*嘘恋*

23


 吉羅を七里ヶ浜に置き去りにして、香穂子は鎌倉駅へと向かった。
 終わったのだ。総てが。
 大好きなひとがいる世界から出たのだ。
 涙を零さないように我慢をしても、結局は止めることは出来ずに、香穂子は涙を何度も零しては顔を上げた。
 どうやって横浜の家に帰り着いたのかをハッキリと覚えてはいないほどに、記憶が曖昧になっていた。
 吉羅を失うことが、これほどまでに辛く苦しいことだとは思わなかった。
 突然、帰ってきた香穂子を、両親が何も言わずに迎えてくれたことは嬉しい。
 ただこうして静かに見守ってくれたことが、とても有り難かった。
 家に戻って最初にしたことは、吉羅から連絡があったかどうか携帯電話を見たことだった。
 吉羅は迎えに来てくれるだとか、夢見る夢子のような想像をしていたが、結局は叶えられなかった。
 当然だ。
 吉羅はそんなにもセンチメンタリズムを持つ男ではないのだから。
 こうして甘い期待をしてしまう自分が嫌でしょうがない。
 レストランコンサートのリハーサルや打ち合わせの時にも、もしかしたら吉羅が迎えに来るのではないかと想像したりもした。
 だがそれは現実には起こらない。
 ただの妄想に過ぎないのだ。
 香穂子は、吉羅への想いを断ち切らなければならないと、ヴァイオリンに打ち込む。
 吉羅を失った今となっては、ヴァイオリンだけがこころの拠り所だった。
 土浦との連絡やリハーサルも順調にこなし、いよいよ本番が近付く。
 レストランオーナーからは、コンサートのディナーチケットは完売したとの報告を受けて、益々頑張らなければならないと思った。
「日野、今のお前にぴったりの曲だと思うんだが、演らないか?」
「今の私に?」
 香穂子は楽譜に視線を落とすと、それに熱心に目を通す。
「サティの“ジュ・トゥ・ヴ”…」
 香穂子は楽譜を見るなり、何故か胸が締め付けられるのを感じる。
「お前にしかこれは弾けないと思う。かなり情熱的だが、今のお前ならば、情熱的に華やかでありながら何処か気品に満ちた温かな音を出せると思う」
 土浦の言葉に、こころが華やいだ熱さでいっぱいになる。
「…かいかぶりすぎだよ。ピアニストとしての勘?」
 香穂子が笑顔で言うと、土浦は真剣味が溢れているが何処か嬉しそうな笑みを浮かべる。
「指揮者としての勘だ」
 確信に満ち溢れている土浦の言葉が嬉しいと感じると同時に、何だか切なくなる。
 “あなたが欲しい”
 まるで吉羅に叫んでいる言葉のように思えて、泣きそうになった。
「是非、演って欲しい。お前の飛躍に繋がる一曲だと、俺は思うけれどな」
「有り難う」
 香穂子は楽譜を読みながら、吉羅との短い愛の想い出を反芻する。
 素敵で優しくて幸せで、胸が痛い想い出。
 だが、香穂子の人生にとってはスペシャルな出来事だった。
 大切な想い出だ。
 その想いを昇華させるためにも、演らなければならない曲だろう。
「…解ったよ。最後の曲として“ジュ・トゥ・ヴ”を演ろう」
「ああ。じゃあ、早速、アレンジをして連絡するか。後の曲は、安心して良い完成度だから、心配しなくても大丈夫だ。“ジュ・トゥ・ヴ”に集中出来るぜ」
「うん。素晴らしい曲になるように頑張るよ」
 香穂子は笑顔で答えながら、決意を秘める。
 頑張らなければ。
 この曲で、自分の熱い想いの総てを込めたかった。

 最終リハーサルを終えて、香穂子はレストランを出た。
 レストランの昼休み中に行なわれるリハーサルは、本番さながらのステージで、うっとりとときめくような時間を過ごすことが出来た。
 コンサート当日に出される食事も頂いて、士気が高まる。
 何もかもが順調。
 なのに空しい。
 吉羅がそばにいないから。
 吉羅に抱き締めて貰えないから。
 こんなにも痛くて苦しい想いは、もう二度と経験はしないだろうと、香穂子は思った。
 癖のように、また、携帯電話を見る。
 こんなに時間が経っているのだから、吉羅からの連絡なんて有り得ないというのに、こころの何処かで期待してしまう。
 当然のことながら、今日も連絡はなかった。
 香穂子は小さな溜め息を吐くと、気を取り直して背筋を伸ばす。
 そのまま真っ直ぐと歩き始めた。

 コンサート当日。
 香穂子は、スタートラインに立ったばかりであることを意識するために、白いドレスを身に纏った。
「今夜、最高のステージにしような」
「うん! 土浦くん、宜しくね!」
 香穂子は土浦と、音楽家としての強い絆を意識しながら、安心してステージに立つ。
 ステージに立った瞬間、視線で吉羅を探した。
 だが、何処にも吉羅がいるはずもなかった。
 ちょっとした最後の希望。
 それも現実とはならなかった。
 香穂子は、今夜限り、吉羅への想いを吹っ切ることに決め、ヴァイオリンを構える。
 一気に集中することが出来た。

 演奏していてこんなにも気持ちが良いステージはなかった。
 いつまでも弾いていたいが、とうとう最後の曲である“ジュ・トゥ・ヴ”の時間がやってくる。
 ラストの曲を弾くために、ヴァイオリンを構えた時だった。
 視界に吉羅の姿が飛び込んでくる。
 若干、やつれたような雰囲気はあったが、今まで見たなかで一番艶やかで素敵だった。
 一番後ろで、まるで香穂子を見守るような穏やかな表情で見つめている。
 その横には、CEO室で吉羅と一緒にいた、あの美しいひとがいる。
 こんなにも穏やかな顔をしているということは、恐らくふたりは一緒になるけとを決めたのだろう。
 祝福するのには、まだかなり胸が痛いが、素直に祝福をしてあげたい。
 吉羅の幸せのためだから。
 それにこんなにも素敵な吉羅は始めてだ。それだけ幸せだということなのだろう。
 それで良いのかもしれない。
 吉羅に対して、愛以上に感謝が溢れて来る。
 愛することを教えてくれて有り難う。
 その想いを込めて、“ジュ・トゥ・ヴ”を奏で始めた。
 吉羅を全身全霊で愛している。
 こんなにも愛せる相手は、今までいなかった。
 そしてこれ以上愛することが出来るひとも現れないだろう。
 “あなたが欲しい”
 この願い事は、恐らく叶えることは難しいが、それでも、吉羅への想いを総て込めて演奏をする。
 吉羅が、その横にいる素晴らしい女性と結ばれますように。
 吉羅がいつまでも幸せでありますように。
 この曲が、いつまでも吉羅のこころに深く刻まれますように。
 香穂子は強く祈った。
 今までで一番想いが籠った演奏だったかもしれない。
 演奏が終わると、香穂子は放心状態になり、頭を下げた後は、暫く、動くことが出来なかった。
 誰もが息を呑んだように静まり返る。
 次の瞬間、見事な拍手が香穂子に向けられた。
 誰もが立ち上がると、盛大な拍手をくれる。
 スタンディングオベーション。
 演奏する者ならば、だれもが夢見る瞬間だ。
 香穂子は何が起こったのか、最初は解らなかったが、レストランオーナーに肩を叩かれてようやく気付く。
「レストランコンサート始まって以来のスタンディングオベーションですよ! 素晴らしい!」
 香穂子は嬉しくて、もう一度頭を深々と下げた。
 顔を上げて吉羅を見ると、女性と一緒に拍手をしてくれている。
 香穂子は、泣きそうになるのを我慢して、何とか笑顔を向けた。

 楽屋でひとりになった途端に、ノックが響く。
「日野さん、少し良いかしら?」
「どうぞ」
 オーナーの声に振り返ると、吉羅と女性、そして見慣れない男性が一緒に立っていた。



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