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土浦の鍛えられた肩のラインが、僅かに震えているのが解る。 香穂子はその姿を見ていると泣きそうになった。 「…確かに俺は…お前に寂しい想いばかりをさせたかもしれない。だが、お前なら俺の夢を理解して応援してくれると、信じていたのにな…」 苦々しい声に、香穂子の胸は苦しくなる。 血が出てしまうのではないかと思うほどに痛みを感じた。 「…梁太郎くんの夢は理解しているよ。だけどね…私もそばにいて欲しい、悩みを聞いて欲しいって思っていた…。だから、私のことをほんの隙間でも良いから考えて欲しかった…。私だって…、頼りたくなるよ…」 香穂子は涙が頬に伝うのを感じながら、初めて素直に自分の気持ちを伝える。 「…香穂…」 土浦はハッ息を呑むと、うなだれる。 「だから友達でいよう…? そのほうが私たちのためだよ」 香穂子は頭を深々と下げると、土浦は唇を噛んだ。 「…ずっと不安だった…。梁太郎くんが都築さんのことを好きなんだろうかとか…、色々と考えたりしたから…」 「…都築さんのことは…」 土浦は言葉を濁すように言い、何処か神妙な表情になる。 「…確かに…そう言われたら…そうなのかもしれない…。確かに一緒にいて楽しいし、勉強になるし…、それに一緒にいたいと思うし…。だけど、お前を想うのとは少し違って!」 土浦はフォローしようと必死になる。 やはり土浦が都築に恋をしているのは、間違ないのだ。 「…それが恋なんだよ…。梁太郎くん…」 香穂子が胸の切なさを滲ませて言うと、土浦は目を見開いていた。 「…恋…?」 そうなのだ。お互いに幼い恋から大人の恋へとシフトさせているのだ。 香穂子は柔らかく微笑むと、真っ直ぐ土浦を見つめた。 「今まで有り難う。これからは友達としてお付き合いしよう。有り難う」 暫く土浦は黙っていたが、苦しそうに溜め息を吐いた。 「…解った」 土浦は苦渋の声で、苦しげに呟いた。 「…有り難う…」 香穂子は震える声で言うと、土浦に背中を向けた。 「香穂!」 名前を呼ばれて、香穂子は振り返る。 「…誰か…、好きなヤツが出来たのか…?」 真実を指摘され、香穂子は胸を突かれる。 肩が震える。 土浦が正直に答えてくれたのだから、自分も素直にならなければならない。 「…うん…」 素直に返事をすると、土浦は衝撃を受けたように息を呑んだ。唇を噛み締めると、土浦は握り拳を作った。 「…そうか…。良いヤツ…なのか…?」 「…素敵なひとだよ…。大きな愛で見守ってくれるひと。冷たく見えるけれど、本当は温かいひとなんだよ…」 香穂子は、吉羅を思い浮かべながら、穏やかな口調で呟く。 吉羅のことを話すと、甘酸っぱくて幸せな気持ちになった。 「…理事長…なのか…?」 ズバリ指摘されてしまい、香穂子の躰が震える。 認めることも否定することも出来なくて、香穂子はただ佇んでいた。 「…一方的な恋だって良いんだよ…。だって…、“好き”だって思うだけで幸せだから…」 香穂子はにっこりと微笑むと、土浦に背中を向ける。 「じゃあ、またアンサンブルの練習でね。土浦くん…」 香穂子は素直な笑顔を滲ませると、背中を向けた。 香穂子は、こころのなかで土浦に礼を言いながら、ゆっくりと歩いていく。 土浦を好きになって良かった。 とても清々しい気分になれるから。 ゆっくりと歩きながら、香穂子は幸せな痛みを感じていた。 放課後、吉羅による定期考査が行われる。 吉羅は、香穂子が来るのを静かに待構えていた。 「理事長、この調子だったら、彼女は見事に期待に応えてくれるでしょう。オーケストラのメンバーも集まり、アンサンブルの完成度もかなり高くなっています。ヴァイオリンの技術も…音楽科の生徒並になっています…。…いえ、今やそれ以上になっているかもしれないですけれどね…」 「そうだね」 真っ直ぐ目標に向かって見つめる香穂子は美しい。 あの瞳が自分に向けられたら、幸せなことはないのにと思わずにはいられない。 「理事長、都築さん、日野です」 「入りたまえ」 吉羅が声を掛けると、香穂子が理事長室に入ってきた。 いつも以上に輝いている香穂子の姿に、吉羅は息を飲み、心臓が揺れるのを感じる。 午後の陽射しを浴びる香穂子は、透明感のある美しさを滲ませていた。 大人びた美しさに、吉羅は抱き締めたくなってしまう。 また一段と美しくなった。 大人の女性へと確実にステップを歩んでいる。 本当にあっという間に、吉羅の手の届かない存在になってしまうのだろう。 「日野君、それでは一曲奏でてくれたまえ」 「はい」 香穂子は背筋を伸ばして、堂々とヴァイオリンを奏でる。 自信が出てきた何よりもの証なのだろう。 香穂子が奏でる音は、また厚みを帯びてきていた。 透明な美しさと柔らかな温もりは相変わらずだが、何処か艶やかさが加わってきて。 香穂子が奏で終わると、吉羅と都築は顔を見合わせて頷きあった。 「大変結構だわ。あなたの音色は本当に美しいわわ。この調子で頑張ってね」 「大変結構。だがこれに驕れずに、しっかりと励んでくれたまえ」 「はい」 香穂子はホッとしたように笑うと、頭を下げた。 不意にいつもの表情に戻る。 その横顔は、何処か切なさを帯びていて、とても綺麗だ。 何かを乗り越えたような表情だった。 土浦と何かあったのだろうか。 干渉してはならないと解っているのに、ついそうしてしまいそうになる。 「日野君、少し話がある。残ってくれたまえ」 「はい」 香穂子が頷くと、都築は気遣うように吉羅に向かって会釈をした。 「理事長、大学部の図書館で約束がありますから、これで失礼致します」 「ああ。ご苦労だったね」 都築はもう一度丁寧に会釈をすると、その場を辞した。 「…さて。そこにかけたまえ」 「はい、失礼します」 香穂子は柔らかな笑みを唇にたたえたままで、静かに腰を下ろす。 「日野君…何かあったのかね? 表情がいつもとは違う」 見透かされたとばかりに、香穂子が息を呑むのが解る。 フッと香穂子は苦笑いを浮かべた。 「…やっぱり、理事長には嘘を吐くことは出来ないですね…」 香穂子は観念したとばかりに溜め息を吐くと、目を伏せた。 「…土浦くんと…、別れたんです…。友達に戻りました…」 香穂子は何処か泣きそうな顔をしていたが、後悔などは何処にも持ち合わせてはいないようだった。 瞳が清々しく輝いている。 「…お互いにこのほうがベストだと思ったんです。だからまた元に戻りました。…理事長には、色々とご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ありません…」 香穂子はソファから立ち上がると、深々と頭を下げて礼を言った。 香穂子が土浦と別れた。 その一報に、吉羅はこころが華やぐのを感じる。 愛する者の不幸を喜ぶなんて最低かもしれない。 今までは、香穂子が幸せであればそれで良いのだと、半ば自分に言い聞かせてきた。 だがこうして現実に香穂子が誰のものでもなくなってしまうと、喜びが込み上げてきた。 矛盾した感情。 だが、これが恋なのだということも、吉羅は初めて知った。 「…それは、辛かったね…」 「…辛いと言われると辛いかもしれないんですが…そうでないと言われると…そうでないんですよ…」 香穂子が自嘲気味に笑う。 その笑顔が痛々しくて、吉羅は無意識にその胸に抱き寄せていた。 |