*追憶*

22


「吉羅さん…っ!」
 吉羅の抱擁の厳しさに、香穂子は息が出来なくて喘ぐ。
「言った筈だがね…。私は君を離す気はないと…」
 吉羅はゾッとする程の冷たい声で呟くと、香穂子を挑発するように見つめてくる。
「…君がこんなことをしないように…、一緒に住むことにしないといけないね…。…君は…、本当に何処まで…」
「愚かだと言いたいんですか?」
 香穂子の言葉に、吉羅は唇を歪めた。
「…よく解っているじゃないか…、香穂子…。うちで暮らすにはもう少しだけ待って貰わなければならないから、私がここに来る」
 吉羅がずっと側にいる。
 頭がくらくらしてしまいそうだ。
 そばに吉羅がいれば、意識をせざるをえなくなる。
 そうなればもっと苦しい感情が覆ってくる。
 また傷付いてしまったら。
 そんなことばかりを考えてしまい、香穂子は唇を噛み締めた。
「吉羅さん…、何処にも行かないから…お願いします。一緒に住むことは…」
 吉羅は、香穂子が切ない恋心に揺れていることを知らないだろう。
 こんなにも苦しい恋ことを知りもしないだろう。
「…それは…私を嫌い…だということなのかな…?」
 吉羅に髪を撫でられて、香穂子は目を閉じた。
 嫌いじゃない。
 それどころか好き過ぎて苦しいからこそ、吉羅の側にはいられないというのに。
 きっと解ってはくれない。
「…あなたを嫌い…な訳はありませんから…」
 香穂子が掠れた声で、搾り出すように言うと、吉羅はゆっくりと離れていく。
「…私は当分…ここから出勤する。いいね」
 香穂子は答えられず、俯いた。
 ふたりの様子に気付いたのか、ひとり遊んでいた暁愛が、香穂子に駆け寄ってくる。
「ママ、どうちたの?」
「何でもないよ、あきちゃん」
 香穂子は息子に視線を合わせると、膝を曲げて抱き締めた。
「ママ、お引っ越しはなし?」
 無邪気な息子の言葉に、香穂子は答えられない。
「…そうだ。お引っ越しは止めることにしたんだよ…」
 吉羅が香穂子に代わって答えると、息子は途端に笑顔になった。
「お引っ越しちなくて良かった! うれちい!」
 息子の明るい表情に、吉羅は頷きながら微笑む。
 その表情は、憎らしいぐらいに魅力的だ。
「ここであしょんで構わない…?」
「ああ。構わないよ」
 吉羅の言葉に、暁愛は飛び跳ねながら遊びに行く。
「暁愛も、ここで遊びたいと言っている。ここに残りたいとね。君にはもう選択の余地はないということだね…」
「…吉羅さん…」
 吉羅の巧みさに、香穂子は溜め息を吐くしかない。
 息子はふたりで育てていかなければならないということだろう。
 吉羅が飽きるまで。
 香穂子は纏めた荷物を解き始めた。
「香穂子、部屋がひとつ空いているから、私はそこを使わせて貰う。二週間後には、うちの整備が終わるから、その時は、ここから引っ越しをする。そのつもりで」
「…はい…」
 二週間後。
 それは、母子寮の入居時期に重なる。
 それまで何とかやり過ごして、母子寮に入れば良い。
 だがそれが上手くいくかどうかは解らない。
「…ここに当座の荷物を持ってまた来る。それと、逃げだそうとしても無駄だ。ボディガードに見張らせているからね。ふたりでここにいるんだ。私は荷物をつめたら、直ぐにこちらに戻ってくるから。
「…解りました…」
 ここは逃げ出せない。
 母子寮に入居出来るまでの間を、何とかやり過ごすしかない。
 だが、無事にすむとは思ってもいない。
 なるべくそうなるように祈るしかなかった。

 吉羅が行ってしまい、香穂子は荷物の整理をした。
 どうせ出ていくから、直ぐに準備が出来るように整頓するしかなかった。
 息子はと言えば、楽しそうに最新の玩具で遊んでいる。
 今まで手作りの玩具か、古びた玩具ばかりで遊んでいたから、余程嬉しいのだろう。
 香穂子も嬉しいと思うが、これは仮初の夢に過ぎない。
 息子の姿を見つめながら、香穂子は溜め息を吐いた。
 天羽に連絡をし、世話にならなくて済んだことを伝えると、黙って受け入れてくれた。
 また頼りたい時はいつでも言って欲しいと言ってくれたのが、嬉しくてしょうがなかった。
 どうしてそうなったかを訊かずにいてくれたのも、香穂子にはかなり有り難いことだった。
 外に食べに行く気分にはなれなくて、香穂子は簡単なローストビーフを作り、スープをたく。
 吉羅がここにやって来る。
 なんて刺激的で官能的なのだろうか。
 同時に、これ以上苦しいことも他にはなかった。
 これが永続的に続くことなんてないのに、そう願ってしまう自分が何処か切なかった。

 吉羅は手早くスーツと当座の生活に必要なものをスーツケースに詰め込む。
 香穂子とは一緒に暮らすつもりではいたから、それが少しだけ前倒しになっただけの話だ。
 こうしなければ、香穂子が離れていくのは確実だ。
 香穂子と息子と三人で暮らせるなんて、これ以上の幸せは他にない。
 吉羅は本当に幸せであると感じる。
 この幸せを本物にしなければならないと、吉羅は強く思っていた。
 荷物を車に詰め込み、仕事のパートナーであるパソコンを助手席に詰め込んだ。
 支度が終わると、吉羅はフェラーリを飛ばして、香穂子の元に向かう。
 今日から家族で支えあいながら暮らしていく。
 これ以上に幸せなことはないと思っていた。

 香穂子が食事を作り終える頃、吉羅が荷物を持って家にやってきた。
 ボディガードとふたりで、客間に荷物を入れる。
 流石は会社で借りているマンションなだけあり、直ぐに快適なビジネス空間に生まれ変わった。
 セッティングが終わると、ボディガードは直ぐに帰ってしまい、家族の空間になった。
 ここで家族水入らずで暮らす。
 妊娠中に何度も夢見ていたことがこんなにも簡単に叶うなんて、思ってもみなかった。
 吉羅は直ぐに息子の相手をしてくれる。
 ふたりの姿を見つめながら、醒めない夢のなかにいるのではないかと思った。

 夕食の後、息子が吉羅にべったりとくっついてしまっている。
 思った以上にふたりは接近している。
 親子だから、打ち解けるのは早いのだろう。
 香穂子はふたりが仲良くする様子を嬉しいと思いながらも、複雑な気分になった。
「吉羅さん、お風呂はどうされますか?」
「いっちょに入る!」
 暁愛はすっかり吉羅にこころを許してしまっている。
 拙い。
 吉羅と暁愛がこんなにも絆を深めているなんて、思いもよらないことだった。
「あきちゃん、吉羅さんにご迷惑だから、ママと一緒に入ろうよ」
 香穂子が息子を宥めるように言うが、暁愛は断固としてきかない。
「ダメ。ちらしゃんと一緒が良い」
「私は暁愛と一緒に入っても構わないがね」
「ちらちゃんと一緒が良いー」
「こう言っているんだ。一緒に入る」
 吉羅は暁愛を抱き上げると、香穂子を挑発するように見つめる。
「…解りました…。シャワーハットがありますから、それを使って髪を洗ってあげて下さい。後、耳の裏は特にしっかりっお願いします」
「解った」
 吉羅は頷くと、暁愛を連れて自室へと向かう。
 香穂子は息子の着替えとパジャマを取りに、部屋へと戻った。

 入浴の準備をした後で、香穂子はバスルームへと向かう。
「ここにあきちゃんの着替えを置いておきますから、お願いします」
「解った。有り難う」
 吉羅は直ぐに息子に向き直ると、玩具を一緒に選んでやっている。
 ふたりが親子であることを、香穂子は思い知らされた。


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