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早朝のキスは、朝採りの薔薇の花よりも香しく、瑞々しかった。 香穂子は幸せな想いに浸りながら、吉羅を見上げた。 香穂子が頬を紅に染め上げて僅かに笑うと、吉羅は朝の陽光のように眩しい笑顔を浮かべてくれる。 吉羅は香穂子の頬を、両手で優しく包んでくれた。 「後少しだ…。頑張りたまえ。だが、アンサンブルコンサートを乗り越えても、まだやらなければならないことは山程ある。引き続き精進したまえ」 「…はい。有り難うございます」 香穂子が夢見心地な気分で呟くと、吉羅はフッと微笑んだ。 「…私は先に行く…。学校で逢おう」 「…はい…。学校で…」 香穂子がぼんやりと呟くと、吉羅は頷いて背中を向ける。 吉羅の背中が見えなくなるまで見送った後、香穂子は震える指先で唇に触れた。 これは嘘じゃないのだ。 吉羅とキスをしたのは、リアルなことなのだ。 それを思うと胸が幸せにきゅんと鳴り響く。 香穂子は幸せ過ぎて、今にも泣きそうになった。 「…学校に…行かなくっちゃ…」 よろよろとした足取りで学校へと向かう。 こんなにも幸せでドキドキする感情は、今まで経験したことはなかった。 吉羅は理事長室に入るなり、フッと笑みを零す。 朝陽を浴びてヴァイオリンを奏でる香穂子が余りにも美しくて、気がついたら唇を奪っていた。 こんなにも欲しいと思った唇はないかもしれない。 キスをした瞬間、ファーストキスをしたガキのように、気持ちが高揚した。 あんなにもときめくキスを、今まで知らない。 抵抗されてもおかしくないのに、香穂子はキスを受け入れてくれた。 それが吉羅にとっては、この上なく幸せなことだった。 吉羅は目を閉じて想う。 誰よりも香穂子が欲しくてしょうがない。 香穂子がいれば、他の女なんていらないとすら想う。 それほど想える相手に出会えるとは、吉羅自身も思ってもみないことだった。 キスのお陰で、幸せな気分で仕事に向かうことが出来た。 放課後、香穂子がアンサンブルメンバーと演奏しているのを見掛けた。 本当に素晴らしい演奏をしている。 初めて香穂子を見たコンクールでは、殆ど力を出せてはいなかった。 だが今はどうだろうか。 着実に技術を習得し、温かくて清らかな音で、人々のこころに訴えかけている。 素晴らしいと吉羅は思わずにはいられない。 香穂子の上達の凄さに目を見張りながら、吉羅は聞き入っていた。 これなら理事たちも納得するだろう。 何も心配することはない。 吉羅は香穂子を愛が滲んだ瞳で見つめる。 よくここまで頑張ってくれた。 短期間ながら、ここまで頑張ってくれたのは、奇跡に等しい。 男女の愛以上の愛を抱くことが出来るとは思わなかった。 ここまで愛せる相手に巡り逢えるとは思わなかった。 その相手に巡り逢えることが出来て、自分は本当に幸せなだと想う。 演奏が終わり、誰もが感動の拍手を送っている。 きっとこれでコンサートの観客はもっと増えることだろう。 吉羅は拍手をした後、その場を立ち去ろうとしたところで、香穂子が視線を止めてきた。 可憐に頬を赤らめている姿が愛しくて、そのまま手を伸ばしたくなってしまう。 「理事長!」 明るい声で呼ばれて、こちらも立ち止まらないわけにはいかない。 一瞬、土浦の視線を感じたが、それを気にしないように香穂子だけに視線を向けた、 「調子は良さそうだね。このままでいけば、素晴らしいアンサンブルコンサートになるだろう」 「有り難うございます」 滅多に褒めない吉羅が褒めてくれたからか、香穂子は嬉しそうにはにかんでいる。 「だが、油断は禁物だ。これで良いだとか思わないように。音楽に“ここで良い”という地点はないんだ。自分で目標を定めてしまった時点で負けだ。更に良い演奏が出来るように、精一杯頑張りたまえ」 「はい、有り難うございます。頑張ります」 香穂子が素直ににっこりと笑う表情を受け取った後、吉羅は仕事に戻る。 アンサンブルコンサートが益々楽しみになってきた。 今日の演奏以上のものを聴かせてくれることだろう。 吉羅は幸せな甘さに酔いながら、仕事にむかった。 校内でアンサンブルを聴いてくれたのが、とても嬉しかった。 その上褒めてくれた。 また頑張ろうというやる気が溢れてくる。 最初はなんて冷たくて厳しいひとなのだろうと思った。 だが、香穂子を甘やかせず、厳しくも優しいまなざしで、ずっと見守っていてくれた。 だから頑張ることが出来た。 あの瞳が支えになって、ずっと前を向いていられたのだ。 吉羅の瞳の向こうに、希望を見出していたと言っても過言ではなかった。 「日野さん」 柚木に声を掛けられて、香穂子は振り返る。 「…君と理事長は二つの氷だね…」 「え?」 何を喩えているのか香穂子には分からなくて、思わず小首を傾げた。 「お互いの熱で、その自制心を溶かしている…。まあ、君達らしいけれど…」 柚木はフッとどこか悔しそうな笑みを浮かべた後で、フルートをケースに入れる。 「…明日からは本格的なリハーサルに入らなければならないね。頑張ろう…」 「はい。頑張りましょう」 柚木に香穂子は頷くと、春の色を滲ませ始めた青空を見つめる。 この空が春色でいっぱいになった時に、オーケストラのコンミスが待構えている。 週末までで音の完成度を高められた。 後はリハーサルを残すのみだ。 香穂子は、手を貸してくれるメンバーの足を引っ張らないように、更に良い音が出せるようにと、今日も駅前通りに練習に出掛けた。 最近、ストリートで練習をしていると、多くのひとが足を止めてくれるようになった。 こうして聴いて貰えるのが何よりも嬉しい。 香穂子が一通り演奏を終える頃、隙なくスーツを着こなした吉羅がやってきた。 「音に厚みが出てきたね、日野君」 「有り難うございます」 香穂子はにっこりと微笑むと、頭を軽く下げた。 「余り根を詰めてもいけない。気分転換に少しドライブにでも行かないかね?」 「有り難うございます。是非、連れて行って下さい」 「じゃあ一緒に行こう」 吉羅が歩く後ろを、香穂子は着いていく。 この広い背中を見ているだけで、言い様のない安心感が滲んで来るのだ。 吉羅の愛車フェラーリの助手席には、いつまで経っても慣れない。 いつも甘苦しい緊張に、おかしくなってしまいそうになるのだ。 「今日は海でも見に行かないか。魚を見に行くのも良い」 「そうですね。それはとても嬉しいです」 香穂子が微笑むと、吉羅も微笑んでくれた。 最近、よく笑うようになってくれた。 香穂子にはそれが嬉しい。 吉羅が運転する姿を見つめながら、香穂子は幸せを感じる。 本当は、車窓から海を見るよりも、吉羅が運転をする様子を見つめていたかった。 こうしてずっと見つめていられれば良いのにと、香穂子は思わずにはいられない。 水族館近くに車を停めて、香穂子は「海岸に出たい」と吉羅に言った。 春先の海岸はそれなりにロマンティックが落ちているから。 海岸を燥いで歩くのを、吉羅が見守ってくれる。 「春も近いんだって海が教えてくれていますよ。だけど今の時期が一番寒いんですよね」 息を弾ませながら言うと、不意に肩に吉羅のコートが掛けられる。 「理事長が寒いですっ!」 恐縮するように言うと、吉羅はフッと微笑み掛ける。 「だったらこうすれば良い」 吉羅は静かに呟くと、香穂子を背後から抱き締めた。 |