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吉羅に送って貰っている間も、香穂子は甘い気持ちでぼんやりとしていた。 おまじないのキス。 自分から懇願したものとはいえ、まさか吉羅がしてくれるとは思わなかった。 夢見るような瞬間だった。いや、まだ夢を見ているのかもしれない。 「日野君、着いたよ」 吉羅の声に、香穂子はハッとして顔を上げる。 「あ、有り難うございましたっ」 慌ててシートベルトを外そうとするが、全く上手くいかない。 「あ、あの、あ」 香穂子がうろたえていると、吉羅はクールにシートベルトを外してくれた。 「どうぞ」 「あ、有り難うございます」 香穂子が車を降りると、吉羅はいつものように車を降りて見送ってくれる。 「明日は楽しみにしている。しっかりと頑張りたまえ。君が理事たちの鼻を明かしてくれることを、私はとても楽しみにしているよ」 吉羅はそう言うと、再び運転席に乗り込む。 「それでは」 「はい。有り難うございました…」 吉羅は静かに車を走らせて、闇に消えていく。 その姿を追いかけながら、香穂子は甘酸っぱい気分に胸を焦がしていた。 香穂子は着替え終わると、吉羅のためだけにビターチョコレートを使ったケーキを作り始める。 コンクール仲間や金澤には既に市販の可愛いチョコレートを用意していた。勿論、土浦の分もそこにはある。 女の子には、甘いチョコレートケーキを焼いて贈る。都築には世話になったという意味も込めてだ。 だがとっておきはやはり吉羅へのチョコレートケーキ。ビターでほんのりと洋酒を効かせた大人なケーキだ。 スウィートなケーキと途中までは同じように生地は作り、女の子向けにはマドレーヌの型に流し込み、吉羅のものはパウンドケーキの型に流し込んだ。 吉羅は特別なひとだから。 その想いも込めてだ。 香穂子はケーキをオーブンで焼いている間、明日の準備をする。 明日は綺麗になりたい。 明日は最高の音色を奏でたい。 それだけを胸に、香穂子は準備に勤しんだ。 ケーキが焼終わると荒熱を取り、その間に片付けをする。 余り時間を無駄にしたくはなかったから、香穂子は細かいところまで綿密に時間の組み立てを行なった。 ようやくラッピングをして、完成する。 それを紙袋に入れている間、なんとも言えない幸せな気分になった。 総ての準備が終わり、ベッドに入れば、いよいよ明日だという気持ちが高まってくる。 ただ自分にとってのベストを尽すだけだ。 本当にそれだけだ。 自分が今まで頑張ってきた証を、音にして表現するだけだ。 香穂子は静かな気分になりながら、ゆっくりと目を閉じた。 明日は決戦の日。 コンミスとしても女としてもそれは変わらない。 香穂子は戦に備えるために深い眠りについた。 決戦の朝は、いつもよりも早く目が覚めた。 アンサンブルコンサートの日といえど、学校は通常通りにあるのだから行かなければならない。 大きな荷物を幾つも持って、香穂子はいつもよりもかなり早く学院へと向かう。 学院に行く前に、どうしても行きたい場所があった。 吉羅美夜の墓。 力を貰うために、香穂子は教会へと向かった。 早朝の教会は誰もいなくてひっそりとしており、空気が澄んでいる。 こころまでもが透明になるのを感じながら、香穂子は吉羅美夜の墓前に腰を下ろした。 バレンタインの甘いチョコレートケーキをひとつ、カサブランカの花を一輪だけ供える。 どうか。力を貸して下さい。 アンサンブルコンサートも、そして乙女の決戦日であるバレンタインデーにも。 キスをしたからといって、恋人同士である保障はどこにもないから、素直な自分の気持ちを、香穂子は伝えたかった。 「頑張りますから、見ていて下さいね」 香穂子は吉羅美夜に囁き掛けると、ゆっくりと立ち上がった。 「頑張ってきます」 香穂子はそれだけを言うと、墓地から出た。 香穂子と入れ替わるように吉羅暁彦が墓地にやってきた。 吉羅は、姉の墓前にある可愛い供物を見て、フッと微笑む。 誰が供えたか訊かなくても解る。 日野香穂子だ。 それ以外は考えられない。 吉羅は、香穂子らしい供物を見て、こころが温かくなるのを感じていた。 「…今日はバレンタインか…。縁がないものだから、すっかりと忘れていたな…。下らない行事…。…ではないかもしれないな…」 吉羅は、香穂子が供えたものの横に、カサブランカの花束を供える。 今日、願うことはただひとつだ。 「…姉さん…、今日のアンサンブルコンサートが成功するように力を貸して下さい。お願いします。日野君ならばやり抜くと信じていますが、彼女がより伸びやかに演奏が出来るように力を貸して下さい」 吉羅は力強い声で姉に語り掛けて、力を請う。 どうか香穂子のこれからの音楽人生に祝福をあげて欲しい。 吉羅はそれだけを願っていた。 ふとバレンタインのケーキが目に入る。 香穂子のことだ。きっとコンクール仲間にも同じように配るのだろう。 吉羅は微笑むと、静かに墓前を後にした。 午前の授業が終わると、香穂子たち出演者は、アンサンブルコンサートの会場へと向かう。 昼食を取ってコンサートの準備をするのだ。 引率者は勿論金澤だ。 吉羅はギリギリまで仕事をしてから、コンサートを聴きに来ると聴いていた。 昼食の後、香穂子はアンサンブルメンバーとサポートをしてくれた人々に、甘いプレゼントを贈った。 誰もが喜んでくれたのがとても嬉しかった。 ただ土浦だけは、ほんの少しだけ複雑な顔をしていたが、それは仕方がないことだ。 紙袋に残ったのは、吉羅へのバレンタインプレゼントだけ。チェシャ猫の置物とチョコレートケーキ。 どちらも香穂子のこころがこもったものだ。 「日野さん、今日はしっかりね」 都築はにっこりと妖艶に微笑むと、ふと紙袋に視線を向ける。 「…日野さん、お化粧を少し直しましょうか?」 都築はにっこりと微笑むと、香穂子に手招きをしてくれる。それは頼りになるお姉様といったところだろうか。 「さあ、少しばかりお化粧を直すわね」 都築はパウダーファンデーションやブレストパウダー、アイシャドーやチークを使ってさり気なくメイクを直してくれる。 「唇はグロスを塗ると良いわね。あなたにはとても似合うわよ。あなたには綺麗になって男性にかしづかれる価値があるから」 「都築さん…」 これだけ綺麗にして貰えば、吉羅も少しは甘い言葉をくれるだろうか。 少しは「綺麗だ」と言ってくれるだろうか。 香穂子にはそれだけが気掛かりだった。 「本当に綺麗よ。今日のあなたは。これで自信を持っていってらっしゃい」 「はい。頑張りますね」 香穂子ははにかんだように笑うと、都築を真っ直ぐ見つめた。 「そろそろ準備をしろよ」 「はい!」 金澤に声を掛けられて、香穂子たちは急いで準備をする。 「さあ、行ってこい! 行って理事たちをアッと言わせて来い!」 「はい!」 金澤に背中を叩かれて、香穂子たちはステージに向かった。 吉羅はゆったりとシートに腰を下ろして、悠然とステージを見つめている。 「吉羅理事長。今だけせいぜい余裕を見せておけば良いですな」 「全く。素晴らしい演奏を期待していますよ、せいぜい私たちをがっかりさせないで貰いたいですな」 理事たちの挑発にも、吉羅は全く動揺はしない。 香穂子の実力は誰よりも解っているつもりだからだ。 「聴いてみてからおっしゃって下さい。幕が開きます」 吉羅はただ見つめる。 愛しい少女だけを。 |