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いつもの駐車スペースに行くと、いつもと同じ運転手がいつも通りに迎えてくれた。 「…お願いします」 「じゃあ出しますよ」 いつもと同じ会話。 だけど胸が痛い。 「あの、5分だけ楽器店に寄って頂いて構いませんか…?」 「解りました」 香穂子が正確に楽器店の住所を告げると、運転手は直ぐに向かってくれた。 顔見知りの楽器店だから、ヴァイオリンを預かってくれるだろう。 ここで預けて、明日、吉羅の前からフェードアウトをしたら、直ぐに取りに行こう。 香穂子は楽器店に寄ると、顔見知りの店主に懇願する。 「申し訳ないですが、明日までヴァイオリンを預かっては貰えませんか?」 「構わないよ。お預かりしますよ、香穂子ちゃん」 「はい、お願いします。明日の閉店時間には取りに伺います」 「解りました。待っていますよ」 「有り難うございます」 香穂子は、大切なヴァイオリンを楽器店に預けると、直ぐに車に戻った。 運転手もちょうど携帯電話を切ったところだった。 「吉羅さん…ですか?」 「あなたのことを心配のご様子でしたよ。ちゃんと車に乗ったかを確かめられたんです。いつも、送った後はきちんとご報告しているんですよ」 「…そうですか」 吉羅はきっと、香穂子が車に乗らずにいないか監視しているだけなのだ。 香穂子は唇を噛むと、緩やかに車に揺られていた。 吉羅の部屋に戻ると、特にすることはなくてぼんやりとする。 明日、怪しまれずに出て行くために、ヴァイオリンは預けたのだから。 夕食の時間になると、吉羅が手配をしたケータリングが届き、それを細々と食べた。 その後は、お風呂に入り、早めに休むことにする。 明日の服は、ここに来た時に着ていた服にしようと思う。 ランジェリーも総てそうした。 眠る時には、流石に吉羅が用意をしてくれたネグリジェを身に着ける。 眠る時間になって、携帯電話が鳴り響いた。 吉羅だ。 「…はい、香穂子です」 「香穂子、今夜は遅くはなるが、必ず帰るから。後、明日は君が望むように湘南方面へと向かおう」 「はい、嬉しいです。有り難うございます」 「戸締まりは心配してはいないが、しっかりと眠るように。じゃ」 吉羅が電話を切ると、香穂子は暫くぼんやりとしていた。 今夜はこの家で過ごす最後の夜だが、香穂子はベッドでは眠りたくはなかった。 切ない想いを抱くだけだから。 香穂子は立派なソファの上に横たわると、毛布を頭から被る。 そのままうつらうつらと漂い始めた。 朝日を瞼の裏に感じて、眩しすぎて目をゆっくりと開いた。 いつの間にかベッドに寝かされており、吉羅に抱き締められていた。 左手薬指が視界に入りハッとする。 偽物のエンゲージリングは、もうすることはないと思い、外してリングケースに入れてテーブルの上に置いてあったというのに、いつの間にか左手薬指にはめられていた。 こんなことをするのは、吉羅しかいないのは解っている。 どうして今更、エンゲージリングを左手薬指にはめるのだろうか。 もう香穂子の役目は終わってしまうというのに。 吉羅には最高のパートナーと巡り逢えたというのに。 もう偽者の婚約者なんて必要ない筈なのに。 指環がはめられている。 香穂子が身動ぎをすると、吉羅は抱き寄せながら瞳を開けて。 「目覚めたのかね?」 「はい」 「ソファで眠るのは感心しない。いくら言ったら解るのかね? 私のお嬢さんは?」 私のお嬢さん。 その響きに、香穂子はときめかずにはいられない。 今更な筈なのに、どうしてこんなにも女性の扱いが上手いのだろうか。 「…湘南に行こうか? 支度をしよう」 「…はい…」 吉羅と出かけるのもこれが最後だ。 香穂子は失う痛みを抱きながら、吉羅に微笑みを浮かべた。 支度を済ませて、軽い朝食を取ってから、車で湘南へと向かう。 香穂子のワンピース姿を見て、吉羅は一瞬眉を潜めた。 「それよりも湘南に似合うワンピースや服は、幾らでもあるだろう?」 「これが着たかったんです」 香穂子はさらりと笑顔で言うと、吉羅を真っ直ぐ見つめる。 疚しいことなど何もある筈もない。 香穂子は着替えることなく、ここに来た時と同じスタイルで、湘南へと向かった。 湘南へのドライブはやはり快適で、香穂子は清々しい気分になる。 「何か食べたいものはあるかね?」 「生しらすどんぶりが食べたいです。湘南に行かないと、なかなか食べられないですから」 「確かにそうだね」 吉羅が頷くと、香穂子は子どものようににんまりと笑った。 七里ヶ浜で車を置いて、後は江ノ電に揺られる。 これも香穂子が希望したことだ。 今日の吉羅は、香穂子にとても気遣ってくれているのが嬉しい。 香穂子を喜ばせるために様々な努力をしてくれていることにも、感謝している。 だが、恐らくは、別れを切り出したい為だろう。 その前に消えるのだ。 自分から吉羅を解放してあげるのだ。 今、してあげられるのはそれしかないのだから。 しらすどんぶりを食べに江ノ島へと向かう。 吉羅としっかりと手を繋いで、いつも以上にしっかりと指を絡める。 「本当に、こうして吉羅さんと一緒に歩いているだけで楽しいし、幸せです」 香穂子は初めて素直な自分の気持ちを吉羅に伝える。 婚約者のふりをしていたのも、総ては吉羅に喜んで貰いたいからだ。 こうして一緒にいると楽しいからだ。幸せだからだ。 ただそれだけだ。 吉羅と過ごした短い日々は、苦しいことも多かったが、それ以上に幸せな時間が多かった。濃密な時間の流れだった。 不意に吉羅にじっと見つめられていることに気付く。 恥ずかしさと嬉しさが込み上げてきて、香穂子は吉羅をはにかんだまなざしで見つめた。 「吉羅さん?」 吉羅は言葉を紡ぐ前に、香穂子の唇にそっとキスをしてくる。 「…あ…」 「今日の君はとても綺麗だ」 「有り難うございます」 吉羅に面と向かって綺麗だと言われたのは、初めてかもしれない。 それが嬉しくて、香穂子は微笑んだ。 入った店は、漁港の食堂のようなところだったが、生しらすどんぶりはとても美味しかった。 「こういう雰囲気も好きなんです。私」 「それは良かった」 吉羅は、いつものように冷たい不快そうな表情はしない。 香穂子を慈しんでくれているのが、肌で感じられる。 こうして温かな感情を向けて貰うと、香穂子は離れたくなくなる。 だが離れなければならないのだ。 「本当に美味しいですね。幸せな気分になります」 「それは良かった」 ふたりで微笑みあって、穏やかに海を見つめる。 この穏やかさは、別れを覚悟したからこそ持てる穏やかさなのだと思う。 香穂子はにんまりと笑うと、吉羅を見つめた。 「こうしてふたりですごすのは初めてですね。のんびりと出来るのも楽しい」 「これからもこうして過ごそう…。君が望むのであれば…」 「私は何時でも望んでいます」 これが最後だと決めていることを飲み込む。 「私も努力しよう。君とこうした時間が持てるように」 「吉羅さん…」 どうして別れの際になって、吉羅はこんなにも優しいのだろうか。 別れる決心が鈍ってしまうではないか。 香穂子は軽く唇を噛むと、僅かに視線を落とした。 今、別れてしまうのが懸命なのだ。 吉羅のためにも自分のためにも。 なのにどうしてこんなにも辛いのだろうか。 香穂子は瞳が涙で滲むのを感じていた。 |