*嘘恋*

20


 恐らくは最初から別の女性を手配していたのだろう。
 香穂子を連れて行くのは、きっとリスクが大きいと判断したのだろう。
 恐らくはこれで御役御免のはずだ。
 ここにいないほうが良いのだ。
 自分の純粋な荷物なんて、ヴァイオリンと着て来たものしかないから、香穂子の荷物をまとめるのは楽だろう。
「今日はリハーサルは何時からかね?」
「きょうはリハーサルはおやすみです」
 香穂子は吉羅の視線から逸らせたままで呟いた。
「他のスケジュールはどうなっているのかね?」
「他のスケジュールはないです。今日はおやすみですから…」
 香穂子が言うと、吉羅は頷いた。
「ならば今日はここにいるんだ。何処にも行かずに、ここにいなさい」
「ここにずっとはいたくはないです…」
 香穂子が息苦しさを感じながら呟くと、吉羅は困ったような笑みを向ける。
「…パーティには連れてはいかないが…、それまでは一緒にいるかね? CEO室にいれば、少しは気が晴れるだろうから。四時には出て貰わなければならないから、それまでだが…」
 いつもは厳しく冷たい吉羅が、今日はとても優しい。
 綺麗な誰かと一緒だから、罪悪感でもあるのだろう。
「…無理をされなくても構いませんから。…私はひとりでここにいます…。今日は…」
 香穂子が視線を落とすと、吉羅は不意に抱き締めてきた。
「やはり連れて行く。君をひとりには出来ない」
 吉羅は香穂子から抱擁を解くと、その手を掴んだ。
「…大丈夫ですから本当に…。余り心配をされないで下さい…」
 香穂子はわざと微笑んだが、吉羅はそれでも聞かない。
「これは私のわがままだ。一緒に来るんだ。ランチも食べに行こうか」
 吉羅の優しさに、香穂子はつい折れてしまう。
 冷たくされても、基本的にはとても優しいひとだから、なかなか思い切ることが出来ない。
 香穂子はつい頷いてしまう。
「解りました」
「有り難う」
 香穂子は吉羅と一緒に、結局は行くことになる。
 吉羅の車にヴァイオリンだけを持って乗り込む。
 唯一の自分のものであるヴァイオリン。
 荷物はこれと、着てきた衣服だけだ。
 姿を消すのには、とても簡単に姿を消せる。
 吉羅の車に揺られながら、香穂子は発生してしまった恋心にどう蹴りをつければ良いのか。
 そればかりをずっと考えていた。

 吉羅と共にCEO室に入り、香穂子は楽譜を読んでアレンジすることに集中する。いつまでも恋のセンチメンタリズムにはまっていてもしょうがないのだから。
 休憩をして時折、吉羅の様子を見る。
 とても精力的に仕事をしている姿が、とても凛々しくて素敵だ。
 いつかこのひとにも、こころから守りたい相手が現れるだろう。
 その女性は恐らく自分ではない。愛人になる女としか考えてはいないだろうから。
 CEO室のブラインドを通して躍動感が溢れる夏のひかりが滲んでくる。それに照らされた吉羅は、なんと素晴らしいのかと思う。独特の影を作る横顔は、恐らく、命が尽きるまで見つめていても、飽きないだろう。
 だが、それは許されないことだ。
 香穂子はフッと涙を瞳の奥に隠すと、再び楽譜に集中する。
 もう自分にはヴァイオリンしかないのだから。

「香穂子、一区切りついたから、ランチでも行かないか」
 声を掛けられて、香穂子はハッとして顔を上げる。
「あ、そんな時間ですか? 喜んで行きます」
 時計を見れば一時前。ランチタイムのラッシュを免れる時間帯だ。
「行こうか。この近くに美味しいイタリアンがあるから」
「楽しみです」
 香穂子が頷くと、吉羅は立ち上がり、エスコートするように手を差し延べてくれた。
「行こうか?」
「はい」
 吉羅は香穂子の手を握り締めると、ふと左手薬指を見つめる。
 指環をずっと外していたのだ。
「指環はどうしたのかね? お嬢さん」
 指環をしていると、余計に吉羅のものでない自分を感じられて哀しくなるからなんて言えやしない。
「…ヴァイオリンを練習する時はいつも外しているんですよ」
 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅は薬指を意味ありげになぞってくる。
 その官能的な動きに、香穂子は思わず呼吸を詰まらせた。
「…ここにはずっと指環をはめているんだ」
 まるで永遠にそのリングフィンガーが自分のものであるかのように、吉羅は呟く。
 そうであって欲しい。
 だがそうでないのが現実だ。
「気をつけますね…」
 香穂子が寂しく微笑むと、吉羅は強く手を握り締めてきた。

 ランチにと連れて行ってくれたイタリアンレストランは、高級店でありながらも肩の凝らないカジュアルさが人気の店だ。
 そこで吉羅がオススメのものを頼んだ。
「美味しそうです! こんなランチはとても嬉しい」
 香穂子が素直に微笑むと、吉羅もまた魅力的な笑みを返してくれる。
 吉羅の笑みは艶が滲んで大人びたものであるが、何処か少年のような可愛さも持っている。
 僅かに目印に刻まれた皺が、彼の年齢を現していたが、それすらも魅力的に映った。
「こんなに喜んでくれるなら、また、このような機会を持たなければならないね」
「有り難うございます」
 吉羅の言葉は永続的な響きを持っているような気がする。
 だが、それが刹那的なものであることは、香穂子が一番理解している。
 飽きられたら終わりの関係なのだから仕方がない。
 これ以上のステップアップは望めそうにもないのだから。
 香穂子は胸の端々が痛むのを感じながら、吉羅に笑顔を向けた。
 食事は最高に美味しい。
 目の前にはとても素敵なひと。
 そして、刹那的な愛が溢れている。
 これ以上のことを吉羅に望んではならないのに望んでしまうのは、わがままなのだろうか。
 香穂子は痛い笑みを浮かべながら、ランチタイムを楽しんでいた。

 食事が終われば、吉羅と過ごす時間は後少しだ。
 四時には帰らなければならない。
 恐らくは、吉羅の本来のパートナーがやってくるのだろう。
 四時前に香穂子は、約束通りに後片付けを始めた。
「香穂子、下の駐車スペースに車を用意したから、乗って帰るんだ」
「解りました」
 香穂子は頷くと、ソファから立ち上がる。
「では帰ります」
「気をつけて帰りなさい」
 香穂子は頭を下げると、荷物を持ってCEO室を出た。
 2台のエレベーターがこちらに同時にやってくるのが解る。
 香穂子は早く着いたエレベーターに乗り込んだ。
「…あ…! ヴァイオリン!」
 慌てて片付けたので、ヴァイオリンケースを忘れてしまっていた。
 直ぐにエレベーターを乗り直して、香穂子はCEO室へと向かう。
 慌てていたので、ノックをした後直ぐに、ドアを開けた。
 その瞬間、吉羅の呆れ果てるような厳しいまなざしと、美しい落ち着いた雰囲気の女性の驚いたようなま なざしとぶつかる。
 女の美しい指先が、吉羅の頬に添えられている。
 香穂子は心臓が止まってしまうのではないかと思った。
 昨日、吉羅と歩いていた女性だ。
 今日のパーティのパートナーは彼女なのだろう。
 香穂子は咄嗟に悟ると、静かに目を伏せた。
「申し訳ありません。ヴァイオリンを忘れてしまいました」
 香穂子は胸が痛くて呼吸が上手く出来ないと感じながら、吉羅に静かに言う。
 香穂子はヴァイオリンケースを直ぐにソファから取ると、ドアの前で深々と頭を下げた。
「失礼致しました。吉羅さん」
 涙がこぼれ落ちないように最新の注意を払うと、香穂子は直ぐに背筋を伸ばして踵を返した。
 幸いにもエレベーターは直ぐに来る。
 乗った瞬間、涙がこぼれ落ちた。



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