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それだけあればこのシーズンは暮らせるのではないかと思うほどに買い物をした後で、吉羅の六本木の自宅へと向かう。 買ってきた衣服は、総て即日仕上げのクリーニングに出されてしまった。 「もう夕方だね…。食事に出なければなるまい。この近くなら色々とあるから良いだろう」 吉羅は時間を確認すると、香穂子の手を握り締める。 「行くか。食事をしている間に、クリーニングした服も出来上がるだろう」 「あ、荷物をまとめないと」 香穂子が数少ない荷物をまとめようとすると、吉羅に制された。 「荷物はまとめなくても良いんだ。また戻ってくる」 「だけど…」 「良いんだ」 吉羅は厳しく言うと、香穂子の左手をチェックする。 薬指には偽物のエンゲージリングが光っている。 香穂子にとってはたとえフェイクなものであったとしても、大切で堪らないものだ。 「…吉羅さん…」 「…ずっと着けておくんだ。良いね」 吉羅は半ば強制的に言うと、香穂子の手の甲を撫で付けてくる。 まるでこころから愛されているかのようだ。 それがうっとりとするほどに幸せで、香穂子ははにかんでいた。 吉羅が連れていってくれたレストランは、麻布十番にあり、味も洗練された雰囲気も申し分なかった。 ゆったりと出来る雰囲気が嬉しい。 吉羅と静かな会話を楽しみながら食事を取り、穏やかに微笑みを交わせるのが嬉しかった。 食事の後、手を繋いでゆっくりと吉羅の自宅駐車場へと向かう。 「…吉羅さん、今日はご馳走様でした。凄く楽しかったです」 「それは良かった」 「まだ早いですから地下鉄を使って家には帰れますが、もう少しだけ吉羅さんのそばにいたいです」 こんなことをさらりと言えるのは、きっと吉羅と楽しくも愛のある夜を過ごせたと感じているからかもしれない。 「…香穂子、今夜は土曜日だ。私は君を帰す気はない」 吉羅は艶と官能が滲んだ声で言うと、香穂子を引き寄せてきた。 「帰す気は最初からない」 吉羅に強引に言われても、不快だとは感じない。 それどころか、吉羅の望み総てを受け入れたくなる。 「香穂子、そろそろクリーニングが出来て来る頃だ。うちに帰ろう」 「はい…」 偽者の婚約者として始まった恋。 立場や状況は変わってはいないが、それでも恋は幸せな方向へと向かっているような気がする。 ふわふわとした幸福が、それを教えてくれているような気がした。 吉羅の自宅に戻ると、良いタイミングでクリーニングが上がってきた。 それらを吉羅に言われるままに、クローゼットへと片付ける。 日常用品の最低限のものも揃ったので、ここで生活出来る状況が出来上がった。 「今夜は色々と準備がされているから、君も安心して眠りにつくことが出来るだろうから」 「有り難うございます」 「ああ。香穂子、言い忘れていたが、私は君を当分はここに置くからそのつもりで。明日は、君の家に行ってきちんと話をつけるから、そのつもりで」 きちんと話すつもり。 この一言に、香穂子はドキリとする。 ひょっとして吉羅は真剣に考えてくれているのだろうかと、何処か期待を抱いてしまう。 ときめきが強くなり、香穂子を幸せな気分にさせてくれる。 それが何よりも嬉しい。 香穂子がうっとりとした表情を吉羅に向けると、頬を柔らかく触れてくる。 「…私は君を放したくないらしい。どうもね。だから、こうしてここで一緒にいるんだ」 吉羅の声と指先は、まるで魔法を持っているかのように、香穂子をうっとりとさせてくれる。 香穂子がにっこりと微笑むと、吉羅がそっと抱き寄せてくれた。 そのまま熱く唇を重ねられる。 情熱の赴くままに、ベッドへと運ばれた。 吉羅と愛し合った後、躰を慈しむように抱き締めて貰うのが、くせになってしまっている。 心地好くて、うっとりとしてしまう。 「香穂子…、ここで暮らすんだ。君とは“婚約している”ことになっているから、何の問題もない筈だ」 抱き締められていると、吉羅の声が胸の骨に響いて聞こえ、いつも以上に魅力的に響いてくる。 こんな声で囁かれてしまったら、否定したり逆らうことなど出来る筈がないではないか。 「はい。ここで暮らします」 「有り難う。明日はご両親に話をしておこう」 「はい」 婚約者のふりを始めて、吉羅に恋をした時は、このような展開になるとは思ってもみなかった。 だがこうして幸せな瞬間が訪れた。 こんなにも幸せな時間はないのではないかと思う。 吉羅は香穂子の頬を撫でると、キスをくれる。 「当分、君にはナイトウェアは必要ないんじゃないかね?」 「え…、あ…」 再び躰を愛され始めて、香穂子は幸せと欲望で溺れていく。 快楽に漂いながら、香穂子はゆっくりと墜落していった。 吉羅と一緒に自宅へと向かう。 こんなにも幸せなドライブがかつてあったのだろうかと思う。 これは幸せへのドライブだと、香穂子は信じて、疑う余地など有り得ないと思う。 「何だか楽しい気分です」 「そうかね」 吉羅はいつも通りにとても落ち着いていて、クールだ。 それが引っ掛かった。 自宅に近付くにつれて、香穂子は不安になる。 幸せなことを想像していたが、実はそうではないのではないかと思い始めていた。 家に着き、吉羅と共に家に入ると、緊張ぎみの両親が姿を現す。 経済界の寵児吉羅暁彦であるから、かなりの緊張は避けられない。しかも、今や香穂子の父親を傘下に置いている男なのだ。 「…ようこそいらっしゃいました吉羅さん、おかえり香穂子」 「ただいま、お父さん、お母さん…」 香穂子もまた、両親の緊張を感じ取って、神妙な顔つきになる。 「お二人にお話があります。香穂子さんのことで」 吉羅は率直に言うと、冷静沈着な瞳で見つめる。 「解りました」 父親の口調は重苦しくて、香穂子が僅かに胸が痛んだ。 リビングのソファに腰を下ろしても、いつもと違ってリラックスすることが出来ない。 香穂子は緊張したままで、吉羅を見上げた。 コーヒーを出されても、誰も手をつけない。 「率直に言います。お嬢さんを私に預けては下さいませんか?」 吉羅は、期待を抱くような甘い言葉を避けるように言うと、香穂子の両親を見る。 結婚でも婚約でもない。 ただ預けて欲しいと。 それが切なくて苦しい。 「…香穂子をどうされたいのですか…?」 父親の苦悩が伝わる。 吉羅に本当はイエスとは言いたくないのだろう。 だが、イエスと言わざるをえない状況になっているのは事実だ。 まるで人質だ。これ以上に屈辱的なことは、ないのかもしれない。 だが、香穂子が受け入れてしまえば、解決するのは事実だ。 父親を無駄に苦しめたくない。 香穂子は背筋を伸ばすと、父親を真っ直ぐ見た。 受け入れる。そして父親を少しでも楽にしてあげたい。 それだけだ。 「お父さん、私、吉羅さんのところに行きます。吉羅さんのところに行きたいんです。だから…許して下さい」 香穂子は自分の意志で吉羅のところに行くのだということを、父親に言い聞かせるように言う。 「香穂子…」 「本気に、吉羅さんと一緒にいたいんだよ…」 ほんのりと恋心を滲ませながら呟く。 吉羅を愛しているのは事実であるし、一緒にいたいのもそうだ。 本当の気持ちだ。 父親は、香穂子をじっと見つめる。 ほんものの気持ちが滲んでいるのだから、見破れない。 父親はそれが解ったのか、ただ頷いた。 「解った…」 |