*恋のゆくえ*

22


 アンサンブルコンサートのリハーサル日、定例の理事会が開催された。
 今期を振り返ってという、一見、穏やかに見えるテーマではあったが、自分の利益しか追求しない理事たちは、若い吉羅を貶めようと、手ぐすねを引いて待っている。
 理事会よりも厳しい現場や会議に何度も遭遇してきたから、これぐらいのことは何とも思ってはいない。
 だが、日野香穂子のことを出されると、冷静ではいられない。
 初めてひとを本当に愛する意味を教えてくれた少女。
 ここまでひとを愛せるようになるとは、正直、思ってもみなかった。
 日野香穂子が、吉羅に本当の愛の意味を教えてくれたのだ。
 その彼女を過少評価する理事たちの穿った目が許せない。
 理事たちの視線から香穂子を守らなければならないと、吉羅は固く誓った。
 会議室にて、定例の理事会が始まる。
 来年度の星奏学院の経営方針などを一通り説明した後で、いよいよ本当の意味での本題に入る。
 雑談と言う名目の、言わば吉羅への集中攻撃だ。
「理事長、あなたが推していらっしゃる、普通科の生徒さんのアンサンブルの出来はいかがかしら? コンサートはいよいよ明日…。時間は充分に与えたわけですから、よもや準備不足というわけではないでしょう?」
 意地の悪さが声にまで滲んでいると思いながら、吉羅は静かに聴いていた。
「アンサンブルの完成度は良いです。日野君は、明日、あなた方に素晴らしい演奏を聴かせることでしょう」
 吉羅は自信を持ちながらも、いつものようにクールで淡々と呟く。
「相当、自信をお持ちのようだね。まあ、その自信の真相がどうなのかは、明日のコンサートでたっぷりと聴かせて頂こう」
 小馬鹿にしたように鼻で笑いながら理事のひとりが言う。
 その様子を、叔父である学院高校の校長が心配そうに見ていた。
 だがそんなことでは怯まない。
 日野香穂子の音楽の才能と実力が本物だと、自分が一番よく解っているのだから。
 香穂子を守ってやらなければならない。その為ならば、どのようなこともするし、どんな攻撃も甘んじて受けるつもりだ。。その覚悟は出来ている。
「理事長、あなたは随分と普通科の日野香穂子さんに目をかけておられるようですが、音楽科にはもっと 実力のある生徒がいるでしょう? なのに彼女だけを特別視するのは、おかしくありませんか?」
 女の理事は、まるで不適切だと言わんばかりにこちらを見ている。
「言ったはずです。彼女ほど素晴らしい広告塔はいないと。普通科でありながら、本当に素晴らしい演奏をする。彼女の実力は本物です。普通科生徒であっても、上質な音楽教育を受けることが出来る。学院の教育の素晴らしさを大いにPRする良い機会です。普通科は国公立・六大学・それらと同等の偏差値を誇る学院大への内部進学ともに、非常に良い力を発揮している。素晴らしい学力形成に加えて、同時に文化面、情操面も育める教育は何処にもない特質です。志願者を増やすためのPRとしては絶好の機会です」
 吉羅は淡々と潔癖な声で言い、理事たちを牽制するように見た。
 普通科だからといって香穂子を見下すことは許さない。
「随分と日野さんの実力を買っておられるようですね。随分と彼女に自信をお持ちのようですわね。ですが、私たちの耳を満足させるには…、ある意味音楽科生徒以上の実力を見せて頂かなければなりませんよ」
 ピシリと高齢の理事が高飛車に言う。
 理事長職を引き受ける時に、一番の難関理事だとは聞いていた。
 だが、そんなことでは怯みたくはない。
 吉羅は冷たい炎を宿した瞳で理事たちを見据えると、静かに口を開いた。
「学院の理事長である以上、学院の生徒に自信を持って何が悪いんですか…! むしろ自信を持たなければならないでしょう。 星奏学院の今後を踏まえた上で、日野香穂子は、最も適任だと言えます。学院の教育の将来を見据えるならば、日野香穂子こそコンミスに相応しいと、私は考えます」
 吉羅はいつもよりも張りのある声で、キッパリと言い切る。
 理事たちに啖呵を切れるほどに、香穂子の実力を信じていた。その実力に惚れ込んでいた。
 いつもは冷徹な吉羅が、鋭くも冷たい炎を見せたことで、理事たちは怯んだ。
「聴いて頂ければ分かる筈です。お話はそれからお聞きすることにします」
 吉羅はキッパリと言い切ると、静かに腰を下ろした。
「それではこれで理事会を終了します。散会」
 議長役である大学部学長の宣言で、会は終了した。
 理事たちが三三五五会議室から出て行くのを見届けた後、吉羅は立ち上がる。
「暁彦君、見事だったよ。明日のアンサンブルコンサートが本当に楽しみになった。日野さんを始めとするメンバーは、コンクールの時も、私たちに奇跡を見せてくれた。今回も奇跡を…。いや、奇跡などではないね。彼らの実力だ。ひとのこころを動かす力を、彼らは兼ね備えている。特に…、日野さんは…。私はね、彼女は今までにないヴァイオリニストになると信じているんだよ…」
 校長の柔らかなまなざしに、吉羅は応えるように頷く。
「私もそう思います。彼女ならばやってくれると、信じています」
 吉羅が確信を持って言うと、大学部の学長も頷いた。
「不思議な魅力を持つ子だよ。魂に語りかけるような優しい音色…。かつて…」
 学長はフッと寂しげな目をして遠くを見る。それは誰を示しているか、吉羅には直ぐに解った。
「…吉羅美夜…。日野さんの音の本質が非常によく似ている…。彼女が生きていれば…素晴らしいヴァイオリニストになっていただろう…」
 学長の一言に、そこにいる誰もが頷いていた。
 ここにいる者は、かつて吉羅美夜の奏でる音色に魅了されていたから。
「とにかく、明日が楽しみです。これは理事たちを唸らせるコンサートだけではなく、私たちが純粋に楽しめる、見事なアンサンブルコンサートであるでしょうから。バレンタインデーでもありますからね。生徒たちは程よくロマンティックに思っていることでしょう」
 校長は窓の外から、校内の様子を眺める。
 吉羅はそれを横から見つめる。
 誰もがこのかけがえのない時間を謳歌しているように見えた。
 当たり前に思っているだろう、星奏学院での日々。
 だがこの瞬間がかけがえのないものであったと、幸せ色に輝いていたと。素晴らしい想い出だと。後から気付いて貰えるように。
 最高の日々を送ったと思って貰えるような環境を、理事長として作ってやらなければならない。
 吉羅はふと、校内を歩く香穂子の姿を見つけた。
 日野香穂子には、誰よりもそう感じて欲しい。
 星奏学院での日々が、人生最良の時間の一つであると、こころから感じて欲しかった。
「それでは私たちはこれで失礼します」
 学長と校長は会議室を辞する。
「有り難うございました。私ももう少ししたら仕事に戻りますよ」
 吉羅は校長たちを視線で軽く見送った後で、窓の外を眺める。
 せめてもう少しだけ、香穂子を見つめていたかった。

 吉羅は会議室の片付けを終えて理事長室に戻ると、ドアの前で日野香穂子に出会った。
 その姿を見るだけで、自然と柔らかな笑みがこぼれた。
「理事長! おはようございます」
「“おはよう”は些か遅い時間だがね」
 吉羅は苦笑いをしながら香穂子を見つめると、その顔を見つめた。
「いよいよコンサートは明日だね。調子はどうかね?」
「まあまあです。明日は良い演奏が出来ればと思っています。ベストを尽して頑張ります」
「しっかりとやりたまえ」
「はい!」
 見つめ合うだけで元気になるのは日野香穂子だからだ。
 もう少し見つめていたいと思っていたが、無情にもチャイムが鳴ってしまう。
「授業、始まりますから失礼しますね」
「ああ」
 教室に戻る香穂子を見つめながら、吉羅は幸せを噛み締める。
 明日はきっと上手くいくと確信を持っていた。



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