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早朝しか時間がどうしても取れなくて、吉羅は都内から車を走らせて、横浜方面へと向かう。 どうしても姉の墓参りをしなければならないと思っていた。 出勤前が唯一時間が取れる時間であるからだ。 カフェで朝食を取って時間を調整し、吉羅は姉の眠る教会裏の墓地へと向かった。 墓地の開門は七時からだから、これも致し方ない。 昨日のうちに買っておいたカサブランカの花束を持って、吉羅は姉の墓に向かった。 早朝の空気はとても澄み渡っていて、こころを清らかにしてくれる。特に姉の墓参りに行く時は、いつもそうだ。 吉羅は、花束を姉の墓に捧げると、じっと墓碑銘を見つめる。 “地上のヴァイオリニスト。天上のヴァイオリニスト” 「ヴァイオリンだけの人生…。それをこころから望んだのは、あなた自身だ…。あなたは自分が一番良いと思った道を選んで、本望だったのかもしれない…」 吉羅は静かに姉に語りかけると、墓碑銘をなぞる。 「…いつも私はあなたばかりを追いかけていた…。私にとってはあなたが最高の憧れで、あなた以上になりたい、あなたのようになりたいと、ずっと思っていた…。私は自分の意志で音楽をやっていたわけではなく、あなたに導かれてやってきた…。…あなたが亡くなってしまって…、私の音楽の道標がなくなってしまった…。迷子になってしまったことへの切なさで、あなたが音楽によって殺されたと思い込んで、恨もうとしていたのかもしれない…。だから音楽に全く関係がない…、経済の道に進んだ…」 吉羅はフッと微笑むと、姉の名前をなぞった。 「…音楽を失ったと思っていましたが…、あなたによく似た瞳を持った少女に出会って…、また深く関わりたいと思うようになりました…。以前とは違う形で、音楽を楽しみ、その少女を見守りたいと思っています…」 吉羅は優しい気持ちになっていることに気付く。 香穂子のことを、ほんの少し思い出すだけで、こころが甘く満たされるような気がした。 吉羅に拒絶されたのは、確かに泣きたい程に辛いことだ。 だが、言ったことへの後悔は微塵もない。 香穂子は胸が切なく痛むのを感じながら、学院に向かって早朝の坂を上がっていた。 以前演奏ボランティアをしたことのある教会前で、香穂子は吉羅の愛車であるフェラーリを見つけた。 あのチャリティーバザーのコンサートの日、吉羅がカサブランカの花束を抱えて、墓地へと歩いていったことを 思い出した。 きっと姉の墓参りに来ているのだろう。 邪魔をしては悪いとは思いながら、香穂子はつい墓地に足を踏み入れた。 墓地に入ると、吉羅の姿は直ぐに見つかった。 上質のスーツを隙なく着こなしながらも、墓の前で跪いている。 綺麗だと思わずにはいられなかった。 香穂子がゆっくりと吉羅に近付いていくと、吉羅がゆっくりと顔を上げるのが見えた。 吉羅は香穂子の姿を見つけ、そのまま立ち上がる。 責めてはいない。ただ驚いたような瞳をしていた。 「…練習に行く前に、理事長の車をお見掛けしたので…」 香穂子が遠慮がちに言うと、吉羅はスッと目を細めた。 「…あ、お邪魔ですよね…。先に学院に…」 「日野君、姉を参ってやってくれないか…?」 「は、はいっ!」 意外な言葉に香穂子は身を引き締めながら、ゆっくりと慎重に吉羅に近付いていった。 吉羅の姉の墓前に来ると、香穂子は跪く。 どうして良いか分からなくて、ただ合掌してしまった。 「…君が来てくれたことを姉はきっと喜んでくれているはずだ。…良かったら姉のためにヴァイオリンを奏でてはくれないかね?」 「はいっ!」 香穂子は嬉しくてケースからヴァイオリンを出す。 「…お姉様が好きだった曲はありますか…?」 「…姉の好きだった曲は、君に楽譜をあげた“ジュ・トゥ・ヴ”だよ…」 「…はい。では“ジュ・トゥ・ヴ”を…」 香穂子ばヴァイオリンを構えると、清らかで情熱的な曲を奏で始めた。 この音色を、吉羅の姉に、そして吉羅自身にも届くように。 香穂子は真っ直ぐな気持ちでヴァイオリンを奏でた。 かつて吉羅の姉が愛した曲を香穂子なりに演奏をする。 吉羅のこころの奥に届きますように。 天の高みから見ているであろう、吉羅の姉に届きますように。 香穂子は優しくも切ない気持ちで、ヴァイオリンを奏でた。 奏でている間、香穂子は言葉に言い表すことが出来ない程の充実感と、切なくも甘味を帯びた感情を抱く。 ちらりと吉羅を見ると、ゆっくりと瞳を開いた。 「…綺麗な音色だね…。そして何よりも温かい…」 吉羅は静かに言うと、深みのあるまなざしを向けてくれる。 「姉もとても喜んでくれるだろうと思うよ。どうも有り難う、日野君」 吉羅の静かなる微笑みに、香穂子はうっとりとした気分を味わいながら微笑んだ。 吉羅は視線を澄み切った青い空に合わせると、まるで姉に語りかけるように見つめる。 「…姉が本当に幸せであったかなかったかは…、姉自身が決めることだ…。少なくとも…、私や君が決めて良いことじゃない…。…だから、私もいつまでもそのことにこだわっていては、先には進めない気がしている。これからは…」 吉羅はゆっくりと香穂子に視線を這わせると、柔らかな春の陽射しを宿した優美な瞳を向ける。 「…君が…、私の音楽への想いの道標になってくれたらと…、そう思う…」 吉羅の瞳に浮かぶ想いを受け取りながら、香穂子はそっと頷いた。 「…理事長は…、私の音楽の道標でもありますから…、だから…私の道を照らして下さい。これからも見守って下さると、とても嬉しいです」 香穂子の素直に言葉に、吉羅はフッと瞳を蕩かせる。 「…解ったよ。お互いの道標でいよう…。私たちは、“ファータが見える”という点では、共通点があるからね。お互いにそういう意味でも…、長い付き合いになりそうだね…」 吉羅はスッと香穂子のまろやかな頬に指先を伸ばすと、そのラインをゆっくりとなぞった。 「君が…、人としても音楽にしても、これから大人の女性として成長していく様子を見させて貰うことにしよう…。その役目を私にくれないかな?」 吉羅のうっとりとしてしまう程に甘美な低い声に、香穂子は酔い痴れながらゆっくりと頷く。 「…ずっと見つめていて下さい。私が変な方向に暴走しそうになったら、その時には、どうか軌道修正をするアドバイスを下さい」 「…解った。そうしよう…」 吉羅の低い声に笑みが滲む。 香穂子は頬を赤らめてうっとりとしながら、吉羅だけを見つめる。 どうか。 どうか、私だけを見つめてくれていたら、これほど嬉しいことはないのに。 「…私の音楽の道標にずっとなってくれないかね?」 「勿論です。ずっと理事長の手の届くところで、ヴァイオリンを弾きます。だから、見ていて下さいね」 「解った」 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅はゆっくりと顔を近付けてくる。 「…今は始業前だ…。私たちはまだ、“理事長と生徒”ではないからね…」 「…はい…」 吉羅は香穂子の顔を捕らえると、唇を重ねてきた。 しっとりとした甘いキス。 大人の余裕が感じられる。 だが、香穂子にとっては初めてのキスで、緊張し過ぎてしまい、ガチガチになってしまっていた。 土浦とはキス寸前までいったのに結局は、キスをする前に別れてしまった。 キス、きす、KISS。 初めてのキスは甘くて大人な味がすると同時に、何処か神聖な香りがした。 |