*恋のゆくえ*

21


 吉羅の温もりを背中に感じて、香穂子は泣いてしまいそうなぐらいに幸せな気分になった。
 吉羅のコロンの香りに、くらくらと酔い痴れてしまいそうになる。
 グリーンティの仄かな匂いがするコロンに、心臓が飛び出してしまいそうだった。
 緊張と言っても幸せな緊張で、香穂子は心臓をときめきのリズムで動かしている。
 じっと吉羅の温もりを感じていると、更に強く抱き締められた。
 その強さが丁度心地が好くて、香穂子は背中ごと総てを吉羅の胸に預ける。
「…暫く、こうしていても構わないかね? 私はとても寒くてね…」
「…暫く、こうしていて下さい…。私も寒くてしょうがないです」
 寒さではなく、吉羅の男の魅力に震える。
「震えているところを見ると、君は相当、寒いようだね…」
 背中を通して響く吉羅の声に、香穂子は息苦しくなるほどの甘さを感じていた。
 ずっとこうしていられたら良いのに。
 強く感じずにはいられない。
 がむしゃらに前を向いて進まなければならない時に、こうしてそばにいてくれたら良いのにと、思わずにはいられない。
「…こうしていて下さい。また、明日から頑張れますから…」
「日野君…」
 名前を呼ばれて更に強く抱き締められる。
 泣きたくなるぐらいに幸せな瞬間だった。

 こうして抱き締めることが、倫理的には許されないことは解ってはいる。
 だがそんなことはどうでも良いと思ってしまうほどに、香穂子の引力は凄い。
 こうしてずっと腕のなかに閉じ込めていられたら良いのにと思わずにはいられなかった。
 柔らかな躰が震えている。
 それがまた愛しくてしょうがない。
「…私、頑張りますね。アンサンブルコンサート。それよりももっともっとオーケストラも頑張ります。だから見ていて下さい。…私、理事長に見守って貰えると、本当に頑張れるんです。だから私が沢山頑張れるようにどうか見守っていて下さい。お願いします」
 はにかんだ声が愛しくて、吉羅は更に強く香穂子を抱き締める。
 誰にも渡したくはないという意志を込めて、吉羅は強く抱き締めれた。
 その強さに、香穂子は僅かに呼吸を乱す。
 そのまま腕の中で香穂子をくるりと回転させると、紅潮した愛らしい表情と向き合う。
 吉羅が香穂子の頬を撫でると、うっとりと目が閉じられる。その表情がどれほど色香があるか、きっと香穂子はしらないだろう。
「職権乱用かな?」
 苦笑いを浮かべると、香穂子もくすりと笑う。
「職権乱用ではないです。学校じゃないから…」
「…そうだね…」
 吉羅はくすりと笑うと、香穂子に唇を重ねた。
 初々しい香穂子のキスを感じながら、吉羅は至上の幸せを感じる。
 最初は見守るだけで良いと思っていた。
 香穂子に恋をしていると気付いた時には、彼女は他の男しか見ていなかったのだから。
 香穂子が幸せであるならばそれで構わない。
 それだけだった。
 だが見守っていくうちに、香穂子を見つめていくうちに、どうしても自分の手で幸せにしたいと思った。
 どうしてもこの腕に閉じ込めてしまいたいと思った。
 だからこの先も、香穂子が幸せであればそれで構わない。
 その幸せに自分が関わることが出来れば、それ以上に幸せなことはないだろうから。
 キスの後、香穂子はぎこちなく吉羅にそっと抱き付く。
 その仕草がとても可愛いくて、吉羅は更に強く抱き締めた。
 ふたりの顔を夕陽が麗しく照らして、時間を知らせてくれる。
「…夕陽だ。そろそろ食事にでも行かないか?」
「もう少しだけ、こうして夕陽を見つめていたいです…」
「解った」
 吉羅は、香穂子が寒くないようにと、包み込むように抱き締める。
 ふたりは暫くじっとしながら、穏やかな幸せを噛み締めていた。

 夕食が終わり、香穂子を家まで送り届ける。
「今日のごはんもとても美味しかったです」
 ご機嫌に微笑む香穂子に、吉羅もまた笑みを浮かべる。
「アンサンブルコンサートを成功させた暁には、もっと素敵なレストランに連れて行こう。ご褒美にね」
「いつも素敵なところばからですよ。本当にいつも美味しいから」
 香穂子は機嫌が良さそうに、にっこりと笑う。
「ご褒美は理事長をまる一日独占するとかは…、駄目ですか…? お忙しいのは解っていますが、理事長を一日で良いから…独占したいんです…」
 切ない恋心を滲ませるように香穂子が呟くものだから、吉羅は嬉しくて笑みを零す。
「…解った。今度の土曜日を空けておこう。君が行きたいところに行くことにしようか」
「有り難うございます…! とっても嬉しいです! 頑張りますね!」
 吉羅にとって、まる一日を空けるというのがどれ程難しいか解っているからか、香穂子は本当に嬉しそうに笑う。
 その表情を見ていると、更に愛しくなってしまい、吉羅はキスをしたい衝動を抑えた。
 名残惜しくも車は香穂子の家の前に着く。
「ご馳走さまでした。それと来週の土曜日を楽しみに更にヴァイオリンを頑張りますね」
「ああ。私もアンサンブルコンサートを楽しみにしているよ」
「はい。頑張りますね!」
 車が静かに家の前に停車すると、香穂子は名残惜しげに降りる。
 深々と一礼した後で、吉羅の車を見送ってくれた。
 バックミラーに映る香穂子を見つめながら、吉羅はようやく幸せの意味が分かり始めたような気がしていた。

 月曜日の定期報告。
 アンサンブル前の最後だ。
 香穂子は、今までの総仕上げとばかりに、吉羅と続きの前でヴァイオリンを奏でた。
 コンミスに指名されてから今日まで、余りにも沢山のことがあり過ぎた。そのどのような時にも、いつも吉羅がそばにいて支えてくれたのだ。
 音楽に悩み。
 恋に悩み。
 様々な悩みを乗り越えて、こうして前に進むことが出来たのは、ここにいる人達や仲間のお陰なのだから。
 香穂子は感謝を込めて、ヴァイオリンを弾いた。
「結構よ、日野さん。随分と上達したわね。驚いたわ…。あなたならきっと理事たちを説得することが出来るでしょう。アンサンブルコンサート、ひとりの観客として楽しみにしているわ」
 いつもは厳しい都築も、今日は好意的な言葉をくれた。
 そして吉羅も、深く頷いてくれる。
「理事たちも認めざるをえないだろうね…。だが日野君、まだ始まったばかりだ。更に努力をしたまえ。学院のためにも頑張ってくれたまえ」
 吉羅は静かに彼らしい言葉で、遠回しであるが褒めてくれた。
 香穂子はホッと息を吐きながら、「益々頑張ります」と頭を下げた。

 リハーサル前日、香穂子はチョコレートの材料を買いに、輸入食品雑貨店を訪れた。
 どうしても手作りのバレンタインチョコレートを渡したかった。
 吉羅のためだけに作ったチョコレートを、感謝と恋心を滲ませて。
 手作りチョコレートにぴったりなビターチョコレートを選んで、香穂子は幸せな緊張に満たされる。
 手作りチョコレートなんかをあげたら、吉羅は嫌がるんじゃないだろうか。
 それとも、喜んでくれるのだろうか。そんなことを、ついぐるぐると考えてしまう。
 香穂子は、吉羅が好みそうなビターなトリュフチョコレートを作って渡すことにした。
 せめて食べてくれたら良いのにと思わずにはいられなかった。
 チョコレートの魔法を期待しながら、香穂子は家路に急ぐ。
 チョコレートをプレゼントするのに、こんなにもときめくなんて思わなかった。
 初めての感覚を、抱き締めたくなった。



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