*嘘恋*

19


「君をそばに置きたいからだ。それだけだ。私も、嫌な相手をそばに置く程ボランティア精神に富んでいるわけではないからね」
 吉羅はキッパリと言うと、香穂子の華奢なボディラインをなぞってくる。
「…最近、君は忙しくて疲れているかもしれないね。少し遠出でもするか…。行きたいところはないかね?」
「湘南の海が見たいです…」
「解った。来週の休みにふたりで行こうか」
「はい。楽しみにしています。有り難うございます」
 香穂子がニコリと微笑むと、吉羅は力強く抱き締めてくれる。
 優しさと冷たさ。
 その相反する吉羅の感情は何処から来るのだと、香穂子はぼんやりと考えていた。

 レストランコンサートの打ち合わせの帰りに、吉羅は約束通りに迎えにきてくれた。
 フェラーリから降り立った吉羅は、いつもよりも上質なスーツを身に着けていた。
「香穂子、君をうちに送ったら、直ぐに出かけなくてはならない。すまないが、夕食はひとりでお願いするよ」
「解りました」
 今や大会社を抱える吉羅には、色々と会合や接待がある。それは致し方がないことだ。
 だが忙しい合間を塗って、こうして迎えに来てくれるのが、とても嬉しかった。
 吉羅が家まで送ってくれ、香穂子は吉羅を送り出す。
「いってらっしゃい」
「ああ」
 吉羅はフッと柔らかく微笑むと、何処か心配そうに香穂子の頬に手を当てた。
 吉羅がこうしているのは、恐らくは保護欲が大きいからだろう。
 吉羅にとっては、香穂子は保護をするのにちょうど良い相手なのかもしれない。
 吉羅を見送った後、手配されたオーガニックな健康デリバリーを食べ、後はヴァイオリンの練習に集中する。
 ヴァイオリンを弾くのは大好きだ。
 落ち着きをくれる。
 香穂子は、レストランコンサートに弾く予定の楽曲をひたすら練習する。
 良いコンサートになりますように。
 香穂子はそれだけが望みだった。

 朝、目覚めると、吉羅は帰って来てはいなかった。
 携帯電話が点滅していて、メールが受信されている。
 メールは吉羅からのもので、それを見ると、落胆が溢れてきた。
 
 香穂子へ。
 今夜は帰れそうにない。
 今日のリハーサルの車を手配しておいたから、それに乗りたまえ。
 迎えにも行けない。
 暁彦。

 冷たい淡々としたメールに、香穂子は落胆する。
 帰っては来ない。
 その答えに香穂子は動揺する。
 他の女性と一緒に過ごしたのだろうか。
 そう思うと、大声で啼いてしまいそうになる。
 もしそうならば、間も無く棄てられてしまうだろう。
 飽きてしまったから御役御免なのだろう。
 泣いても解決出来ない程に切なくて、香穂子は唇を噛み締めた。

 その日のリハーサルは、余り指が動かなかった。
 かなり動揺しているのは事実だ。
「今日は調子が悪そうだが、何かあったのか?」
 香穂子のメロディの乱れぶりに、土浦が怪訝そうに眉を寄せた。
「何でもないよ」
「音楽はメンタルな部分に影響を受けやすいからな。早く、回復すると良いな」
 土浦は、あえて理由を訊かずに、さらりと流してくれる。
 その気遣いが香穂子には嬉しかった。
「有り難う、土浦くん。あなたが伴奏を引き受けてくれて、私は物凄く幸せだよ」
「有り難うな。じゃあ、もうひとがんばりするか」
「そうだね」
 土浦に癒されながら、香穂子はヴァイオリンを奏でる。
 先ほどよりも、ほんの少しだけ、調子を取り戻したような気がした。

 リハーサルが終わり、いつものようにビルの入り口で土浦と別れる。
 今日は吉羅の会社の運転手が、迎えに来てくれていた。
「有り難うございます。お願いします」
「いつもあなたは礼儀が正しいね」
 運転手はにっこりと笑って会釈をすると、丁寧にドアを閉めてくれる。
「いつも事故なく運転して下さっているのですから、当たり前です」
 香穂子はにっこりと笑うと、運転手を見つめた。
「きょうび珍しい子だね」
 運転手は静かに車を出す。
 香穂子はほんの少しだけ、胸が痛かった。
 高級店が並んでいる通りにさしかかったところで、吉羅と美しい女性が、肩を並べて仲睦まじく歩いている姿が、視界に飛び込んできた。
 一瞬で通り過ぎた筈なのに、まるでスローモーションのようだ。
 香穂子はこころが麻痺してしまうのを感じながら、握り拳を作った。
 そこからは殆ど覚えてはいない。
 一瞬だけ見えた吉羅と美しい女性の姿だけが頭に過ぎってしまい、何も考えられない。
 吉羅の家に着いてからも、そのことで頭がいっぱいになってしまい、何も手がつけられなかった。
 昨日帰って来なかったのも、きっとそれが原因なのだろう。
 ああして恋人がいるのであれば、もう婚約者である理由は何処にもない。
 婚約者のふりもしなくてよくなるのだ。
 そう思うと、泣きたいぐらいに苦しくなった。
 吉羅は間も無く飽きてしまうだろう。
 今夜あたり、必要なくなったと言うかもしれない。
 香穂子は涙を零しながら、上を向く。
 乗り切ることが出来るだろうか。
 そう考えてしまうほどに、吉羅を深く愛してしまった。
 香穂子は食事も余り手をつけないままで、悶々としていた。
 お風呂に入る時間になっても、眠る時間になっても、吉羅は帰っては来ない。
 香穂子は、ベッドに入って眠るのが切なくて、リビングのソファの隅で、毛布にくるまって眠った。

 翌朝、香穂子はベッドで目を覚ました。
 シャワーを浴びる音が遠くに聞こえて、吉羅が帰ってきて、ここまで抱き上げて運んでくれていたことに気付いた。
 躰をゆっくりと起こすと、吉羅がバスローブ姿で寝室にやって来る。
「起きたのか?」
「はい…。起きました…」
 香穂子は、吉羅の冷たいまなざしに強く晒されているのを感じながら、僅かに目を伏せた。
「何をしていたからは知らないが、あんなソファの下に眠ることはないだろう。風邪を引く。君は自分の躰のことを全く考えてはいないのかね? 全く…だから非常識な子どもなんだ…」
 吉羅は禍々しいもののように言いながら、香穂子を責めるように見つめる。
「ごめんなさい…」
 香穂子は小さく呟くと、それ以上は反応しなかった。
「…気をつけます…」
 小さく言うと、香穂子はベッドから出て、リビングへと向かう。
「待ちなさい」
 吉羅は、まだ説教は終わっていないとばかりに、香穂子の手首を強く掴んだ。
「…あ…!」
 香穂子を腕の中に閉じ込めると、両手で頬をつつみこんで、上を向かせる。
「きちんと反省するんだ。香穂子」
「…申し訳ないと思っています…。それは確かです」
 香穂子が目を伏せると、吉羅は何処か苛立つような視線を向けた。
「香穂子、君は本当に何も解ってはいない子どもだ。もっと大人になれないのかね!?」
 吉羅の容赦がない言葉に、香穂子は凜としたまなざしを向ける。
「…なれない…」
「…え?」
「申し訳ありませんが、私はあなたのいう“大人”にはなれないようです。もっと大人の方を探されて下さい」
 香穂子は、吉羅から決して引くまいと思いながら、挑発するように見上げる。
「…君は何を言う…」
「私は私でしかなれないから、いくら頑張っても、子どもなんです。吉羅さんの望みを叶えることは出来ません」
 香穂子の言葉に、吉羅の表情は、更に厳しく冷たいものになった。
「…解った…。今夜はパーティがあるが、君は連れてはいかない。他の女性と向かう」
「解りました」
 香穂子はそれだけをキッパリと言い切った。



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