*嘘恋*

24


 香穂子の視界には、最早、吉羅しか入らない。
 こうして楽屋に訪ねてきてくれたことが、嬉しかった。
 何とか笑顔を作ろうとするが、笑顔が強張ってしまう。
 まだそこまでは吹っ切れていないのだ。
「こんばんは…、吉羅さん…」
「こんばんは」
 吉羅は低い声で呟くと、香穂子に鉄砲百合の花束を差し出す。
 鉄砲百合。聖母を象徴する凜とした美しさを持つ花だ。
「君に」
「有り難うございます」
 香穂子は花束にわざと顔を埋めると、涙をそっと瞳に滲ませる。
「日野さん、申し訳ないですけれど、あなたの採寸をしたいんです。良いかしら?」
「…構わないですが…」
 何の採寸をするのか解らないが、吉羅と一緒にいた女性は、突然、申し出てきた。
 訳が解らないままで、寸法をかなり細く取られる。
「えっとこれで大丈夫です。吉羅さん、至急手配を掛けるわ」
「有り難う」
 女性と吉羅は、とてもビジネスライクな雰囲気で、香穂子は驚いてしまう。
 ふたりは恋人同士ではないのだろうか。
 頬に触れていた女性の親密度を思い出すと、そうしか思えない。
「…では私はこれで失礼しますね」
 女性は、一緒に来た男性と共に頭を軽く下げると、出て行ってしまう。
 何が起こったのか、香穂子には全く理解が出来なくて思わず吉羅を見上げる。
 周りを見ると、オーナーは既にいなくて、ふたりきりになっていた。
 吉羅とふたりきりになるとは思ってはいなくて、香穂子は焦った。
「あ、あの、吉羅さん、わ、私、今から着替えなければならないですから、その…部屋から出て欲しいんですが…」
 香穂子は伝家の宝刀とばかりに切り出したが、吉羅は全く動じない。
 着替える姿以上のものを見ているのだから当然だ。
「君が着替えたいのならば私は気にはしないが」
「わ、私が気にします…!」
 香穂子が幾ら焦るように言っても、吉羅は眉を上げるだけだ。
「吉羅さん、本当に着替えたいんですが…」
「私は君と話したい」
「…話すことなんて…、もう何もある筈がありません…」
 終わったのだ、もう。香穂子の理性のなかでは。
 だが感情のなかでは終わってはいない。
 吉羅を今でも深く愛しているのだから。
「…私たちは話さなければならない…。君は誤解したままだからね…。私としてもそれは困るんだよ…。君には誤解を何一つして欲しくはないんだよ」
 吉羅はピシャリと言うと、香穂子を捕らえるように見つめてくる。
 このまなざしで見つめられたら弱い。完全に捕らえられてしまうから。
 気持ちも理性も。
「…ここでは何ですから…、外でお話しましょう…。直ぐに着替えますから、ドアの前で待っていて下さい」
「解った」
 吉羅は素直に同意してくれると、部屋から一旦出てくれた。
 香穂子は手早く着替えて、髪をほどき、いつもよりもほんの少しだけお姉さんのスタイルになる。
 ドレスを片付けて、少しだけ化粧を直した。
 やはり吉羅の前では、綺麗でいたかった。恋する女心には逆らえないのだ。
 香穂子が部屋を出ると、吉羅は僅かに穏やかな笑みを浮かべた。
「お待たせしました」
「荷物は半分持とう。オーナーには、楽屋を出ることを伝えている」
「…有り難うございます…」
 香穂子は素直に礼を言うと、吉羅に荷物を預けた。
 吉羅とふたりで、レストランオーナーの部屋に行き、挨拶をする。
 お礼は日を改めてしようと思う。
「お二人とも気をつけて帰って下さいね。それでは」
「有り難うございました」
 深々と礼をした後で、レストランを後にした。
「少し付き合って欲しい。責任を持って君を送るから」
「有り難うございます」
 この荷物を車で運んでくれるのはとても有り難い。
 吉羅は、レストランの駐車場に停めてあるフェラーリに案内して、エスコートしてくれた。
 吉羅の車に乗り込みシートベルトをすると、車は直ぐに出る。
「少しじっくり話をしたいんだよ…。落ち着いた個室があるレストランがあるから、そこに案内しよう」
「有り難うございます」
 吉羅と対峙するのは恐らくこれで最後だ。
 だからこそ逃げてはならないと思う。
 暫く走って車は瀟洒なレストランの駐車場へと停まる。
「行くか」
「はい」
 荷物は必要なもの以外は車に置いたままで、吉羅とふたりでレストランに入る。
 レストランに入る直前で、吉羅は香穂子の手を握り締めてきた。
「…あ…」
 嫌いではないから、勿論、抗うことなんて出来る弾もない。
 香穂子は吉羅に手を引かれて、レストランの中にある離れのような場所に案内された。
 そこで向かい合って座り、ふたりはお互いに見つめ合う。
「…香穂子、少し痩せたようだが、大丈夫なのかね?」
「吉羅さんこそ、かなりやつれたように見えますよ。お仕事が忙しいんですか?」
 香穂子は心配でたまらなくて、吉羅を見る。
「仕事では参らないよ…私はね…。君がいなくなってしまったことが、相当堪えたようだ…」
 吉羅が苦笑いを浮かべながら言う声に、香穂子は心臓を鷲掴みにされるような気分になった。
「…どうして…。だって吉羅さんは、大好きな女性がいるじゃないですか? 私なんかを…きゃっ!」
 吉羅はいきなり抱き締めてくると、香穂子に軽く唇を重ねてきた。
「私の大事なひとは…君以外にいないよ。私はそれを君に伝えたかったんだよ…」
「だけど…」
 あんなにも親密なふたりを見てしまっているのに、それはにわかには信じられない。
「…だって、あの女性と一緒にいた時に、あんなにも仲が良さそうで…、情熱的だったじゃないですか…」
 香穂子は思い出すだけで胸の奥が激しく痛むのを感じながら、泣き笑いの表情を浮かべる。
「私は…君以外を愛せない。あの女性は、私の古くからからの知り合いのウェディングプランナーとドレスデザイナーでね。小さいがとてもセンスの良いウェディング専門会社を経営している。…彼女が私の頬に手を宛てていたのは、ようやく結婚する弟分への祝福だったんだよ。きちんと君に説明をすれば良かったね」
 吉羅は誠実なまなざしを真っ直ぐ向けてくれている。
 偽りはないだろう。
 それはよく解る。
 何処か切ないような瞳をしているのが、香穂子のこころに伝わって、甘く痛んだ。
「…暁彦さん…。私ももっと話を聞けば良かったです…」
 香穂子は熱い涙が止まらなくなるのを感じながら、吉羅に微笑む。
 吉羅のこころが解って、これ以上の幸せはないというのに、どうして涙がこぼれ落ちるのだろうか。
「…泣かないんだよ…」
 吉羅が指先を伸ばして涙を拭ってくれる。その仕草が甘くて、溶けてしまいそうだ。
「…嬉しいから…。…暁彦さん…、私もずっとあなたを愛していたから…」
 香穂子は洟を啜りながら、吉羅を見つめる。吉羅はその言葉に返事をするように、今までで一番甘い笑みをくれた。
「…私も愛しているよ…。君が出て行く前、君が消えてしまうような気がして不安で堪らなかった。いつか君が私のもとから去ってしまうような気がして切なかったのに…、私は不器用だね…」
 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子の左手を取る。
「改めて言う、結婚しないか? 今度は本当の婚約だ」
 吉羅のロマンスが溢れたプロポーズに、香穂子は微笑む。
 返事は決っている。ただ頷けば良いのだから。
 香穂子が頷くと、吉羅は嬉しそうに微笑んだ。



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