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吉羅との生活が始まった。 婚約者としてではなく、ただの愛人としての生活だ。しかも監視付き。 一部の人間は、香穂子が吉羅の婚約者としての認識があるから監視したいのかもしれない。 そんなものは知らない。 だが、吉羅のことを好きで堪らないから、監視を受けてしまうのだ。 今日は、土浦との初めての音合わせの日だ。 香穂子は指定されたスタジオへ、吉羅が手配した車で向かう。 ひとりで大丈夫だと言ったのだが、受け入れて貰えなかった。 香穂子は、スタジオに入り、ホッとする。 ひとりになれたことが、嬉しかった。 「日野さん、こんにちは。今日は宜しく」 土浦が楽譜を片手に現れ、香穂子に爽やかに挨拶をしてくれるのが好感が持てた。 「…土浦さん、こんにちは」 笑顔で挨拶をすると、土浦は笑顔で返してくれる。 吉羅とは違う種類の笑顔。 何処か夏の光を思い起こさせる土浦の笑顔が眩しくて、香穂子は思わず微笑んだ。 「同じ年だし、お互いに堅苦しいのは抜きにしないか?」 「そうだね。じゃあ堅苦しいのは抜きにしよう」 お互いに微笑むと、何だか気安い雰囲気が好ましくなる。 「じゃあ練習を始めよう」 「はい」 香穂子は頷くと、土浦のピアノにあわせてヴァイオリンを演奏し始めた。 これほどまでに弾きやすいピアノ伴奏はないかもしれない。 しっくりとした形でヴァイオリンを奏でることが出来た。 ふたりで話し合いながらアレンジを加えたり、熱心に曲を完成させていく。 流石は指揮者を目指しているだけあって、土浦は香穂子に良い刺激を与えてくれた。 スタジオのレンタル時間ギリギリまでいた後、ふたりは雑談をしながらスタジオから出た。 スタジオから出た瞬間、香穂子は息を呑む。 吉羅暁彦が厳しいまなざしをふたりに向けながら立っていた。 「香穂子、帰るぞ」 「…あ、あの…」 吉羅は有無言わせないとばかりに、香穂子の手首を取ると、そのまま車まで引っ張っていく。 「…あ、あの、土浦くん、またね!」 「ああ、また」 土浦が呆気に取られている間に、香穂子は車に乗せられてしまう。 そのまま、シートベルトを手早くされたかと思うと、吉羅は車を発進させた。 ちらりと吉羅を見つめると、かなり怒った顔でステアリングを握っている。 究極に冷たい顔だというのは、直ぐに理解出来た。 「…あ、あの…迎えに来て下さって有り難うございます。嬉しかったです」 香穂子が素直に言っても、吉羅の顔は冷たいままで、返事もしてはくれない。 こんなにも切ない仕打ちはないと思いながら、香穂子は軽く唇を噛んだ。 吉羅は何も語らないまま、六本木の自宅へと車を猛スピードで走らせていった。 吉羅の家に到着した後、香穂子は腕を引っ張られて部屋の中に入る。 ふたりきりになった瞬間に、激しくも乱暴なキスを浴びせられた。 「…吉…羅…っ!」 痛みを伴うキスに涙が滲む。 まるで香穂子に仕置でもしているかのようだ。 痛いキスの後で、今度は宥めるようなキスへと変わっていった。 柔らかく甘いキス。 そのギャップに翻弄されながら、香穂子は吉羅に溺れていく。 いつしか、自分から求めて吉羅にキスをねだる。 香穂子は吉羅と甘いキスを何度も重ねながら、いつしかベッドに運ばれる。 組み敷かれて見つめ合うと、吉羅が冷たい光を投げて来る。 「…香穂子、君は私のものだということを、忘れていないのかね?」 「…忘れる前に、私は誰のものでもありません…」 香穂子は、吉羅の魅力に抗うことが出来なくて、ただ消え入るような声で言うのが、精一杯だった。 「…君は何も解ってはいない。君は私のものだ。他の男に色目を使うことは許されない」 吉羅の心底ゾッとする声に、香穂子は顔を逸らせる。 「色目なんて使ったことはありません。これだけは誓えるわ」 「だったらさっきの男は何だね? 君は本当に解ってはいない…。他の男のものではなく私のものであることを、きちんと言い聞かせなければならないね」 「やっ…!」 吉羅は、乱暴に香穂子の衣服を剥ぐと、そのまま躰を激しく重ねてくる。 嫉妬してくれているならば、こんなにも嬉しいことはないというのに。 香穂子は吉羅の激しさを受け入れてしまう自分に、切ない想いを抱いていた。 吉羅に激し過ぎる程に愛されてしまい、香穂子は起き上がることが出来なくなっていた。 ぼんやりとしていると、シャワーを浴び終えた吉羅が、ゆっくりと近付いてきた。 「…目が覚めたかね?」 「…はい…」 吉羅に顔を撫でられて、少しではあるが、とても気持ちが良い。 「無理をさせてしまったかね?」 「何とかこうしていられるから、大丈夫だと思います」 香穂子がふわりと微笑むと、吉羅は労るように抱き締めてくれた。 「香穂子、こうして私と一緒にいる間は、他の男は許さないからそのつもりで」 「…吉羅さん…」 嫉妬がむき出しな言葉は嬉しい。 だが、吉羅が愛してくれているかといえば、否だ。 吉羅はただ、自分が所有している女を、今だけは放したくないとぐらいにしか思ってはいないのだろう。 それが苦しい。 「お腹は空かないかね?」 「大丈夫です」 「少しぐらいは君も余分に食べなさい。夕食を用意するから、しっかりと食べるんだ。良いね」 「…はい」 あれ程までに激しい嫉妬を見せてきたというのに、吉羅はスマートな対応に戻っている。 「香穂子、レストランのコンサートのリハーサルは、いつも私が送り迎えをするからそのつもりで」 「…はい…」 送り迎えを吉羅自身がしてくれるのが嬉しい。 「送り迎えを吉羅さんがして下さるのが、嬉しいです」 香穂子が素直に言うと、吉羅は僅かに不快そうに顔を歪める。 本当にこころからそう思っているのに、吉羅はそれが気に入らないようだ。 本当に泣きそうになる。 逆らっても、素直になっても、吉羅が不快に思っているのには違いないようだ。 香穂子は、はにかんだ笑顔を引っ込めると、小さく俯く。 嫌われているのだろう。 こうして常に不快な表情を浮かべるのだから。 嫌っているのに、どうして毎晩のように激しく抱くのだろうか。 嫌っているのに、どうしてこんなにも束縛してくるのだろうか。 訳が解らなくなる。 香穂子がずっと俯いていると、吉羅が顔を覗き込んできた。 「どうしたのかね?」 「…何でもありません…。大丈夫です…」 香穂子がふと寂しい笑みを浮かべて俯くと、突如、吉羅が柔らかく抱き締めてきた。 「…大丈夫かね? 具合が悪いとかはないのか?」 吉羅が背中を擦りながら、まるで子どもにするように宥めてくる。 こうして優しくされると、勘違いする。 優しくされると、愛されているのではないかと錯覚してしまう。 香穂子は、吉羅の胸に抱き締められながらも、こころが全く満たされていないことに気付いていた。 愛されたい。 そんな気持ちを抱くのは、身勝手なのだろうか。 「…香穂子…?」 吉羅は香穂子の頬を両手で包み込むと、ゆっくりとその瞳を覗き込んでくる。 「どうかしたのかね? 本当に…」 「…何でもないです。…吉羅さんは、どうして私なんかと一緒にいるのかと思っただけです…。あなたなら、もっと美しいひとが喜んでそばにいてくれるだろうから…。私は必要な…い…」 ここまで言ったところで強く抱きすくめられる。 その抱擁の強さに、香穂子の呼吸は止まりそうだった。 |