穂子の元に向かう。 今日から家族で支えあいながら暮らしていく。 これ以上に幸せなことはないと思っていた。 香穂子が食事を作り終える頃、吉羅が荷物を持って家にやってきた。 ボディガードとふたりで、客間に荷物を入れる。 流石は会社で借りているマンションなだけあり、直ぐに快適なビジネス空間に生まれ変わった。 セッティングが終わると、ボディガードは直ぐに帰ってしまい、家族の空間になった。 ここで家族水入らずで暮らす。 妊娠中に何度も夢見ていたことがこんなにも簡単に叶うなんて、思ってもみなかった。 吉羅は直ぐに息子の相手をしてくれる。 ふたりの姿を見つめながら、醒めない夢のなかにいるのではないかと思った。 夕食の後、息子が吉羅にべったりとくっついてしまっている。 思った以上にふたりは接近している。 親子だから、打ち解けるのは早いのだろう。 香穂子はふたりが仲良くする様子を嬉しいと思いながらも、複雑な気分になった。 「吉羅さん、お風呂はどうされますか?」 「いっちょに入る!」 暁愛はすっかり吉羅にこころを許してしまっている。 拙い。 吉羅と暁愛がこんなにも絆を深めているなんて、思いもよらないことだった。 「あきちゃん、吉羅さんにご迷惑だから、ママと一緒に入ろうよ」 香穂子が息子を宥めるように言うが、暁愛は断固としてきかない。 「ダメ。ちらしゃんと一緒が良い」 「私は暁愛と一緒に入っても構わないがね」 「ちらちゃんと一緒が良いー」 「こう言っているんだ。一緒に入る」 吉羅は暁愛を抱き上げると、香穂子を挑発するように見つめる。 「…解りました…。シャワーハットがありますから、それを使って髪を洗ってあげて下さい。後、耳の裏は特にしっかりっお願いします」 「解った」 吉羅は頷くと、暁愛を連れて自室へと向かう。 香穂子は息子の着替えとパジャマを取りに、部屋へと戻った。 入浴の準備をした後で、香穂子はバスルームへと向かう。 「ここにあきちゃんの着替えを置いておきますから、お願いします」 「解った。有り難う」 吉羅は直ぐに息子に向き直ると、玩具を一緒に選んでやっている。 ふたりが親子であることを、香穂子は思い知らされた。 |