*恋のゆくえ*

24


 吉羅に送って貰っている間も、香穂子は甘い気持ちでぼんやりとしていた。
 おまじないのキス。
 自分から懇願したものとはいえ、まさか吉羅がしてくれるとは思わなかった。
 夢見るような瞬間だった。いや、まだ夢を見ているのかもしれない。
「日野君、着いたよ」
 吉羅の声に、香穂子はハッとして顔を上げる。
「あ、有り難うございましたっ」
 慌ててシートベルトを外そうとするが、全く上手くいかない。
「あ、あの、あ」
 香穂子がうろたえていると、吉羅はクールにシートベルトを外してくれた。
「どうぞ」
「あ、有り難うございます」
 香穂子が車を降りると、吉羅はいつものように車を降りて見送ってくれる。
「明日は楽しみにしている。しっかりと頑張りたまえ。君が理事たちの鼻を明かしてくれることを、私はとても楽しみにしているよ」
 吉羅はそう言うと、再び運転席に乗り込む。
「それでは」
「はい。有り難うございました…」
 吉羅は静かに車を走らせて、闇に消えていく。
 その姿を追いかけながら、香穂子は甘酸っぱい気分に胸を焦がしていた。
 香穂子は着替え終わると、吉羅のためだけにビターチョコレートを使ったケーキを作り始める。
 コンクール仲間や金澤には既に市販の可愛いチョコレートを用意していた。勿論、土浦の分もそこにはある。
 女の子には、甘いチョコレートケーキを焼いて贈る。都築には世話になったという意味も込めてだ。
 だがとっておきはやはり吉羅へのチョコレートケーキ。ビターでほんのりと洋酒を効かせた大人なケーキだ。
 スウィートなケーキと途中までは同じように生地は作り、女の子向けにはマドレーヌの型に流し込み、吉羅のものはパウンドケーキの型に流し込んだ。
 吉羅は特別なひとだから。
 その想いも込めてだ。
 香穂子はケーキをオーブンで焼いている間、明日の準備をする。
 明日は綺麗になりたい。
 明日は最高の音色を奏でたい。
 それだけを胸に、香穂子は準備に勤しんだ。
 ケーキが焼終わると荒熱を取り、その間に片付けをする。
 余り時間を無駄にしたくはなかったから、香穂子は細かいところまで綿密に時間の組み立てを行なった。
 ようやくラッピングをして、完成する。
 それを紙袋に入れている間、なんとも言えない幸せな気分になった。

 総ての準備が終わり、ベッドに入れば、いよいよ明日だという気持ちが高まってくる。
 ただ自分にとってのベストを尽すだけだ。
 本当にそれだけだ。
 自分が今まで頑張ってきた証を、音にして表現するだけだ。
 香穂子は静かな気分になりながら、ゆっくりと目を閉じた。
 明日は決戦の日。
 コンミスとしても女としてもそれは変わらない。
 香穂子は戦に備えるために深い眠りについた。

 決戦の朝は、いつもよりも早く目が覚めた。
 アンサンブルコンサートの日といえど、学校は通常通りにあるのだから行かなければならない。
 大きな荷物を幾つも持って、香穂子はいつもよりもかなり早く学院へと向かう。
 学院に行く前に、どうしても行きたい場所があった。
 吉羅美夜の墓。
 力を貰うために、香穂子は教会へと向かった。
 早朝の教会は誰もいなくてひっそりとしており、空気が澄んでいる。
 こころまでもが透明になるのを感じながら、香穂子は吉羅美夜の墓前に腰を下ろした。
 バレンタインの甘いチョコレートケーキをひとつ、カサブランカの花を一輪だけ供える。
 どうか。力を貸して下さい。
 アンサンブルコンサートも、そして乙女の決戦日であるバレンタインデーにも。
 キスをしたからといって、恋人同士である保障はどこにもないから、素直な自分の気持ちを、香穂子は伝えたかった。
「頑張りますから、見ていて下さいね」
 香穂子は吉羅美夜に囁き掛けると、ゆっくりと立ち上がった。
「頑張ってきます」
 香穂子はそれだけを言うと、墓地から出た。

 香穂子と入れ替わるように吉羅暁彦が墓地にやってきた。
 吉羅は、姉の墓前にある可愛い供物を見て、フッと微笑む。
 誰が供えたか訊かなくても解る。
 日野香穂子だ。
 それ以外は考えられない。
 吉羅は、香穂子らしい供物を見て、こころが温かくなるのを感じていた。
「…今日はバレンタインか…。縁がないものだから、すっかりと忘れていたな…。下らない行事…。…ではないかもしれないな…」
 吉羅は、香穂子が供えたものの横に、カサブランカの花束を供える。
 今日、願うことはただひとつだ。
「…姉さん…、今日のアンサンブルコンサートが成功するように力を貸して下さい。お願いします。日野君ならばやり抜くと信じていますが、彼女がより伸びやかに演奏が出来るように力を貸して下さい」
 吉羅は力強い声で姉に語り掛けて、力を請う。
 どうか香穂子のこれからの音楽人生に祝福をあげて欲しい。
 吉羅はそれだけを願っていた。
 ふとバレンタインのケーキが目に入る。
 香穂子のことだ。きっとコンクール仲間にも同じように配るのだろう。
 吉羅は微笑むと、静かに墓前を後にした。

 午前の授業が終わると、香穂子たち出演者は、アンサンブルコンサートの会場へと向かう。
 昼食を取ってコンサートの準備をするのだ。
 引率者は勿論金澤だ。
 吉羅はギリギリまで仕事をしてから、コンサートを聴きに来ると聴いていた。
 昼食の後、香穂子はアンサンブルメンバーとサポートをしてくれた人々に、甘いプレゼントを贈った。
 誰もが喜んでくれたのがとても嬉しかった。
 ただ土浦だけは、ほんの少しだけ複雑な顔をしていたが、それは仕方がないことだ。
 紙袋に残ったのは、吉羅へのバレンタインプレゼントだけ。チェシャ猫の置物とチョコレートケーキ。
 どちらも香穂子のこころがこもったものだ。
「日野さん、今日はしっかりね」
 都築はにっこりと妖艶に微笑むと、ふと紙袋に視線を向ける。
「…日野さん、お化粧を少し直しましょうか?」
 都築はにっこりと微笑むと、香穂子に手招きをしてくれる。それは頼りになるお姉様といったところだろうか。
「さあ、少しばかりお化粧を直すわね」
 都築はパウダーファンデーションやブレストパウダー、アイシャドーやチークを使ってさり気なくメイクを直してくれる。
「唇はグロスを塗ると良いわね。あなたにはとても似合うわよ。あなたには綺麗になって男性にかしづかれる価値があるから」
「都築さん…」
 これだけ綺麗にして貰えば、吉羅も少しは甘い言葉をくれるだろうか。
 少しは「綺麗だ」と言ってくれるだろうか。
 香穂子にはそれだけが気掛かりだった。
「本当に綺麗よ。今日のあなたは。これで自信を持っていってらっしゃい」
「はい。頑張りますね」
 香穂子ははにかんだように笑うと、都築を真っ直ぐ見つめた。
「そろそろ準備をしろよ」
「はい!」
 金澤に声を掛けられて、香穂子たちは急いで準備をする。
「さあ、行ってこい! 行って理事たちをアッと言わせて来い!」
「はい!」
 金澤に背中を叩かれて、香穂子たちはステージに向かった。

 吉羅はゆったりとシートに腰を下ろして、悠然とステージを見つめている。
「吉羅理事長。今だけせいぜい余裕を見せておけば良いですな」
「全く。素晴らしい演奏を期待していますよ、せいぜい私たちをがっかりさせないで貰いたいですな」
 理事たちの挑発にも、吉羅は全く動揺はしない。
 香穂子の実力は誰よりも解っているつもりだからだ。
「聴いてみてからおっしゃって下さい。幕が開きます」
 吉羅はただ見つめる。
 愛しい少女だけを。



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