*嘘恋*

22


 生しらすどんぶりを食べ終えて、ふたりは再び歩き出す。
「江島神社にでもお参りに行くかね?」
「何だか弁天様に嫉妬されちゃいそうですよ」
「確かにね」
 吉羅は苦笑いを浮かべると、ぶらぶらと駅に向かって歩いていく。
「こうして歩いていたいです。鎌倉高校前の駅から見える海がとても素敵なんですよ。見に行きませんか? 歩いて」
「そうだね。歩いて見に行こう」
 吉羅は、まるで香穂子が迷子にでもならないようにと、しっかりと手を結んでくる。
 その力強さは本当に心地好いもので、出来るならば生涯放したくはなかった。
 今となればそれも出来ない。
 香穂子は吉羅の横顔をじっと見つめる。
 二度とこの顔を忘れることがないように。
 総てに刻み付けておく。
 こんなにも愛することが出来る相手は、他にはいないだろうから。
 きっと見つからない。
 心地好い風が髪を撫でるのが気持ち良い。
 もうこれ以上ないほどの幸福だ。
「こうして海の近くを歩いているのが、やっぱり気持ちが良いですね。清々しい感じがします」
「そうだね。また君と来たいね、ここへ…」
 香穂子は返事をすることが出来なくて、ただ微笑むだけ。
 それが泣きそうになるほどに哀しい。
「…香穂子」
 吉羅は、何かを感じ取っているのか、不意に香穂子を抱き締めてくる。
 短い抱擁だったので、抵抗することなどなかったのだが、それでも吉羅には珍しいことだった。
 吉羅はフッと甘い笑みを浮かべると、香穂子の手を引いて再び歩く。
「あ! 猫ちゃんです」
 香穂子が歓声を上げて近付くと、吉羅も着いてきてくれる。
「お前は本当に可愛いね」
 香穂子は猫の頭を何度も撫でながら、幸せな気分に浸る。
「可愛いですね」
「そうだね」
 香穂子が立ち上がると、猫も自然と離れていく。
「またね!」
 猫が愛らしい声で返事をしてくれたのが、嬉しかった。

 ふたりでぶらぶらと歩いて鎌倉高校前駅を目指す。
 途中、腰越あたりで店を冷やかしたりしながら、ふたりはのんびりとした散歩を楽しんでいた。
「…あ! 海ですよ! やっぱり初夏の海は綺麗です!」
 吉羅はフッと眩しそうに香穂子を見つめる。
 甘く温かなまなざしに、太陽よりも猛烈な光を感じた。
 とけてしまう。
 それほどに吉羅のまなざしは強い力を持っている。
 眩しいのか、途中でサングラスを掛けてしまったので、吉羅の瞳を確認することは出来なかった。
 鎌倉高校前まで来たところで、吉羅はビーチに出る階段を指差す。
「下に下りるかね」
「良いです、今は」
 お別れをするならば海でしたいから。
 最後の最後で。
「江ノ電の駅で海を見た後、七里ヶ浜に行かないか? 知人がプロデュースをするカフェがあってね。パンケーキが絶品らしいから」
「そこ知っていますよ! 雑誌とかにも載っていましたから! 平日でもかなり混雑しているんですよねー」
「みたいだね」
 吉羅は携帯電話を取り出すと、知人に連絡をしてくれる。
「…今なら空いている? だったら海の見えるテラス席をリザーブしておいて貰えないか? 有り難う」
 吉羅は電話を切ると、ほんの少しだけ微笑む。
「海の見えるテラス席を確保してくれるそうだ。行くか」
「はい!」
 香穂子は、吉羅に感謝の笑みを浮かべると、甘えるように手を握り締めた。
 もうこうして手を繋ぐこともなくなるかと思うと、少しだけ切なかった。

 吉羅とカフェに行くと、直ぐにテラス席に通して貰う。そこでシロップたっぷりのバナナパンケーキを注文した。
 流石に甘いものが苦手な吉羅は、注文しなかったが。
「美味しいです! やっぱり行列が出来るだけありますね!」
「それは良かった。また来よう」
 吉羅の提案にも、香穂子は微笑むだけだ。
 もう「はい」と返事が出来ないのが切なかった。
 美味しいパンケーキと最高の眺め。そして世界で一番好きなひと。
 こんなにも幸せな風景はないのに、どうしてこんなにも泣きたくなるのだろう。
「君は幸せそうに甘いものを食べるね。そんなに美味しいものなのかね?」
「美味しいですよ。本当に。大好きなぐらいに」
「味見をしてみたいが構わないかな?」
 吉羅にしては珍しいと思いながら、香穂子はにっこりと頷いた。
「…どうぞ…」
 香穂子が皿を差し出すと、吉羅は素早く唇を奪う。
 その甘さにこちらが酔っ払ってしまいそうになる。
「甘いね、とても」
「甘過ぎます…」
 香穂子が俯くと、吉羅はおかしそうに笑った。
 暫く、香穂子は海と吉羅を眺める。
 本当に幸せな風景だ。
 綺麗過ぎて、涙が出そうだ。
「…吉羅さん…、海に行きたいです…」
「じゃあ、七里ヶ浜に行こうか。ここからは駐車場も近いからちょうど良いね」
「はい」
 帰りは吉羅の車には乗らない。
 電車でひとり帰るのだ。
 吉羅と別れるのは辛いが、それが吉羅のためだ。だから香穂子には何も出来ない。それ以外は。

 カフェを出た後、ふたりは緩やかに歩きながら、七里ヶ浜へと下りていく。
「香穂子、今日の君はいつもよりも素直だね」
「そうですね。素直でいようと決めたんです」
 香穂子は吉羅ににっこりと微笑むと、海岸に下りるなりサンダルを脱ぐ。
 それを持って、子どものように走り始めた。
「とても気持ちが良いですよ! 吉羅さん!」
 香穂子がはしゃいだ声を上げて走ると、吉羅が苦笑いを浮かべながらも追いかけてくる。
「余りはしゃがないように。つまずいてしまうよ」
「大丈夫ですよ!」
 香穂子は、砂浜をダンスするように走り抜ける。
 開放感が溢れていてとても気持ちが良い。
 もっとこの爽快さを感じていたい。
「きゃあ!」
 突然、小さな穴に嵌まってしまい、香穂子は足を取られてしまう。
「香穂子!」
 吉羅は直ぐにかけつけてくれ、砂塗れになる前に抱き留めてくれた。
「大丈夫かね?」
「だ、大丈夫です…。有り難うございます…」
 身動ぎをすれば、吉羅の抱擁が解かれると思ったのに、余計に強くなってしまう。
「あ、吉羅さん…大丈夫ですから…放して下さい…」
 香穂子が甘い苦しい声で言っても、吉羅の抱擁は益々キツくなるばかりで、全く離そうという気配がなかった。
「…吉羅さん…」
「今日の君はいつもとは違う。寂しそうに笑い、私に素直になってくれる…。このまま私の前からいなくなってしまいそうだと思うぐらいに、儚い…」
 吉羅は苦しげに呟くと、香穂子を更に強く抱きすくめた。
「…何処にも行くな」
 吉羅は、もう二度と離さないとばかりの声を出している。
「…今日は昨日のことを何も訊いては来ないし、君はいつも以上に素直だ。君が何処かに行ってしまうような気がして、私には堪らない…」
 吉羅が苦しげに思ってくれているのは嬉しい。
 だが、別れなければならないのだ。
「…吉羅さん…、放して頂いて良いですか…?」
 香穂子がやんわりと言うと、吉羅は渋々ではあるが抱擁を解いてくれた。
「…吉羅さん、有り難う…。そして今までどうも有り難うございました」
 香穂子は他人のように頭を深々と下げた後、にっこりと微笑む。
「短い時間だったけれど、あなたと過ごせて楽しかったです。もう、私がいなくても、婚約者のふりをしなくても、大丈夫ですね?」
「香穂子…!」
 吉羅が手を伸ばそうとすると、香穂子はそれをすり抜ける。
「今まで有り難うございました…。本当に楽しい日々でした…。あなたのこと本当に好きだったから…。幸せになって下さい。愛するひとと…」
 香穂子は深々と頭を下げると、吉羅に泣き笑いの表情を向けた。
 そのまま踵を返すと、ゆっくりと海岸をひとりで歩いた。



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