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吉羅に恋をしていると自覚をしてからというもの、香穂子はもっと吉羅のことを知りたくなった。 どんな些細なことでも、吉羅暁彦のことを知りたかった。 特に、吉羅が音楽を止めるきっかけになった姉のことを、もう少し知りたかった。 今日はもうアンサンブルコンサートまで最後から数えて後二回の定期考査だ。 香穂子は理事長室に向かい、いつものようにヴァイオリンを奏でる。 今日は吉羅と都築だけではなく、金澤もいる。 香穂子は背筋を伸ばして、ヴァイオリンを奏で始めた。 コンミスを依頼された時には、まさかこうなるとは思ってもみなかった。 土浦以上に好きになる相手が、こんなに身近にいるなんて考えてもいなかった。 あの頃は、土浦とはこれからずっと切磋琢磨して、お互いに成長しながら同じ道を歩くと信じていたのに。 今や大きな同じ道を行きながらも、明らかに行き着く場所が変わってしまった。 短い期間で様々な経験が出来たからこそ、こうしてヴァイオリンの音色も成長した表現をすることが出来たのだ。 ヴァイオリンを奏で終わり、頬を紅潮させたままで、吉羅たちを見つめた。 都築は頷くと、紅いルージュが良く似合う唇に笑みを浮かべる。 「…日野さん、上手くなったわね。本日で、オーケストラのメンバー集めや他の課題もクリアーしたわね。よく頑張ったわ。残りはアンサンブルの完成度を高めるだけね」 都築がここに来て、初めて褒めてくれたことが、香穂子には嬉しくてしょうがなかった。 ちらりと吉羅を見つめると、まだ気難しい顔をしている。 音楽に関しては都築に任せていると言ってはいるが、人一倍厳しいことを香穂子はよく解っている。 「…日野君、課題の達成はよくやった。だが、これで浮かれて貰っては困る。理事たちはああ見えても音楽に関する耳はかなり肥えている。アンサンブルの完成度はかなり高めなければならない。それは解っているかね」 相変わらず手厳しいが、それは香穂子のためになると思って言ってくれているのを今は解っているから、素直に聴くことが出来る。 「解っています…。だから頑張ります。理事たちに納得して頂けるような演奏になるように頑張ります」 「しかし日野、お前さんも努力家だなあ…」 金澤は感心するように言うと、何度も頷いていた。 「練習も楽しいですから、努力なんて思わないですよ」 「…努力と思わない…か…。だが、そんなにがむしゃらに頑張っても、音楽が幸せにしてくれるとは、私は思わないがね。音楽はそんなにも楽しいものなのかね…? 私はそうは思わない。私の姉のように不幸になる場合もある…」 吉羅は苦々しい言葉を香穂子にぶつけると、冷徹な視線を投げ掛ける。 かつて音楽を愛した者がこのような感情になるのは、哀し過ぎる。 香穂子は泣きそうな気分になりながら、吉羅を凜としたまなざしで見つめた。 「…音楽が不幸をもたらしたとは、思っていらっしゃらないかもしれないじゃないですか。理事長のお姉様も」 香穂子の言葉に、吉羅は神経質そうに目をスッと細めた。 「…姉に逢ったことのない君が…、そんなことを言う資格があるとは思えないがね…」 吉羅は厳しい口調で言うと、対峙するかのように香穂子を見つめる。 吉羅の瞳は、かつて香穂子たちと対立していた時のそれにとても似ていた。 どんなまなざしで見られても構わない。 「…確かにお逢いしたことはないです。ですが、同じヴァイオリンを…音楽を愛する者として、その気持ちが解る気がするんです…。どのような方だったのですか…?」 香穂子の瞳の真摯さを汲み取ったのか、吉羅は軽く溜め息を吐いた後に見つめてくる。 「…そんなに…知りたいのかね…?」 「はい」 香穂子はキッパリと言い切ると、吉羅を真っ直ぐ見つめた。 愛するひとのこころの奥が識りたい。ただその想いで見つめる。 吉羅は一瞬目を伏せると、視線を都築と金澤に向けた。 「申し訳ないですが、ふたりとも席を外して下さい」 吉羅が冷徹な声のトーンで言うと、ふたりとも静かに頷いて理事長室から出た。 ただし、香穂子に動揺を与えないようにと、クギを刺すことは忘れなかった。 「…さて、姉の話をしようか…。君と姉は…確かによく似ているよ…。…姉は…、ヴァイオリンを奏でていればそれだけで幸せだというところも、君によく似ている。…姉はこの上なく音楽を愛した人だった…。だが躰が悪くしていることを周りに隠して音楽を続けていたせいで、気付いた時には病気が進行して、既に手遅れになっていた。…音楽の祝福を受けて産まれてきた故に…、ヴァイオリンを弾くだけで一生を終えてしまったひとだよ。恋もせずに、生きる喜びを感じぬままに…あのひとは死んでしまった…。なのに…、この上なく綺麗に恋の曲を奏でていた…」 吉羅の瞳に苦痛の色が浮かび上がり、香穂子の胸の奥を抉る。 立ち入ってはならない領域に立ち入ってしまったのかもしれない。 だが、これだけは知って欲しかった。 音楽は哀しいものではない。 それを愛した者には、幸せをもたらす力があることを。 香穂子には、既に沢山の幸せをくれたのだから。 血が滲むほどに努力をする以上は、傍から見れば、幸せには見えないかもしれない。 だがこころの奥では、この上ない幸せを感じているかもしれないのだ。 自分を犠牲にしてしまえる程に音楽に打ち込むことが出来て、吉羅の姉は幸せだったと、本望だったのではないかと、香穂子は感じずにはいられなかった。 「…だけど、お姉様は幸せだったと思います。何よりもかけがえのない音楽に熱中出来たことを」 香穂子は、同じ境遇にいる者として、強くそれを感じる。だからこそ、言葉に出さずにはいられなかった。 だが、吉羅にはそのようなことはひとつも伝わらないようだった。 ただ冷たい視線を真っ直ぐ香穂子に向けている。 「…音楽が姉を不幸したのなら…、私はそんな祝福はいらない。だから私はヴァイオリンを捨てて、音楽とは無縁の人生を歩むことにしたんだ…」 「…私は…、音楽が不幸をもたらすとは思えません。私は沢山のものを貰いましたから。どれもかけがえのないものばかりです…!」 仲間と出会えたこと。 そして吉羅暁彦に逢えたこと。 沢山の素晴らしき宝石のような出会いをもたらせてくれたのだ。 だからかけがえのないより大事なものになった。 「…だが、それで総てを失うような、未来を失うようなことをしてはならない。君には、姉のようになって欲しくない。…君はヴァイオリン以外に何か好きなことはあるかね?」 「あります。だけど、音楽はそのなかで一番素敵で好きなものです」 香穂子がキッパリと言い切ると、吉羅は厳しく眉間に皺を寄せた。 「…君は、私の話をちゃんと聴いていたのかね。…話はそこまでだ、日野君。今日は帰りたまえ。君にそこまで立ち入られるいわれは何もない」 吉羅は香穂子の腕を強く掴むと、そのまま理事長室の外へと連れ出す。 「さよならだ、日野君」 目の前でピシャリとドアを閉められて、香穂子は目の前で息を呑む。 ドアを閉じられた瞬間、吉羅と住む世界が隔たれてしまいそうな気がした。 香穂子は切ない気持ちが込み上げてくるのを感じる。 だが、泣かなかった。 言った言葉を後悔はしていなかった。 むしろ言わなければならない言葉だと、香穂子は理解していた。 それで吉羅と切れてしまえばそれまでだと思う。 仕方がないことだ。 理性ではそう思っているのに、募るばかりの吉羅への恋心が、切なくて泣いている。 しょうがないなんて言葉を、恋心が一番嫌っているような気がしていた。 香穂子は涙を瞳の奥に引っ込めると、教室へと戻っていく。 今日は、胸が切な過ぎて、何も集中が出来ないと思った。 理事長室にひとり残り、吉羅は溜め息を零す。 「久しぶりだな…。感情的になったのは…」 いつもならば姉のことに触れられても、落ち着いて対応することが出来るというのに、香穂子が相手になると、つい子ども染みた感情を露わにしてしまう。 自分でも解っている。 香穂子に本当のことを言われると、かなり堪えるからだ。 こんなにも痛い感情は他にないのではないかとすら思った。 吉羅は指を組むと、顎の下に添える。 今日、香穂子と姉は本当によく似ていると思った。 こんなにも似ているなんて思いもよらなかった。 ヴァイオリンや音楽に対しての一途さや姿勢が、本当によく似ている。 だから余計に香穂子の言葉は堪えたのだ。 今まではずっと姉は不幸で馬鹿な人生を送ったと思っていた。 いや、そう思いこんでいただけなのだ。 本当のところ、姉が不幸に感じていたかは解らない。 だが、よく似ている香穂子からの言葉が真実に聞こえて、それが余計に感情のコントロールを失わせたのだ。 本当は充実していたかもしれないのだ。姉は。 これは吉羅のこころの中で、勝手に決めて良いことではないはずなのに。 愛しくてしょうがない少女の言葉は、吉羅を闇から抜け出させてくれるかもしれない。 姉の墓参りに行って気持ちの整理をしっかりしなければならないと、吉羅は思わずにはいられなかった。 |