*嘘恋*

21


 いつもの駐車スペースに行くと、いつもと同じ運転手がいつも通りに迎えてくれた。
「…お願いします」
「じゃあ出しますよ」
 いつもと同じ会話。
 だけど胸が痛い。
「あの、5分だけ楽器店に寄って頂いて構いませんか…?」
「解りました」
 香穂子が正確に楽器店の住所を告げると、運転手は直ぐに向かってくれた。
 顔見知りの楽器店だから、ヴァイオリンを預かってくれるだろう。
 ここで預けて、明日、吉羅の前からフェードアウトをしたら、直ぐに取りに行こう。
 香穂子は楽器店に寄ると、顔見知りの店主に懇願する。
「申し訳ないですが、明日までヴァイオリンを預かっては貰えませんか?」
「構わないよ。お預かりしますよ、香穂子ちゃん」
「はい、お願いします。明日の閉店時間には取りに伺います」
「解りました。待っていますよ」
「有り難うございます」
 香穂子は、大切なヴァイオリンを楽器店に預けると、直ぐに車に戻った。
 運転手もちょうど携帯電話を切ったところだった。
「吉羅さん…ですか?」
「あなたのことを心配のご様子でしたよ。ちゃんと車に乗ったかを確かめられたんです。いつも、送った後はきちんとご報告しているんですよ」
「…そうですか」
 吉羅はきっと、香穂子が車に乗らずにいないか監視しているだけなのだ。
 香穂子は唇を噛むと、緩やかに車に揺られていた。

 吉羅の部屋に戻ると、特にすることはなくてぼんやりとする。
 明日、怪しまれずに出て行くために、ヴァイオリンは預けたのだから。
 夕食の時間になると、吉羅が手配をしたケータリングが届き、それを細々と食べた。
 その後は、お風呂に入り、早めに休むことにする。
 明日の服は、ここに来た時に着ていた服にしようと思う。
 ランジェリーも総てそうした。
 眠る時には、流石に吉羅が用意をしてくれたネグリジェを身に着ける。
 眠る時間になって、携帯電話が鳴り響いた。
 吉羅だ。
「…はい、香穂子です」
「香穂子、今夜は遅くはなるが、必ず帰るから。後、明日は君が望むように湘南方面へと向かおう」
「はい、嬉しいです。有り難うございます」
「戸締まりは心配してはいないが、しっかりと眠るように。じゃ」
 吉羅が電話を切ると、香穂子は暫くぼんやりとしていた。
 今夜はこの家で過ごす最後の夜だが、香穂子はベッドでは眠りたくはなかった。
 切ない想いを抱くだけだから。
 香穂子は立派なソファの上に横たわると、毛布を頭から被る。
 そのままうつらうつらと漂い始めた。

 朝日を瞼の裏に感じて、眩しすぎて目をゆっくりと開いた。
 いつの間にかベッドに寝かされており、吉羅に抱き締められていた。
 左手薬指が視界に入りハッとする。
 偽物のエンゲージリングは、もうすることはないと思い、外してリングケースに入れてテーブルの上に置いてあったというのに、いつの間にか左手薬指にはめられていた。
 こんなことをするのは、吉羅しかいないのは解っている。
 どうして今更、エンゲージリングを左手薬指にはめるのだろうか。
 もう香穂子の役目は終わってしまうというのに。
 吉羅には最高のパートナーと巡り逢えたというのに。
 もう偽者の婚約者なんて必要ない筈なのに。
 指環がはめられている。
 香穂子が身動ぎをすると、吉羅は抱き寄せながら瞳を開けて。
「目覚めたのかね?」
「はい」
「ソファで眠るのは感心しない。いくら言ったら解るのかね? 私のお嬢さんは?」
 私のお嬢さん。
 その響きに、香穂子はときめかずにはいられない。
 今更な筈なのに、どうしてこんなにも女性の扱いが上手いのだろうか。
「…湘南に行こうか? 支度をしよう」
「…はい…」
 吉羅と出かけるのもこれが最後だ。
 香穂子は失う痛みを抱きながら、吉羅に微笑みを浮かべた。

 支度を済ませて、軽い朝食を取ってから、車で湘南へと向かう。
 香穂子のワンピース姿を見て、吉羅は一瞬眉を潜めた。
「それよりも湘南に似合うワンピースや服は、幾らでもあるだろう?」
「これが着たかったんです」
 香穂子はさらりと笑顔で言うと、吉羅を真っ直ぐ見つめる。
 疚しいことなど何もある筈もない。
 香穂子は着替えることなく、ここに来た時と同じスタイルで、湘南へと向かった。
 湘南へのドライブはやはり快適で、香穂子は清々しい気分になる。
「何か食べたいものはあるかね?」
「生しらすどんぶりが食べたいです。湘南に行かないと、なかなか食べられないですから」
「確かにそうだね」
 吉羅が頷くと、香穂子は子どものようににんまりと笑った。
 七里ヶ浜で車を置いて、後は江ノ電に揺られる。
 これも香穂子が希望したことだ。
 今日の吉羅は、香穂子にとても気遣ってくれているのが嬉しい。
 香穂子を喜ばせるために様々な努力をしてくれていることにも、感謝している。
 だが、恐らくは、別れを切り出したい為だろう。
 その前に消えるのだ。
 自分から吉羅を解放してあげるのだ。
 今、してあげられるのはそれしかないのだから。
 しらすどんぶりを食べに江ノ島へと向かう。
 吉羅としっかりと手を繋いで、いつも以上にしっかりと指を絡める。
「本当に、こうして吉羅さんと一緒に歩いているだけで楽しいし、幸せです」
 香穂子は初めて素直な自分の気持ちを吉羅に伝える。
婚約者のふりをしていたのも、総ては吉羅に喜んで貰いたいからだ。
 こうして一緒にいると楽しいからだ。幸せだからだ。
 ただそれだけだ。
 吉羅と過ごした短い日々は、苦しいことも多かったが、それ以上に幸せな時間が多かった。濃密な時間の流れだった。
 不意に吉羅にじっと見つめられていることに気付く。
 恥ずかしさと嬉しさが込み上げてきて、香穂子は吉羅をはにかんだまなざしで見つめた。
「吉羅さん?」
 吉羅は言葉を紡ぐ前に、香穂子の唇にそっとキスをしてくる。
「…あ…」
「今日の君はとても綺麗だ」
「有り難うございます」
 吉羅に面と向かって綺麗だと言われたのは、初めてかもしれない。
 それが嬉しくて、香穂子は微笑んだ。

 入った店は、漁港の食堂のようなところだったが、生しらすどんぶりはとても美味しかった。
「こういう雰囲気も好きなんです。私」
「それは良かった」
 吉羅は、いつものように冷たい不快そうな表情はしない。
 香穂子を慈しんでくれているのが、肌で感じられる。
 こうして温かな感情を向けて貰うと、香穂子は離れたくなくなる。
 だが離れなければならないのだ。
「本当に美味しいですね。幸せな気分になります」
「それは良かった」
 ふたりで微笑みあって、穏やかに海を見つめる。
 この穏やかさは、別れを覚悟したからこそ持てる穏やかさなのだと思う。
 香穂子はにんまりと笑うと、吉羅を見つめた。
「こうしてふたりですごすのは初めてですね。のんびりと出来るのも楽しい」
「これからもこうして過ごそう…。君が望むのであれば…」
「私は何時でも望んでいます」
 これが最後だと決めていることを飲み込む。
「私も努力しよう。君とこうした時間が持てるように」
「吉羅さん…」
 どうして別れの際になって、吉羅はこんなにも優しいのだろうか。
 別れる決心が鈍ってしまうではないか。
 香穂子は軽く唇を噛むと、僅かに視線を落とした。
 今、別れてしまうのが懸命なのだ。
 吉羅のためにも自分のためにも。
 なのにどうしてこんなにも辛いのだろうか。
 香穂子は瞳が涙で滲むのを感じていた。



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