*追憶*

26


 昨夜と同じように、吉羅は暁愛と遊び、面倒を見てくれた。
 勿論、お風呂も一緒に入ってくれる。
 それがとても嬉しかった。
 いつまでもこれが続くと願っている反面、傷つくことを恐れてこれ以上は仲を深めたくないという想いもある。
 複雑な感情だ。
 香穂子はバスタブに漬かりながら、幸せと、苦しい感情の狭間で揺れていた。

 吉羅は息子をベッドに連れて行くと、不意に見上げられた。
「ちらしゃん、ご本読んで」
 暁愛はそう言うと、長い間読み継がれている有名な童話を持ってきた。
 かつて吉羅も幼い頃に読み聞かせて貰い、気に入っていた本と同じものだった。
「…じゃあ読もうか」
「あいっ」
 暁愛はベッドによじ登ると、嬉しそうに吉羅が本を読んでくれるのを待つ。
 久し振りの絵本だ。

 ネズミのコンビが大きな卵を見つけ、それを使ってパンケーキを焼いて仲間に振る舞う話だ。卵の殻は最後にはご機嫌な車になって料理の道具を運ぶのだ。
「明日、パンケーキを食べたいっ!」
「ママに言ってふわふわの美味しいものを焼いて貰うのも良いし、それか、私の知っているとても美味しいパンケーキを食べに行くのも良いね」
「おいちいの食べる」
「そうだね」
 眠たそうにうつらうつらとする息子の額を、吉羅は柔らかく撫で付けてやる。
「眠りなさい」
「あい」
 暁愛は返事をしながら、ぼんやりと吉羅を見上げる。
「ちらしゃん…明日もいっぱい遊ぼ」
「そうだね」
 吉羅はにっこりと微笑みながら、息子を見つめる。
「ちらしゃん、だいしゅきっ…。おやしゅみ…」
 暁愛はウトウトと目を閉じると、そのままゆっくりと眠ってしまう。
 吉羅はその寝顔が誰よりも大切なもののように思えてならなかった。
 暁愛が可愛くてしょうがない。
 暁愛を離せないほどに愛しい。
 これ以上の存在はないと、吉羅は思う。
 暁愛のことを思うだけで、満ち足りた幸福に満たされていた。
 こんなに幸せをくれたのは香穂子だ。
 もうふたりとも離せないと、吉羅は強く思った。

 香穂子がバスルームから出ると、吉羅がリビングでひとりワインを飲んでいるのが見えた。
「…暁愛は…」
「絵本を読んだら寝てしまったよ」
 吉羅は本当に優しい声で香穂子に話をする。それだけ息子は愛しい存在なのだろう。
「…有り難う…」
「あの絵本はお気に入りみたいだね。パンケーキを食べたいと言っていたよ」
「明日、作ってあげなければならないですね」
 香穂子はホットケーキミックスを買いに行かなければならないと、ぼんやりと思う。
「パンケーキの美味しい店が湘南にあってね。良かったら行かないか?」
「有り難うございます。あきちゃん、きっと喜ぶかと思いますよ」
「一緒に行こう。三人で」
 吉羅は、いつもの鋭さが信じられないほどに柔らかなまなざしを向けて来る。
「香穂子、ベランダに出て、一緒に月を眺めないか? 今宵は満月らしいからね」
「そうですね」
 香穂子は、吉羅と月を見た昨夜のロマンティックさを忘れたくなくて、頷いた。
 ふたりで飲み物を片手にベランダへと出る。
 吉羅とふたりで肩を並べて見事な月を眺めた。
 月越しに見つめる横浜の夜景は、なんてロマンがあるのだろうかと思う。
「…本当に風景自体がとても綺麗ですね。ポストカードにしたいぐらいです」
「…そうだね…。本当に綺麗だ…」
 ふたりで見つめる風景は、いつも特別なものだと香穂子は思っていた。
 それは今でも同じだ。
 吉羅と見る風景は、なんと美しいのかと思う。
 息を飲む程の美しさだ。
 香穂子が風景に魅入られていると、吉羅がふと顔を向けた。
「昼間はあんなにも暑いのに、もう秋なのだね。吹き抜ける風が確実にひんやりとしているね」
「…そうですね…。秋は実の季節なのに、何処か物哀しくて切ないですね。心地好い風に、時々泣きそうになります…」
 香穂子がふと寂しい気分で笑みを浮かべると、吉羅がそっと抱き寄せてきた。
「……!?」
 吉羅の力強さに、香穂子は思わず息を呑む。
「…満月。仲秋の明月…も近い…。総てが満ちる時間だ…」
「そうですね…」
「私たちの関係も元のものよりも、更に素晴らしいものに踏み出さなければならないのではないかね?」
「…吉羅さん…」
 吉羅は更に香穂子を抱き寄せると、ワイングラスを小さなテーブルに置く。
「…私は…君達を未来永劫離したくはない…。こうして家族としてずっと生活をしていきたいと思う。私にとっては、君達がいない世界のほうが最早考えられないんだよ」
「…吉羅さん…」
 両腕でしっかりと包み込まれると、香穂子は息が出来なくなる。
「…君達と家族になりたいんだよ…。ずっとなりたいと思っていた」
「吉羅さん…」
 吉羅は、香穂子の心の奥底すら見つめてしまうのではないかと思う程に、深く見つめてきた。
「…家族になろう…」
 吉羅は低く艶やかな声で呟くと、ゆっくりと香穂子に顔を近付けてくる。
 拒むことなんて出来やしなかった。
 吉羅の唇がしっとりと重なる。
 甘くて幸せな味しかしないキス。
 これ以上のものはない。
 香穂子は溺れるように、吉羅の肩に両腕を巻き付けた。
 何度もキスを交わして、お互いに秘めていた想いを滲ませる。
 息などすることすら忘れているのかもしれない。
 唇が離れた後で、ふたりは見つめあう。
「…君を一番に考えなければならないのに…、あの頃の私は…、それが出来なかった。君の優しさの上で、胡座をかいていたのかもしれないね」
「…吉羅さん…」
 吉羅は苦しげに呟くと、月光に照らされた香穂子の輪郭をゆっくりとなぞってくる。
 優しいリズムのタッチに、香穂子は瞳を閉じた。
「…許してくれとは、正直、言えないほどに君を傷つけた…。だが、君に出て行かれて、私が傷ついたのは本当のことだ…。自業自得だったがね」
 吉羅は自嘲するように笑うと、香穂子の滑らかな頬を撫でた。
「…だから、ゆっくりで良いんだ…。君が、私にこころを開いてくれるまで待つつもりだ。だから…、一緒にならないか? 先ずは暁愛の親になろう。ふたりで。そして、少しずつやり直していかないか?」
「…吉羅さん…」
 吉羅の申し出は涙が出る程に嬉しくてしょうがない。
 こんなにも嬉しいことは、他にないのではないかと思う。
 誰にも頼らずに、暁愛とふたりで生きて行こうと決めていたはずなのに、その想いが根元から揺らぐのを感じた。
「…揺らいでいます…。正直…。このままあなたと一緒に家族になっても良いと思う事もあります…。…だけど、最後の一歩がどうしても踏み出せないんです…。…私…、あなたと別れて子どもを得てから…、強くなるのと同時に…、誰よりも臆病になってしまったみたいです…。それが顔を出して、なかなか前には進めないんです…」
 素直な気持ちだった。
 香穂子は声を震わせながら言い、涙を滲ませた瞳を吉羅に向ける。
 吉羅は、本当に痛いといった感情を、香穂子に向けた。
「…香穂子…、君がまた私に飛び込めるように、私は最大限の努力をしよう…。君が私と一緒になっても 構わないと思うまで、予行演習をしないか? お試し期間というのは、何事にも大切だからね」
 吉羅の申し出は、なんて有り難いものかと思う。
 わがままを聞いてくれる。
 今までの吉羅にはそれが一切なかった。
 だが、今はそれがある。
 嬉しくてしょうがない。
 まだ踏み出せないが、この提案は受け入れたい。
 香穂子は素直に頷いた。


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