*恋のゆくえ*

15


 土浦の鍛えられた肩のラインが、僅かに震えているのが解る。
 香穂子はその姿を見ていると泣きそうになった。
「…確かに俺は…お前に寂しい想いばかりをさせたかもしれない。だが、お前なら俺の夢を理解して応援してくれると、信じていたのにな…」
 苦々しい声に、香穂子の胸は苦しくなる。
 血が出てしまうのではないかと思うほどに痛みを感じた。
「…梁太郎くんの夢は理解しているよ。だけどね…私もそばにいて欲しい、悩みを聞いて欲しいって思っていた…。だから、私のことをほんの隙間でも良いから考えて欲しかった…。私だって…、頼りたくなるよ…」
 香穂子は涙が頬に伝うのを感じながら、初めて素直に自分の気持ちを伝える。
「…香穂…」
 土浦はハッ息を呑むと、うなだれる。
「だから友達でいよう…? そのほうが私たちのためだよ」
 香穂子は頭を深々と下げると、土浦は唇を噛んだ。
「…ずっと不安だった…。梁太郎くんが都築さんのことを好きなんだろうかとか…、色々と考えたりしたから…」
「…都築さんのことは…」
 土浦は言葉を濁すように言い、何処か神妙な表情になる。
「…確かに…そう言われたら…そうなのかもしれない…。確かに一緒にいて楽しいし、勉強になるし…、それに一緒にいたいと思うし…。だけど、お前を想うのとは少し違って!」
 土浦はフォローしようと必死になる。
 やはり土浦が都築に恋をしているのは、間違ないのだ。
「…それが恋なんだよ…。梁太郎くん…」
 香穂子が胸の切なさを滲ませて言うと、土浦は目を見開いていた。
「…恋…?」
 そうなのだ。お互いに幼い恋から大人の恋へとシフトさせているのだ。
 香穂子は柔らかく微笑むと、真っ直ぐ土浦を見つめた。
「今まで有り難う。これからは友達としてお付き合いしよう。有り難う」
 暫く土浦は黙っていたが、苦しそうに溜め息を吐いた。
「…解った」
 土浦は苦渋の声で、苦しげに呟いた。
「…有り難う…」
 香穂子は震える声で言うと、土浦に背中を向けた。
「香穂!」
 名前を呼ばれて、香穂子は振り返る。
「…誰か…、好きなヤツが出来たのか…?」
 真実を指摘され、香穂子は胸を突かれる。
 肩が震える。
 土浦が正直に答えてくれたのだから、自分も素直にならなければならない。
「…うん…」
 素直に返事をすると、土浦は衝撃を受けたように息を呑んだ。唇を噛み締めると、土浦は握り拳を作った。
「…そうか…。良いヤツ…なのか…?」
「…素敵なひとだよ…。大きな愛で見守ってくれるひと。冷たく見えるけれど、本当は温かいひとなんだよ…」
 香穂子は、吉羅を思い浮かべながら、穏やかな口調で呟く。
 吉羅のことを話すと、甘酸っぱくて幸せな気持ちになった。
「…理事長…なのか…?」
 ズバリ指摘されてしまい、香穂子の躰が震える。
 認めることも否定することも出来なくて、香穂子はただ佇んでいた。
「…一方的な恋だって良いんだよ…。だって…、“好き”だって思うだけで幸せだから…」
 香穂子はにっこりと微笑むと、土浦に背中を向ける。
「じゃあ、またアンサンブルの練習でね。土浦くん…」
 香穂子は素直な笑顔を滲ませると、背中を向けた。
 香穂子は、こころのなかで土浦に礼を言いながら、ゆっくりと歩いていく。
 土浦を好きになって良かった。
 とても清々しい気分になれるから。
 ゆっくりと歩きながら、香穂子は幸せな痛みを感じていた。

 放課後、吉羅による定期考査が行われる。
 吉羅は、香穂子が来るのを静かに待構えていた。
「理事長、この調子だったら、彼女は見事に期待に応えてくれるでしょう。オーケストラのメンバーも集まり、アンサンブルの完成度もかなり高くなっています。ヴァイオリンの技術も…音楽科の生徒並になっています…。…いえ、今やそれ以上になっているかもしれないですけれどね…」
「そうだね」
 真っ直ぐ目標に向かって見つめる香穂子は美しい。
 あの瞳が自分に向けられたら、幸せなことはないのにと思わずにはいられない。
「理事長、都築さん、日野です」
「入りたまえ」
 吉羅が声を掛けると、香穂子が理事長室に入ってきた。
 いつも以上に輝いている香穂子の姿に、吉羅は息を飲み、心臓が揺れるのを感じる。
 午後の陽射しを浴びる香穂子は、透明感のある美しさを滲ませていた。
 大人びた美しさに、吉羅は抱き締めたくなってしまう。
 また一段と美しくなった。
 大人の女性へと確実にステップを歩んでいる。
 本当にあっという間に、吉羅の手の届かない存在になってしまうのだろう。
「日野君、それでは一曲奏でてくれたまえ」
「はい」
 香穂子は背筋を伸ばして、堂々とヴァイオリンを奏でる。
 自信が出てきた何よりもの証なのだろう。
 香穂子が奏でる音は、また厚みを帯びてきていた。
 透明な美しさと柔らかな温もりは相変わらずだが、何処か艶やかさが加わってきて。
 香穂子が奏で終わると、吉羅と都築は顔を見合わせて頷きあった。
「大変結構だわ。あなたの音色は本当に美しいわわ。この調子で頑張ってね」
「大変結構。だがこれに驕れずに、しっかりと励んでくれたまえ」
「はい」
 香穂子はホッとしたように笑うと、頭を下げた。
 不意にいつもの表情に戻る。
 その横顔は、何処か切なさを帯びていて、とても綺麗だ。
 何かを乗り越えたような表情だった。
 土浦と何かあったのだろうか。
 干渉してはならないと解っているのに、ついそうしてしまいそうになる。
「日野君、少し話がある。残ってくれたまえ」
「はい」
 香穂子が頷くと、都築は気遣うように吉羅に向かって会釈をした。
「理事長、大学部の図書館で約束がありますから、これで失礼致します」
「ああ。ご苦労だったね」
 都築はもう一度丁寧に会釈をすると、その場を辞した。
「…さて。そこにかけたまえ」
「はい、失礼します」
 香穂子は柔らかな笑みを唇にたたえたままで、静かに腰を下ろす。
「日野君…何かあったのかね? 表情がいつもとは違う」
 見透かされたとばかりに、香穂子が息を呑むのが解る。
 フッと香穂子は苦笑いを浮かべた。
「…やっぱり、理事長には嘘を吐くことは出来ないですね…」
 香穂子は観念したとばかりに溜め息を吐くと、目を伏せた。
「…土浦くんと…、別れたんです…。友達に戻りました…」
 香穂子は何処か泣きそうな顔をしていたが、後悔などは何処にも持ち合わせてはいないようだった。
瞳が清々しく輝いている。
「…お互いにこのほうがベストだと思ったんです。だからまた元に戻りました。…理事長には、色々とご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ありません…」
 香穂子はソファから立ち上がると、深々と頭を下げて礼を言った。
 香穂子が土浦と別れた。
 その一報に、吉羅はこころが華やぐのを感じる。
 愛する者の不幸を喜ぶなんて最低かもしれない。
 今までは、香穂子が幸せであればそれで良いのだと、半ば自分に言い聞かせてきた。
 だがこうして現実に香穂子が誰のものでもなくなってしまうと、喜びが込み上げてきた。
 矛盾した感情。
 だが、これが恋なのだということも、吉羅は初めて知った。
「…それは、辛かったね…」
「…辛いと言われると辛いかもしれないんですが…そうでないと言われると…そうでないんですよ…」
 香穂子が自嘲気味に笑う。
 その笑顔が痛々しくて、吉羅は無意識にその胸に抱き寄せていた。



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