*Love Fool*

3


「あっ…吉羅さん…」
 香穂子がヴァイオリンを持ったまま、甘く躰をしならせると、吉羅は更に強く抱き締めてくる。
「…今日の君はとても綺麗だ…。私は…ヴァイオリンを弾いている君を見るのが好きだが…、こんなに美しいと、誰にも見せたくはなくなってしまうね…」
「…吉羅さん…」
 香穂子は息を乱すと、吉羅の胸に総てを預ける。
「吉羅さん…、これは“エイプリルフール”の甘い甘いいたずら…ですか…?」
「…いいや…。“エイプリルフール”なんて関係ないよ…。だが…、嘘を吐いて良いという日は、私にとっては“素直になれる日”なのかもしれないがね…」
 吉羅の言葉に、香穂子はくすりと笑う。
「…天の邪鬼ですよ。それだと」
「天の邪鬼は今に始まったことじゃない。君もよく知っているだろう?」
「そうですね」
 香穂子がくすりと笑っていると、吉羅が更に甘く微笑んだ。
 吉羅は抱擁を解こうとはせずに、ただ強く抱き締めてくる。香穂子は思わず震えた。
「…花冷えかな? 寒いのかね」
「少しだけ…」
 本当は寒くなんかない。むしろ肌が沸騰してしまいそうだ。
 吉羅は更に躰を密着させてくる。逞しい感触に、香穂子はくらくらしてしまう。
 不意に風が吹いて桜の花びらが散り、闇に浮かんで最後の輝きを見せている。
 余りの美しさに香穂子は息を呑んで見つめた。
 花にはらはらと落ちる桜の花を見つめながら、香穂子は泣きそうな気分になる。
 本当に美しくて、香穂子はただじっと見上げていた。
「花が着いているよ」
「…あ」
 髪がふわりとした感触に、香穂子は目線を上にあげる。
「花びらを取るなどという無粋なことは、止めにしようか…」
「…そうですね」
 香穂子が頷くと、吉羅は腕の中でくるりと香穂子の躰を回転させた。
 熱い瞳で見つめられて、香穂子は胸を熱くさせる。
「…綺麗だね」
「…花が、ですか…?」
「…ああ。花がとても綺麗だね…。だけど…君のほうが美しいと、私は思うよ…」
 そんな歯の浮くような台詞を、香穂子は照れ臭くなりながらも幸せを感じる。
 普段の吉羅ならば、絶体に吐かない台詞だろうから。
 そんな台詞ならばずっと聞いていたい。
「…吉羅さん…、それはエイプリルフールだから…ですか…?」
「…君はさっきからそればかりを気にしてしまうね…」
 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子に顔を近付けてくる。
「…だってエイプリルフールは…、立派なイベントだし…」
「…そんなことを言う唇は塞いでしまわないといけないね…」
「…あ…」
 唇が近付いてきて、そっと重なる。
 香穂子は甘いキスを受け取りながら、このまま時間が止まってしまえば良いのにと、思わずにはいられない。
 しっとりと吸い付くようなキスは、官能的に深くなる。
 舌を深く入れ込まれて、このまま墜落してしまうのではないかとすら思った。
 唇を離されて、香穂子はぼんやりと吉羅を見上げる。潤んだ瞳が、男の本能をくすぐるとは知らずに。
「…香穂子…」
 熱くて甘い声で名前を囁かれて、香穂子はこのまま崩れ落ちても構わないと思ってしまう。
「…何だか四月が見せてくれた夢みたいです…」
「君が言うところの“エイプリルフール”の奇跡かね?」
「そんな風に思えたら、きっと幸せだなあって」
 香穂子が夢見心地でうっとりと呟くと、吉羅は熱が滲んだまなざしを向けてくる。
「…奇跡なんかじゃないよ…。これはリアルなことだ…」
「吉羅さん…」
 香穂子が頷くと、吉羅はその手を握り締めてくれた。
「部屋に入ろうか…。もう遅いからね。明日の観光は短い時間しか出来ないからね。なるべく早く回ろう」
「はい」
 香穂子は吉羅の手に惹かれて部屋へと上がる。
 するといつの間にか後片付けがされていて、障子を隔てた向こう側の部屋には、布団がふた組み綺麗に敷いてあった。
 かなりくっついており、香穂子は恥ずかしくなった。
「奥には狭いがこの部屋専用の浴室があるから使いたまえ」
「有り難うございます」
 香穂子は頷いた後、緊張気味に吉羅を見上げた。
 吉羅は香穂子の不安を消し去るように微笑んでくれると、額にキスをくれた。
「緊張しなくても構わないから」
「はい」
 吉羅は香穂子に浴衣を一組渡すと、浴室まで送ってくれる。
「ゆっくりしてくると良いよ」
「はい、有り難うございます」
 香穂子は脱衣室でひとりになり、肌が震えるのを感じた。
 それは明らかに吉羅への欲望が滲んでいる。
 香穂子は息がおかしくなるのを感じながら、衣服を脱いでいく。
 吉羅とそういう風になるとは、まだ決まってはいない。
 ひょっとしてこのまま眠るだけかもしれない。
 だが、そうなれば切なさを感じる自分がいることを、香穂子には解っていた。
 吉羅にこのまま抱き締められたら、こんなにも幸せなことはないかもしれないと、香穂子は考えてしまう。
 香穂子は、自分の本音を認めるのが恥ずかしくて、慌てて湯船に躰を沈めた。

 入浴後、浴衣を着て髪をあげて浴室から出ると、吉羅が雪見障子を開けて見事な庭を見つめているのが見えた。
「…私も入ってくるよ」
「…はい」
 吉羅が浴室に入るのを見届けてから、香穂子は、服を整えて、小さなクローゼットに入れる。
 ひとりきりになると、猛烈に緊張するのを感じた。
 甘く緊張するということは、随分と期待している気持ちの裏返し。
 香穂子はそう感じてしまう。
 雪見障子の向こうから、幻想的な桜を見つめながら、緊張が高まってくるのを感じていた。
 見事なソメイヨシノ。
 さくらは新しいことが始まることの象徴に思えるが、本当は終わりの象徴であることも、香穂子は解っている。
 何が始まりで終わりなのか。
 今のところ香穂子には分からないが。
 香穂子がぼんやりと桜を見つめていると、不意に抱き締められる。
「…あ…。吉羅さん…」
「香穂子…」
 浴衣姿の吉羅に抱き締められてしまったら、抗えるはずなんてない。
 それどころか、もっと抱き締めて欲しいと思ってしまう。
「…私にこうして抱き締められるのが嫌ならば、抗っても構わない…。君がもし構わないと言うのであれば、このままじっとしていて欲しい…」
「吉羅さん…」
 香穂子はただじっと吉羅の抱擁を受け入れた後で、その広い背中を抱き返した。
「…日野君…」
 吉羅は欲望が滲んだ微笑みを浮かべて、より強く抱き締めてきてくれた。
「…暁彦と呼んでくれないかな?」
「…暁彦…さん」
 吉羅は頷いてくれると、香穂子を抱き上げるて、布団まで連れていってくれる。
 布団の上に寝かされて、香穂子は吉羅を見上げる。
 緊張の余りに瞳が潤んでしまう。
「…君は綺麗だ…」
「嬉しいです…。吉羅さんに“綺麗”って言われたかったんです…」
「いつも言いたかったんだよ…」
 吉羅は甘い声で囁くと、香穂子のまろやかな頬を撫でてきた。
「私はずっとその言葉を待っていたんです…。あなたに言って欲しかった…」
「君が見せるどんな姿も私には素晴らしく綺麗だと思っていたんだよ…」
「嬉しいです…」
 香穂子が笑顔を吉羅に向けると、額を撫でてくれる。
「…もう喋らないで…。君の違う声を堪能したい…」
 吉羅は深みのある声を囁いてくれると、唇を重ねてきた。



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