*恋のゆくえ*

16


 抱き寄せられた胸はとても広くて、香穂子の胸を切なく焦がす。
 男性的な胸の逞しさと、胸が締め付けられるような優美な香りに、泣きそうになる。
 この胸のなかで、素直になりたい。
 素直にならせて欲しい。
「…日野君…、素直になって良いんだ…、感情に。今は堪える必要はない…」
 胸を通じて、吉羅の声が聞こえる。
 それが香穂子を素直にさせる。
 本当にこの男性が好きだ。
 こうして抱き締められているだけで、泣きそうになる。
「…有り難うございます…。だけどこれでコンミスに集中出来ます…。有り難うございます」
「…コンミスにはしっかり頑張って貰わないといけないからね」
 背中をゆっくりと撫でられて、香穂子は睫毛を涙で濡らした。
 大きな温もり。
 それに包まれているだけで、幸せに思えた。
「有り難うございます。大丈夫ですよ。これからもっと頑張りますから!」
 香穂子が太陽の光のような笑みを浮かべると、吉羅を見つめる。
 安心したように吉羅の表情が僅かに弛んだのが嬉しかった。
「では大丈夫なことを、音色で証明してくれないかね?」
「はい。解りました」
 吉羅が抱擁を解くと、香穂子は頷きながら立ち上がる。
「では、弾かせて頂きますね」
「ああ」
 香穂子はソファから立ち上がると、背筋を伸ばしてヴァイオリンを奏で始めた。
 吉羅に感謝を伝えるために。
 いつも側でさり気なく見守ってくれていたからこそ、ここまで頑張ることが出来たのだ。
 それには感謝してもしきれない。
 吉羅がいたからこそ、土浦ともきちんと対峙することが出来たのだから。
 香穂子は、ヴァイオリンの音色に気持ちを託して、吉羅に語りかけるように奏でた。
 最初は合理主義の冷血な人間だと思った。
 だが、反発しながらも接しているうちに、本当はかなり温かなこころを持つひとなのだということに、気がついた。
 いつも見守るようにさり気なく優しくて、決して押し付けがましくないひと。
 出来ると思えば、きちんとチャンスを与えてくれるひとであることも知った。
 こんなにも大きく静かに見守ってくれるひとはいない。
 大人だから?
 いや。本当はこころの広い男性なのだろう。それを感じたからこそ、好きになったのだ。
 どんな感情も死んでしまうのではないぐらいに、好きになったのだ。
 だから。
 大きな愛情を有り難うという意味も込めて、香穂子はヴァイオリンを奏でた。

 また大人になった。
 音が伸びやかになり、大人の女性の演奏者になりつつある。
 女としての蕾が、今、まさに膨らんでいるのだ。
 開花するのは時間の問題なのかもしれない。
 そうなれば、また、香穂子の艶のある美しさをねらってやってくる男が沢山出てくることだろう。。
 だからこそ。
 その花が見事に美しく咲く前に、この手の中に閉じ込めたくなる。
 初めて出会った時は、小生意気な今時の女子高生だと思っていた。
 だが、生意気なのは相手に筋が通っていない時だけで、それ以外は気遣いと思いやりのある、今時、珍しい少女だった。
 近くにいて、その明るくて素直な性質に触れるにつれて、無意識に惹かれていった。
 今や堂々と、ひとりの異性として吉羅を引きつけてやまない。
 こんなにも愛することが出来る相手は他にいなかった。
 こんなにも欲しいと思う相手も、他にはいなかった。
 吉羅は、香穂子をただ真っ直ぐ見つめながら、その視線に愛を滲ませていた。
 ヴァイオリンを奏で終わると、香穂子は深々と頭を垂れる。
「まあまあだね…。確実に進歩はしている。この調子で頑張りたまえ」
「有り難うございます」
 香穂子は嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべると、もう一度会釈をしてくれた。
「理事長、色々と有り難うございます。アンサンブルに磨きをかけるために、みんなと練習しにいきますね」
「ああ。頑張ってくれたまえ」
「はいっ!」
 明るい笑顔で頷いた香穂子を、目を細めて見つめながら、吉羅はフッと微笑んだ。
 香穂子が理事長室から出て行ってしまうと、寒々しい風景が再び広がってくる。
 香穂子こそがこの部屋の、そして吉羅の文字通り“太陽”なのだということを、感じずにはいられない。
 吉羅は書類に視線を落とすと、再び執務に没頭した。

 練習が終わり、香穂子は天羽や冬海と一緒に学院近くの洋菓子店に顔を出した。
 週一度程度で、こうして甘いものをふたりを交えて食べるのが、すっかり習慣になってしまっていた。
「あ! もうすぐバレンタインだよねー。チョコレートが美味しい季節」
 チョコレートケーキが増えたメニューを覗きながら、天羽は楽しそうに呟く。
「そうだね。バレンタインか…」
 不意に吉羅の顔が浮かび上がり、香穂子は慌てて打ち消そうとした。
 バレンタイン。
 乙女のイベント。
 もしチョコレートを渡したら、吉羅は受け取ってくれるだろうか。
 それだけが不安だ。
 今までのお礼だと口実をつければ、受け取って貰えるだろうか。
 香穂子はそんなことをぐるぐると考えながらいると、天羽たちの視線を真っ直ぐに感じた。
「…あ…」
「香穂、いったい何を考えているの?」
 ニヤニヤと笑いながら天羽に指摘されてしまい、香穂子の心臓は激しく打つ。
「土浦先輩に贈るチョコレートでも…考えていたんですか?」
 土浦。
 もう恋心を伝える手段としてはチョコレートを贈らないだろう。
 仲間としてチョコレートを贈るだけだ。
 ふと寂しそうに笑うと、それだけで天羽には理解出来たようで、何処か切ないまなざしを向けてきた。
「…土浦くんにもチョコレートをあげるよ。アンサンブルメンバーやオーケストラメンバーと一緒に…」
 香穂子が笑うと、ようやく冬海は何があったか理解したようにしゅんとなった。
「…ごめんなさい…」
「だけど大丈夫だよ! お互いに納得出来た答だったし、何もひきずらない良い別れだったと思っているから」
 ふたりがまだ切なそうに見ている。
 土浦との成り行きを知っているから当然だろう。
 だからこそ言えるのだ。
「ふたりにはこころを許しているから言えるんだ…。本当にもう、お互いに重い気持ちなんかないんだよ。お互いに頑張ろうって、そう誓えたぐらいなんだ」
 香穂子は落ち着いた気分で呟くと、ふたりを真っ直ぐ見つめた。
「…お互いにね、本当に大切な恋を見つけるためのステップだったんじゃないのかなって、今は思っているよ。 私も、土浦くんも、同じ時期に本当の恋が現われたのかもしれない…。…なんて虫が良過ぎるかな?」
 香穂子がくすりと笑うと、ふたりもホッとしたように笑った。
「じゃあケーキを注文しようか。美味しいやつを」
 香穂子が穏やかな声で語りかけると、ふたりとも頷いてメニューに夢中になる。
 こうしてふたりに穏やかな顔をして話す事が出来たのも、きっと良い恋をしたからかもしれないと香穂子は思った。

 冬海を先に駅に送り出し、香穂子は天羽と本屋に顔を出す。
 香穂子が手作りバレンタインチョコレートの本を見ていると、天羽がふと顔をじっと見つめてきた。
「ね、香穂子…。あんたさ、理事長のこと…本当は好きなんじゃない? 見ていると、何だかそんな気がするんだ。理事長、あんなに無理なことも言うけれど、…あんたには一番…優しいからさ…」
 菜美はにっこりと笑って香穂子を見つめる。
 嘘は吐けないと思った。



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