*嘘恋*

17


 香穂子の気持ちを汲むかのように、吉羅が左手をギュッと握り締めてきてくれた。
 それが嬉しくて、華やいだ気持ちなる。
「吉羅さん、娘を宜しくお願いします」
「…はい。解りました」
 吉羅はほんの一瞬だけ、表情を和らげる。そこには愛しか感じられなかった。
「香穂子、必要な荷物をまとめたまえ。待っているから。後は追々取りに来れば良い」
「解りました」
 香穂子は立ち上がると、荷物をまとめに自室へと向かった。
 荷物をまとめていると、母親が手伝いに来てくれた。
「ヴァイオリンだとか、音楽関係のものを持っていくね」
「そうね、トランクに入るのは限られているから…」
 母親は手伝ってくれながらも、何処か切ないまなざしで見つめてくる。
「香穂子、家のために吉羅さんのところに行くのであれば、お母さんは反対よ。あなたに辛い想いをさせたくないもの…」
「大丈夫だよ、お母さん。そんなことはないんだ…。…私…、吉羅さんが好きでしょうがないから…。本当に…」
 報われなくても吉羅のことば好きでたまらない。
 香穂子は母親に素直な目を向けて、優しく笑った。
「そうだったのね。あなたの表情を見ていたら、嘘は吐いていないのが分かるわ。だったら…お母さんは何も言わないわ、香穂子…」
「有り難うお母さん」
 香穂子は涙ぐみながら、母親に甘えるようにそっと抱き付いた。

 荷物を片付け終わると、母親とふたりで下に下ろす。
 それを途中から吉羅が持ってくれた。
「では申し訳ありませんが、私たちはこれで戻ります。また日を改めて、ご挨拶に伺いますから、宜しくお願いします」
 吉羅は淡々と挨拶をした後、香穂子を連れて外に出た。
 車のトランクに荷物を入れて、素早く車に乗り込んだ。
「香穂子、今日は有り難う」
 吉羅がいつもどおりの調子で言ったものだから、香穂子は一瞬何を言われたのかが、解らなかった。
「君がうちに来てくれるという宣言は、嬉しかったよ」
「有り難うございます」
 香穂子が素直に礼を言うと、吉羅は柔らかな笑顔を見せた。

 六本木の吉羅の自宅に到着すると、直ぐに荷物をほどく。
 殆どがヴァイオリン関係の荷物だ。
「うちは防音だから心配しなくて大丈夫だ」
「有り難うございます。ヴァイオリンを沢山練習が出来るので嬉しいです」
「それは良かった」
 吉羅は静かに言うと、香穂子をそっと抱き寄せてくる。
 こうして抱き締められるだけで、なんて幸せなのだろうかと、香穂子は思わずにはいられなかった。
「私は当分君を離す気はないからね。覚悟したまえ」
「…はい…」
 当分。
 その言葉が気にかかる。
 きっと飽きてしまえば、吉羅は香穂子なんて簡単に捨ててしまうだろう。
 それが解っているからこそ、胸が痛い。
 切なくて辛い。
 本当に息が出来ないほどだ。
 香穂子が深刻な想いを抱いているのに気付いたのか、吉羅はふと、顔を覗きこんでくる。
「どうしたのかね? 疲れて気分でも悪いのかね?」
「大丈夫です。気分は悪くありません」
 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅は頬のラインを撫であげてきた。
「なら…良いが…。香穂子…、ここにいる限りは、私は君の幸せを保障する。だから安心したまえ」
「有り難うございます」
 ここにいる限り。
 いったい、いつまで吉羅のそばにいることが許されるのだろうか。それだけを考えるだけで、香穂子は胸が激しく痛くなる。
 吉羅のそばにいられるのが永遠であれば良かったのに、それは許されないことであるようだ。
 吉羅は、まるで香穂子の不安を拭い去るように、深いキスをしてくる。
 キスの官能に溺れながらも、ここにはほんの少しでも愛情が滲んでいるのだろうかと、考えてしまう。
 そのままキスが熱くなり、香穂子は吉羅が紡ぐ愛の世界に溺れ始めた。

 ベッドの上で抱き締められている時間が、本当に嬉しくも幸せな時間だ。
「香穂子、君のスケジュールを教えてはくれないかな?」
「はい」
 香穂子は、近くにあるバスローブに手を伸ばして羽織ると、手帳をバッグから出すためにベッドを下りた。
「おやすみは土曜日ですね…、CDの録音だとか、後はレストランでのミニコンサートの打ち合わせや、音合わせも入っていますから、まあまあ忙しいでしょうか」
「…そうだね…。私も仕事関係の会合やパーティなどがあるから、当分は忙しい」
「パーティは同席しなくても構わないですか?」
「ああ。君は来なくて構わない。私ひとりで何とか出来るパーティだからね。基本的にはパーティには君は余り顔を出さなくて良いから」
「はい」
 ホッとしたような何処か切ないような複雑な気持ちだ。
 吉羅と共にパーティに参加するのも良いが、気を遣って疲れるからとでも思っているのだろう。
「吉羅さん、私が必要な時はちゃんと言って下さいね。一緒に行きますから」
「ああ。有り難う」
 吉羅は静かに言うと、香穂子を抱き寄せる。
「香穂子、余程、大切な用でない限りは、夜は真っ直ぐここに帰ってくるんだ」
 吉羅の口調は命令風で、とても厳しい。
 まるで香穂子の今後を監視しているかのようだ。
 それは余りにも辛い。
「君の仕事に行く足は私が手配をする。そのためにも、スケジュールをきちんと教えて欲しい」
「手配されなくても大丈夫です。今まで自分でちゃんとやってきましたから、これからもきちんと出来ます」
「何かあったら困るからだ。君が私の“婚約者”であることは、皆に知られているからね。危険に晒されやすいんだよ」
 吉羅は淡々と、何処か義務のように言う。
 それが香穂子には辛い。
 まるで囲われ物だ。
 一緒に住んではいるが、永続的な関係を吉羅自身が望んでいるわけではないのだ。
 愛人。
 それが一番相応しい言葉なのかもしれない。
「ひとりで出来るところは自立していたいんです。だから、自分でちゃんと行動します」
 香穂子は吉羅に対して強い調子で言ったが、全く効果はなかった。
「…吉羅さん、お願いします」
「君がいくら頼んでも駄目なものは駄目だ。君の安全はきちんと確保しなければならないからね。だからこれは受け入れるんだ。私が出来る場合は、ちゃんと私が送り届ける」
 吉羅は香穂子を宥めるように背中を撫でてきた。
 吉羅は解っているだろうか。
 自分がしていることが、束縛にほかならないことを。
 もし愛があるならば、これほどまでに嬉しいことはない。
 だが、そこに愛はなく、ただの独占欲だけであったらならば?
 これほど重くて甘い切なさはないだろう。
 従ってはいけないのに、従いたい自分がいる。
 吉羅に束縛されたい自分がいる。
 泣きそうになるぐらいの恋心に、香穂子は潰れてしまうのではないかと思った。
「明日から手配をかけておくから。君は安心して仕事に打ち込むと良い」
「…はい」
「後、家事はしなくて良いから。クリーンスタッフがしてくれる。食事は夕食についてはデリバリーを頼んであるから。ヴァイオリニストの指先は大切だからね」
「…はい、有り難うございます…」
 デリバリーなんて味けがない。
 本当にここにいるのは、吉羅を喜ばせるだけのためのような気がする。
 どうしてこんなにも切ないことが、平気で出来てしまうのだろうか。
 そして、嫌われるのが、離れるのが嫌で、頷くことしか出来ない自分。
 香穂子は泣きたくなるのを何とか堪える。
 それぐらいに吉羅のことを愛してしまっていた。



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