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「…理事長のこと…好きだと言われたら…」 香穂子は言葉を飲み込むように呼吸をすると、天羽を迷いない瞳で見つめる。 「…理事長のこと…好きだよ…」 嘘偽りのない言葉を呟くと、香穂子はにっこりと微笑んだ。 「香穂子…」 「土浦くんに抱いた気持ちとは、少し違うような気がするんだよ。土浦くんには求めるばかりで、与えていなかった…。自分のことばかりを、結局は考えちゃうんだよ…。それに、今の幸せな気持ちだとか、それがあれば良いだなんて、そんなことを何処か感じていたのかもしれないよ。淡い甘酸っぱい気持ちで、舐めたら融けちゃうチョコレートや砂糖菓子のような気持ちだったんだなあって…」 土浦への気持ちを想うと、何処か切なくてしょっぱい気分になる。 「理事長の場合は…、いつも幸せでいて欲しいだとか…、私のことはどうでも良いから、理事長だけは幸せになって欲しいって、そんな気持ちになるんだよ。本当に理事長には幸せになって欲しいんだ…。いつも私を見守ってくれているから。理事長が幸せであれば、それで構わないって…」 香穂子は幸せを感じながら、にっこりと微笑む。 吉羅のことを想いながら話すのは、とても幸せなことだと思っている。 土浦との恋が、子供のようなものだとするならば、吉羅への想いは成熟した愛になっている。 吉羅への想いは、恋心なんて言葉では表現することなんて出来ない。 だが、恋人以外の男を好きになったのは事実だ。友人に詰られても仕方がないことだ。 「…香穂…。そんなに好きになれて良かったね」 天羽はただそれだけを言うと、にっこりと微笑んだ。 優しい友人の笑みに、香穂子は泣きそうになる。 「有り難う」 香穂子が瞳のなかに涙をいっぱいに溜めると、天羽も泣きそうな顔になった。 「香穂子、良い恋をしたね。だから、綺麗になったのかもしれないね」 「私が…?」 意外な言葉に、香穂子は小首を傾げる。 「本当に悔しいぐらいに綺麗になったよ。こうして香穂子が綺麗になったのも、笑っていられるのも、理事長のお陰かもしれないね」 天羽は香穂子の頭を、小さな子供のように撫でてくれる。そのリズムが優しくて、そっと目を閉じた。 「香穂子、チョコレート、手作りにしたら? 理事長の雰囲気からして、余り甘い物は食べそうにないけれど」 「うん。今回支えて貰ったお礼もかねて、一生懸命作るよ」 「そうだね。それに何か雑貨とかつけるとか?」 「それは良いかもしれないよね。理事長が好きそうなものというよりは、何処かからかい半分のものを贈ってみるとか。意外に冗談通じるひとなんだよ」 「へえ…」 天羽は意外だとばかりに頷きながら、香穂子を見つめた。 「応えて欲しいだとか、そこまでは思っていないんだ。ただ、自分の気持ちを伝えたいのが一番。それで応えてくれるのがベストだろうけれど、なかなかそこまでは、上手くいかないからね」 香穂子がにっこりと笑うと、天羽は眩しそうに見つめて背中を叩いてくれる。 「大丈夫だよ。だからさ、思いっきり頑張ろうね」 「そうだね。うん、頑張るよ」 香穂子が素直に頷くと、天羽は肩をそっと抱いてくれた。 こころが開放された土曜日、香穂子はいつものようにヴァイオリンの練習のために臨海公園へと向かう。 寒くても、ここで練習するのが一番だと思っている。 幾つかの曲をヴァイオリンを奏でた後で、香穂子は温かなものをスタンドで買って、休憩していた。 「日野君」 「理事長!」 声を掛けられるなり、香穂子は笑顔で振り返る。 吉羅の姿を見られるだけでこんなにも幸せだ。笑顔すら溢れてしまう。 「練習に精が出るね」 「もうすぐアンサンブルの本番ですから。それに、オーケストラの本番もありますから、息を抜く暇なんてありません。…と言っても、こうやって休憩しているんですから、立派なことは言えないんですけれどね」 舌をぺろりと出して茶目っ気たっぷりに笑うと、吉羅も釣られるように笑ってくれた。 「息抜きは必要だと思うけれどね。私は。余り根を詰めると、息苦しくなるし、時には躰を壊してしまうこともあるからね」 吉羅は一瞬、苦々しい表情を顔に滲ませると、遠い瞳で澄んだ青空を見上げた。 「…日野君、体調はどうなのかね?」 「無理せずに、出来る限り頑張っています」 「それは良かった。無理は禁物だ。今までの努力を総て消し去ってしまうからね…。私の姉のように…」 「…お姉さん…」 香穂子は胸が締め付けられる程の痛みを感じて、唇を噛み締める。 「…あのひとは、ヴァイオリンを弾いただけの人生だった…。恋を知らず、ヴァイオリン以外のことを何も知らず、ただヴァイオリンだけを愛し、魅入られたが故に、神に召されてしまった…。君にはそうなって欲しくないと、私は願っているがね。あんなに切ない人生はないよ…。ヴァイオリンだけで終わってしまう短い人生なんて、あまりにも哀しい…」 「理事長…」 姉の話をする間の吉羅は、透明感のある水のように美しかった。 綺麗過ぎて、手を伸ばすことも憚られてしまうほどだ。 「…私はヴァイオリンだけじゃなくて、沢山夢中になりたいものがあります。だけどその中心には、いつもヴァイオリンがあって欲しい。そう思っています。ヴァイオリンは、私の人生を鮮やかに変えてくれましたから。それがとても嬉しいです。かけがえのないものです」 香穂子は、冬の柔らかな陽射しを浴びながら、素直に自分の気持ちを呟く。 清々しい気分を抱く事が出来た。 「…だが、ほどほどにしなければならない。躰を壊す程の無茶はしないほうが良い」 吉羅は苦々しく呟くと、この話題を切って捨てるかのように香穂子を見た。 「日野君、食事に行かないか」 「有り難うございます。ご一緒します」 「ああ」 香穂子はベンチから立ち上がると、ヴァイオリンケースを片手に吉羅の後に着いていく。 「だんだん陽射しが優しくて綺麗になってきましたね」 「…そうだね。春も近いということだよ」 吉羅は高い空を見上げながら、呟く。 亡くした姉のことを思っているのだろうと、視線で感じずにはいられなかった。 じっと見つめていたくなるほどに、細微なまでに整った吉羅の横顔を見つめながら、香穂子はこころが甘く温かくなるのを感じた。 「さあ、行こうか」 「あ、は、はいっ!」 香穂子が驚いて踏み出そうとしたところで、お約束通りに躓いてしまう。 「おっと…!」 吉羅は片腕で簡単に香穂子を抱き留めると、こけるのを阻止してくれた。 「全く…。君は相変わらず注意力が散漫だね」 呆れ果てるような声で言われて、香穂子は小さくなるしかない。 「…すみません…。以後、気をつけます…」 「ああ」 吉羅は返事をしたものの、なかなか香穂子を腕の中から放してはくれない。 ほんのりと薫るコロンの香りに、香穂子は甘い気分で酔っ払ってしまいそうになる。 まるでスウィートな美酒を飲んだような感覚だ。 鼓動が激しくビートを刻んで、クラシックではなくロックを奏でている。 「…吉羅…理事長…あの…もう、大丈夫ですから…」 声が掠れてしまうほどに緊張してしまい、喉がからからになる。 吉羅は香穂子からゆっくり離れると、そっと微笑む。 「行こう」 「はい」 吉羅の少し後ろを歩きながら、香穂子は甘酸っぱい気分になる。 いつか隣に堂々と並ぶ事が出来るならと、思わずにはいられなかった。 |