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香穂子の気持ちを汲むかのように、吉羅が左手をギュッと握り締めてきてくれた。 それが嬉しくて、華やいだ気持ちなる。 「吉羅さん、娘を宜しくお願いします」 「…はい。解りました」 吉羅はほんの一瞬だけ、表情を和らげる。そこには愛しか感じられなかった。 「香穂子、必要な荷物をまとめたまえ。待っているから。後は追々取りに来れば良い」 「解りました」 香穂子は立ち上がると、荷物をまとめに自室へと向かった。 荷物をまとめていると、母親が手伝いに来てくれた。 「ヴァイオリンだとか、音楽関係のものを持っていくね」 「そうね、トランクに入るのは限られているから…」 母親は手伝ってくれながらも、何処か切ないまなざしで見つめてくる。 「香穂子、家のために吉羅さんのところに行くのであれば、お母さんは反対よ。あなたに辛い想いをさせたくないもの…」 「大丈夫だよ、お母さん。そんなことはないんだ…。…私…、吉羅さんが好きでしょうがないから…。本当に…」 報われなくても吉羅のことば好きでたまらない。 香穂子は母親に素直な目を向けて、優しく笑った。 「そうだったのね。あなたの表情を見ていたら、嘘は吐いていないのが分かるわ。だったら…お母さんは何も言わないわ、香穂子…」 「有り難うお母さん」 香穂子は涙ぐみながら、母親に甘えるようにそっと抱き付いた。 荷物を片付け終わると、母親とふたりで下に下ろす。 それを途中から吉羅が持ってくれた。 「では申し訳ありませんが、私たちはこれで戻ります。また日を改めて、ご挨拶に伺いますから、宜しくお願いします」 吉羅は淡々と挨拶をした後、香穂子を連れて外に出た。 車のトランクに荷物を入れて、素早く車に乗り込んだ。 「香穂子、今日は有り難う」 吉羅がいつもどおりの調子で言ったものだから、香穂子は一瞬何を言われたのかが、解らなかった。 「君がうちに来てくれるという宣言は、嬉しかったよ」 「有り難うございます」 香穂子が素直に礼を言うと、吉羅は柔らかな笑顔を見せた。 六本木の吉羅の自宅に到着すると、直ぐに荷物をほどく。 殆どがヴァイオリン関係の荷物だ。 「うちは防音だから心配しなくて大丈夫だ」 「有り難うございます。ヴァイオリンを沢山練習が出来るので嬉しいです」 「それは良かった」 吉羅は静かに言うと、香穂子をそっと抱き寄せてくる。 こうして抱き締められるだけで、なんて幸せなのだろうかと、香穂子は思わずにはいられなかった。 「私は当分君を離す気はないからね。覚悟したまえ」 「…はい…」 当分。 その言葉が気にかかる。 きっと飽きてしまえば、吉羅は香穂子なんて簡単に捨ててしまうだろう。 それが解っているからこそ、胸が痛い。 切なくて辛い。 本当に息が出来ないほどだ。 香穂子が深刻な想いを抱いているのに気付いたのか、吉羅はふと、顔を覗きこんでくる。 「どうしたのかね? 疲れて気分でも悪いのかね?」 「大丈夫です。気分は悪くありません」 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅は頬のラインを撫であげてきた。 「なら…良いが…。香穂子…、ここにいる限りは、私は君の幸せを保障する。だから安心したまえ」 「有り難うございます」 ここにいる限り。 いったい、いつまで吉羅のそばにいることが許されるのだろうか。それだけを考えるだけで、香穂子は胸が激しく痛くなる。 吉羅のそばにいられるのが永遠であれば良かったのに、それは許されないことであるようだ。 吉羅は、まるで香穂子の不安を拭い去るように、深いキスをしてくる。 キスの官能に溺れながらも、ここにはほんの少しでも愛情が滲んでいるのだろうかと、考えてしまう。 そのままキスが熱くなり、香穂子は吉羅が紡ぐ愛の世界に溺れ始めた。 ベッドの上で抱き締められている時間が、本当に嬉しくも幸せな時間だ。 「香穂子、君のスケジュールを教えてはくれないかな?」 「はい」 香穂子は、近くにあるバスローブに手を伸ばして羽織ると、手帳をバッグから出すためにベッドを下りた。 「おやすみは土曜日ですね…、CDの録音だとか、後はレストランでのミニコンサートの打ち合わせや、音合わせも入っていますから、まあまあ忙しいでしょうか」 「…そうだね…。私も仕事関係の会合やパーティなどがあるから、当分は忙しい」 「パーティは同席しなくても構わないですか?」 「ああ。君は来なくて構わない。私ひとりで何とか出来るパーティだからね。基本的にはパーティには君は余り顔を出さなくて良いから」 「はい」 ホッとしたような何処か切ないような複雑な気持ちだ。 吉羅と共にパーティに参加するのも良いが、気を遣って疲れるからとでも思っているのだろう。 「吉羅さん、私が必要な時はちゃんと言って下さいね。一緒に行きますから」 「ああ。有り難う」 吉羅は静かに言うと、香穂子を抱き寄せる。 「香穂子、余程、大切な用でない限りは、夜は真っ直ぐここに帰ってくるんだ」 吉羅の口調は命令風で、とても厳しい。 まるで香穂子の今後を監視しているかのようだ。 それは余りにも辛い。 「君の仕事に行く足は私が手配をする。そのためにも、スケジュールをきちんと教えて欲しい」 「手配されなくても大丈夫です。今まで自分でちゃんとやってきましたから、これからもきちんと出来ます」 「何かあったら困るからだ。君が私の“婚約者”であることは、皆に知られているからね。危険に晒されやすいんだよ」 吉羅は淡々と、何処か義務のように言う。 それが香穂子には辛い。 まるで囲われ物だ。 一緒に住んではいるが、永続的な関係を吉羅自身が望んでいるわけではないのだ。 愛人。 それが一番相応しい言葉なのかもしれない。 「ひとりで出来るところは自立していたいんです。だから、自分でちゃんと行動します」 香穂子は吉羅に対して強い調子で言ったが、全く効果はなかった。 「…吉羅さん、お願いします」 「君がいくら頼んでも駄目なものは駄目だ。君の安全はきちんと確保しなければならないからね。だからこれは受け入れるんだ。私が出来る場合は、ちゃんと私が送り届ける」 吉羅は香穂子を宥めるように背中を撫でてきた。 吉羅は解っているだろうか。 自分がしていることが、束縛にほかならないことを。 もし愛があるならば、これほどまでに嬉しいことはない。 だが、そこに愛はなく、ただの独占欲だけであったらならば? これほど重くて甘い切なさはないだろう。 従ってはいけないのに、従いたい自分がいる。 吉羅に束縛されたい自分がいる。 泣きそうになるぐらいの恋心に、香穂子は潰れてしまうのではないかと思った。 「明日から手配をかけておくから。君は安心して仕事に打ち込むと良い」 「…はい」 「後、家事はしなくて良いから。クリーンスタッフがしてくれる。食事は夕食についてはデリバリーを頼んであるから。ヴァイオリニストの指先は大切だからね」 「…はい、有り難うございます…」 デリバリーなんて味けがない。 本当にここにいるのは、吉羅を喜ばせるだけのためのような気がする。 どうしてこんなにも切ないことが、平気で出来てしまうのだろうか。 そして、嫌われるのが、離れるのが嫌で、頷くことしか出来ない自分。 香穂子は泣きたくなるのを何とか堪える。 それぐらいに吉羅のことを愛してしまっていた。 |