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結局は、ミルクを飲み終わった後、ふたりはそれぞれの部屋に帰った。 官能的な想いを抱きながらも、結局はあと一歩を踏み出せずにいた。 だが部屋に帰りベッドに横になると、不思議とゆっくりと眠れた。 そのまま朝を迎え、香穂子は朝食の準備のためにキッチンに立つ。 かつて一緒に暮らしていた時と同じように起き、吉羅好みの朝食を作る。 今までなら、パン食にしていたが、今日は吉羅の好みに合わせてあげたかった。 吉羅のために茶粥を作り、野菜を使った簡単なサイドディッシュを作ってやる。 暁愛も茶粥が好きなのでちょうど良かった。 香穂子が食事を並べ終わるタイミングで、吉羅が支度をしてダイニングにやってくる。 「おはよう」 「…おはようございます」 相変わらず隙がない姿に、香穂子はうっとりとしてしまう。 「朝ご飯が出来ましたから、召し上がって下さい。あきちゃんを起こしてきますから」 「解った」 香穂子は未だに眠る息子を起こしにいく。 こうした朝が迎えられることをずっと祈っていた。 その夢が叶った。 いや、違う。 現実はかなり違うのだ。 吉羅は、香穂子が何処にも行かないように監視を強めているだけの話なのだから。 「あきちゃん、起きてご飯にしようか」 「うん。ごあん」 暁愛は目を擦りながら、何とか目を覚ます。 寝ぼけている暁愛からパジャマを脱がせ、手早く服に着替えさせた。 寝ぼけたままの息子をダイニングに連れていくと、英字新聞を読んでいた吉羅が手を止めた。 「おはよう、暁愛」 「おはよう、ちらしゃん」 息子は楽しそうに笑うと、吉羅の側の椅子に腰掛けた。 「あきちゃんも今日は茶粥だよ。あきちゃんの大好きなおかずもあるからね」 「ママ、ありあと」 息子の無邪気な笑顔に、こちらまで癒される。 三人で食卓を囲んで、食事を取るということがどんなに幸せかを、香穂子は改めて感じていた。 吉羅がいち早く食事を終えたので、暁愛と一緒に玄関まで見送りにいく。 「いってらっしゃい」 「いってらちゃいっ!」 ふたりで見送ると、吉羅の笑みは本当に甘くて柔らかなものになった。 「いってくる」 吉羅は挨拶をしたところで、不意に香穂子を見た。 「…本当はこんなことをしたくはないが…、君たちが何処にも行かないように監視をつけている。行動は慎むように」 吉羅が釘を刺すように言うのが、辛い。 今まで、甘い気分に浸っていたというのに、急激に醒めた気分になる。 「…そんなことをされなくても…、私も暁愛もとりあえずは何処にも行きません」 香穂子はキッパリと言い切ったが、吉羅はまだ信用してはいないようだった。 「…とりあえず…ね…。とにかく外出をしても構わないが、このマンションの周辺のみにするんだ。それだけだ」 吉羅は冷たく言い放つと、そのまま家から出て行ってしまう。 監視されている。 それだけ信頼がないということを、暗に示しているだけだ。 こちらもまだ吉羅にはこころを完全に開いてはいないから、お互い様だといえる。 香穂子は重い気分に、思わず溜め息を零した。 「ママ…?」 心配そうに見上げる息子に、香穂子は笑みを浮かべる。 「大丈夫。さてと朝ご飯の続きをしようか」 「うん、ごあん!」 暁愛としっかりと手を繋ぎながら、ダイニングへと向かう。 香穂子が病気をしてからというもの、息子はかなり心配してくれている。 その気持ちがとても嬉しくてしょうがなかった。 親子の絆を感じる。 ずっとふたりで生きてきたのだから。 香穂子は息子の世話をしながら、吉羅からかけがえのない息子を貰ったと思った。 そのことに関してはこころから感謝していた。 「ママ、ちらしゃん、いつ来るの?」 「今夜はちゃんと来ると思うけれど分からないよ」 吉羅はかなり忙しいひとだ。 香穂子と生活を共にしている時、吉羅は多忙の余り帰宅が遅くなることもあったし、帰って来ないこともあった。 だから必要以上に息子には期待を抱かせたくはないのだ。 「ね、あきちゃん、あきちゃんは…、吉羅さんのことが好きなの?」 「しゅき!」 笑顔で無邪気に即答されてしまい、香穂子は複雑な気分になる。 こんなにも急速に吉羅が暁愛のこころに入り込んで来るとは思ってもみなかったから。 「…あきちゃん、吉羅さんはお忙しいひとだからね、余り、無理を言ってはいけないからね」 「解ってる…」 不満そうに言う息子に、香穂子は唇を噛む。 吉羅を暁愛の世界から完全に拒む事は、もう出来なくなっているのかもしれない。 香穂子は食事をしながら、今後はどうしたら良いか、分からなくなっていた。 吉羅が夕食を食べるのだろうか。 そんなことを考えていると、吉羅から電話が鳴り響く。 「…はい」 「香穂子、今夜は七時にはそちらに着くようにするから、食事の用意をお願いしても構わないかね」 「…はい。解りました」 「では、また」 本当に用件だけのシンプルな電話で、吉羅らしい。 香穂子は何故だかとても満たされた気分になると、夕食の支度を始める。 今夜はカボチャを器にしたシチューと、簡単なローストビーフとサラダ。 吉羅の酒にもあうように、チーズを使った簡単なオードブルも作る。 何故だか満たされた幸せを感じていた。 電話を切った後、吉羅は幸せな気分に満たされる。 こんなにも甘い気分は久々だ。 今朝は本当に幸せな朝の食卓だった。 こんなにも幸せな気分は他に味わえない。 しいて言うのならば、香穂子と朝まで共に出来れば、これ以上に幸せなことはなかったのにと思う。 本当に幸せに満ち溢れた気分になっただろう。 近い未来にそうなるだろうと、吉羅はつい想像してしまう。 それが何よりもの希望になり、吉羅は仕事に集中する。 ふたりに再会をしてからというもの、やる気がかなり満ち溢れている。 何よりもの仕事の原動力になっていた。 頑張れる。 どんなことも。 何があっても乗り越えてみせると、吉羅は思わずにはいられなかった。 昨夜の香穂子とふたりきりでいた時の幸せが、何よりも素晴らしい時間だった。 今夜もまた同じような時間を共有出来たら良いのにと思わずにはいられない。 久々に願いを何かに託したくなった。 吉羅が約束通りの時間に帰ってきてくれた。 恐らくは息子の影響がかなり大きいのだろう。 だが香穂子はそれでも嬉しかった。 息子とふたりで、吉羅を迎えにいく。 「ちらしゃんーおかいりー」 息子が突進してくるのを、吉羅は上手く受け止めてくれた。 「…おかえりなさい…。それとも、いらっしゃいと言ったほうが良いのかしら…」 「“おかえりなさい”が良いがね」 吉羅は些か棘のある言い方をすると、暁愛を抱き上げて自室へと向かう。 香穂子はその後をゆっくりと着いていった。 この感覚が懐かしい。 以前は、吉羅と部屋に行って、着替えの手伝いを自ら買って出ていた。 ついくせで着いていってしまう。 香穂子は、まるでふたりの間に空白の時間はなかったかのように、吉羅の手伝いを暁愛と共にした。 吉羅は香穂子を見つめると、ふと微笑む。 「…懐かしいね…。かつて君はこうしてよく私の世話をしていたからね…」 「そうですね。懐かしい過去のことです…」 「過去じゃない…。今のことにすることも出来るんじゃないかね」 吉羅の言葉に、香穂子のこころは甘く疼いていた。 |