*恋のゆくえ*

23


 アンサンブルコンサートのリハーサルがいよいよ始まる。
 コンミスを目指して努力を始めた時には想像しなかった様々なことが、胸に去来する。
 まさか土浦と別れてしまうことになるなんて、あの頃は思わなかった。
 同時に見つけたかけがえのない愛。
 一生愛することが出来ると思える相手に、巡り逢えるとは思ってもみなかった。
 出来事が香穂子をより前向きに成長させてくれたと、今は思っている。
 ヴァイオリンの音にも厚みが加わったのではないかと、自分でも感じた程だ。
 コンサートと同じ形式で曲を奏でて、最終チェックをする。
 おかしいと思ったところは細かいところまでお互いにチェックをしあい、より良い演奏を作り上げる。
 理事たちの鼻をあかしたいだとか、そんな想いは、香穂子のなかには一切なかった。
 ただ、アンサンブルコンサートにわざわざ足を運んでくれる人々に、最高の演奏を届けられればと、思わずにはいられなかった。
 リハーサルが終わり、香穂子が講堂を出たところで、土浦に声を掛けられた。
「日野、少しだけ良いか?」
「うん、大丈夫だよ」
 友人だから断る理由なんて何もない。香穂子は屈託なく頷いた。
「今日のお前の演奏、今までで一番良かった。本当に聴く度に上手くなっていくのは凄いと思う。音に厚みが増したというか。お前らしい温かな音に、より深みが加わったような気がする。明日のコンサートも、今日以上の演奏をしてくれると期待しているぜ」
「有り難う、土浦君」
 香穂子は微笑むと、土浦に鮮やかな笑みを送る。
 一瞬、土浦が息を飲んだような気がした。
「どうしたの?」
 土浦はフッと寂しげな笑みを浮かべると、香穂子を見つめる。
「お前にこういう笑顔をさせるのは、やっぱり吉羅理事長なんだろうな。吉羅理事長に出会って、確かにお前の音はより成長したように思える。悔しいけれど…、俺と付き合っていた時よりも、お前は綺麗だなって思うよ…」
 土浦は、本当に悔しそうな笑みを浮かべて香穂子を見つめてきた。
「…有り難う土浦君。そう言って貰えて、私はとても嬉しいよ」
 香穂子が笑顔で答えると、土浦は益々切なそうな顔をする。
 だがそれを振り切るかのように、土浦は前を見つめた。
「明日、お互いに頑張ろうぜ。最高に良い演奏をしよう」
「そうだね。お互いに頑張ろうね」
 香穂子は頷くと、土浦にエールを送るように笑った。
「じゃあ俺はこれで」
「うん。有り難う」
 土浦の広い背中を見つめながら、香穂子は頭を下げる。
 ここまで来ることが出来たのは、土浦のお陰でもあるから。
 友人としての“どうぞよろしく”を込めて、香穂子は頭を下げた。

 香穂子と土浦が一緒にいるのを見たのは、全く偶然だった。
 吉羅はほんのりと苦々しい想いを抱く。
 ふたりは年齢も釣り合っていて、年相応のカップルに見える。
 自分と香穂子の組み合わせのほうが、余程、アンバランスだ。
 胃の辺りが強張るような痛みに、吉羅は苦笑いを浮かべる。
 一回り以上違う女の子を巡って、一回り以上違う男に嫉妬するなんて、今までは考えられないことだった。
 なのに、今や夢中になってしまっている自分がいる。
 何を話しているのかは、窺い知ることは出来ないが、香穂子が元カレである土浦と話しているという自体、吉羅には気に入らないことだった。
 ふたりは話した後、何故か一緒に帰ろうとはせずに、ばらばらで帰っていく。
 ほんの少しだけホッとした自分に、吉羅は苦笑いすら浮かべていた。
「日野君、今帰りかね」
 吉羅は何とも思っていないとばからの感情のない声で言う。
「はい。アンサンブルコンサートのリハーサルも終わりましたから、後は、本番に備えるだけです」
 香穂子は健康そうに頬を赤らめると、吉羅を真っ直ぐ見つめる。
 どうか。そんな瞳で見つめないで欲しい。抱き締めたくなるから。
「そうか。今夜はゆっくりと休みたまえ。気をつけて帰りたまえ。では」
 ついこころとは違うことを言ってしまう。
 本当は送ってやりたいのに。
 なのに天の邪鬼な気持ちが邪魔をする。
 まるで吉羅の気持ちを酌むかのように、リリが現れた。
「こら! 吉羅暁彦! 送ってぐらいやったらどうなのだ!」
 リリに叱られているのに、吉羅の唇には笑みが浮かんだ。
「日野君、良ければ送ろう。車に乗りたまえ」
 吉羅はいつものようにクールな顔をしているのに、内心では助け船を出してくれたリリに感謝をする。
「有り難うございます」
 香穂子は笑顔で礼を言うと、駐車場に着いてくる。
 助手席に香穂子が乗り込んだのを確かめて、吉羅は運転席に乗り込んだ。
 エンジンを掛けながら、ゆっくりと車を出す。
「君の家はここからすぐだったね」
「はい。車だと五分もかからないぐらいです」
「そうか」
 吉羅は低い声で静かに呟いた後、前を見つめながら言葉を続ける。
「この間、久し振りに姉の墓参りに行ってきたよ…。…姉が不幸であったかどうか…、そんなことを考えた…。だが結局は、姉が不幸であったかどうかは姉にしか決められないけとを改めて思った。私や君が決めて良いことじゃないと…ね。私にはかなりの進歩だよ…」
 吉羅はフッと微笑むと、ハンドルを香穂子の家ではないほうに切る。
「日野君、時間はあるかね? 今からドライブ方々食事に行かないかね?」
 吉羅が甘い声で明るく言うと、香穂子は頷いてくれる。
「はい、喜んでお供をしますね。楽しみです」
 香穂子の明朗な返事に、吉羅自身も嬉しくなってしまう。
「明日は大切なコンサートだからね。君を早く帰せるようにするから」
「お気遣い有り難うございます」
 香穂子が笑うと、吉羅はつい微笑んでしまう。
 きっとこんなにも笑わせてくれるのは、日野香穂子だけだ。
 吉羅がこんなにも笑うことを知ったら、誰もが驚いてしまうだろう。
「明日のコンサート、私もとても楽しみにしている。クリスマスコンサート…。あれは、良かった。あれ以上のものを君が見せてくれることを、私は楽しみにしているよ」
「はい。有り難うございます。頑張りますから、見ていて下さいね」
「勿論だ」
 吉羅は車を、有名な高級寿司屋が入るホテルの駐車場に入れる。
 これなら短時間で、香穂子をお腹いっぱいにしてやれるだろうから。
 吉羅は先に車を降りると、助手席のドアを開けてやる。
「どうぞ、お嬢さん」
「有り難うございます」
 香穂子ははにかんだ様子で車から降りる。
 本当は手を繋ぎたいのは山々なのだが、香穂子が制服姿である以上は少し遠慮をした。
 ふたりで寿司屋に入り、手軽にしかも栄養がつく、豪華なちらし寿司のセットを注文する。
 新鮮なネタを使っているからかなり美味しいはずだし、寿司の他にも揚げたての天ぷらや茶碗蒸し等が付くのでボリュームもある。
 香穂子は嬉しそうに寿司を頬張りながら、吉羅を何度もはにかんで見つめた。

 寿司はかなり美味しくて、香穂子の好みにあうものだった。
 いつものフルコースも良いが、こういう食事も好きだった。
 手早く夕食を済ませた後、吉羅は香穂子のリクエストに応じて、横浜の夜景が美しく見えるところに立ち寄ってくれた。
「明日の為に遅くなれないからね。直ぐに帰ろう」
 吉羅は相変わらず容赦なく冷たい。
「あ、あのっ! アンサンブルコンサートが上手くいくようにおまじないをしてくれませんか!?」
 香穂子が真剣に言うと、吉羅は怪訝そうにこちらを見る。
「おまじない?」
「あ、あのっ! …キスしてくれたら…上手くいくような気がして…」
 香穂子がうわずった声で懇願すると、吉羅は力強く抱き締めながら唇を重ねてきた。



Back Top Next