*9ヶ月*

10


 横浜の洋館に移ってから、香穂子のお腹の中の子どもも、順調に育っている。
 流石に明らかな妊婦体型になってしまい、誰もがそのお腹を撫でては、幸せのお裾わけと言っている。
 歩けない距離ではないので、大学には“運動”とばかりに歩いて通ってはいるが、吉羅は余り良い顔をしてはくれない。
 今日も、朝食の片付けの後で、香穂子はバックを持って大学に出掛ける。
 四年生で、単位も取得しているせいか余り無理して通う必要もないが、それでも大学には通っている。
 香穂子にとっては良い気分転換になっているのだ。
「香穂子、車で送ろう。会議の会場の通り道であるしね」
「良いですよ。妊婦もある程度は運動をしないと駄目なんです。だから、こうしてしっかりと歩くのが良いんですよ」
「しかし、無理はいけない。君はただでさえ頑張り過ぎるところがあるから…」
「大丈夫ですよ」
 心配そうに香穂子を見つめる吉羅を、にっこりと笑って諫める。
「暁彦さん、今日もお仕事大変かもしれませんが、頑張って下さいね。ご飯作って待っていますから。来週からは、出産前最後のリサイタルのリハーサルがあるから、余り家のことは出来ませんから、今週だけはさせて下さいね」
「…解ったよ。奥さん」
「はい」
 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅はしょうがないとばかりに、妥協をするように笑った。
 吉羅を送り出した後、セキュリティをかけてから、香穂子も家を出る。
 今日は久し振りに大学でヴァイオリンを弾けるのが嬉しい。
 時間もあるので、リリに聴かせるのも良いだろう。きっと喜んでくれる筈だ。
 香穂子はリリやファータたちの楽しげなダンスを思い浮かべて、くすりと微笑んだ。

 大学の授業を受けた後で、香穂子は高等部に立ち寄った。
 リリに逢って、色々と報告をするつもりだ。
「リリ、こんにちは」
「おお! 吉羅香穂子か! 待ってたぞ!」
 リリは楽しげに顔を出すと、香穂子を見つめて笑顔をくれた。
「ヴァイオリンを弾きに来たんだよ」
「それは嬉しい! 」
「どんな曲にしようか? 楽しいものが良いかな?」
 香穂子の言葉に、リリは本当に嬉しそうに飛び回る。
「じゃあ楽しい曲にしようか。ワルツなんかが良いかもしれないね」
 香穂子はヴァイオリンを構えると、“美しく青きドナウ”を弾き始めた。
 最初はリリだけのダンスが、ファータやメッロも加わって、それは愉快なものになる。
 香穂子も思わず目を細めてしまう。
 お腹の中の子供も、ヴァイオリンに反応をしたダンスしているように感じる。
 ある意味、初めてのファータとの共演だろうと、香穂子は思った。
 楽しいヴァイオリンの時間が終わると、リリは満足そうに微笑んだ。
「有り難う、吉羅香穂子。我輩は、とっても楽しかったぞ!」
「私もとっても楽しかったよー」
 香穂子が眩しい笑顔を贈った後ベンチに腰を下ろすと、リリが近寄ってきた。
 するとお腹の子どもが挨拶をするように手足を動かしているのを感じる。
「…吉羅香穂子…。お腹が大きくなったなあ。その中には卵でも詰まっているのか?」
 不思議そうにお腹を見つめるリリに、香穂子は笑顔で応える。
「お腹のなかにいるのは赤ちゃんだよ。この子はきっとリリを見ることが出来るんだよ」
「逢うのが楽しみだ。お前と吉羅暁彦の子どもだから、我輩が見えるのは当然だ。魔法のヴァイオリンだとか、様々なアイテムの最終完成型をお目にかけることが出来るぞ!」
「楽しそうだけれど…、暁彦さんが怒るよ…? 私の子どもを実験台にするな、って」
 香穂子がくすくすと笑いながら言うと、リリは腕組みをしながら、神妙に頷いた。
「それが問題なのだよ…。吉羅暁彦の妨害にもめげずに頑張るから期待していてくれ!」
 奮起した表情のリリが可愛らしくて、香穂子はまた微笑んだ。
「お前と吉羅暁彦の子どもがとても楽しみだぞ! きっと素晴らしい音楽家になるに違いないからな」
「有り難う、リリ。きっと音楽が何よりも大好きな子になるよ」
 香穂子がお腹に手を宛てると、また嬉しそうに躰を動かしてくる。
 それが何よりも愛しかった。
「じゃあリリ、また顔を出しにくるね。じゃあ」
「ああ。吉羅香穂子! 楽しみにしているぞ!」
 リリに何度も手を振った後、香穂子は家路へとついた。
 愛するひとが帰ってくる場所へと。

 夕食の準備を終えた後、香穂子は吉羅を待ちながらヴァイオリンを奏でる。
 自宅は完全防音だから快適だ。
 香穂子は、我が子への愛を込めて、優しい子守歌を奏でてやる。
 愛しくて守ってやりたい、かけがえのない存在だ。
 お腹の子どもにヴァイオリンを聴かせてあげた後で、香穂子は少しだけ眠たくなってしまい、うとうととしていた。

「香穂子…」
 優しくてこころをときめかすような甘い声で名前を呼ばれて、香穂子はゆっくりと目を開けた。
「…暁彦さん…」
 吉羅が少し心配そうな顔で見つめているものだから、香穂子はにっこりと微笑んだ。
「おかえりなさい、暁彦さん」
「ただいま」
 香穂子が唇にためらいがちにキスをすると、それに応えるように吉羅が抱き締めてくれた。
「疲れているのかね?」
「疲れてはいないです。ただ、妊娠中はどうしても眠くなりますから…」
「…そうか…」
 吉羅はホッとしたように呟くと、香穂子のお腹を抱き締めてそこに耳を宛てる。
「…ただいま…」
 吉羅が声を掛けると、お腹のなかの子どもは、それに応えるかのように手足を力一杯動かした。
 最近、父親の声に敏感に反応するようになっている。
 様々なひとが声を掛けてくれるが、余り反応はしないのだが、特に吉羅にだけは反応するのだ。
 父親だということを、既に意識しているようだ。
「…ご飯にしましょうか」
「そうだね。子どもも君も栄養をつけなければならないからね」
「はい」
 香穂子は吉羅の髪を柔らかく撫でた後で、ゆっくりと立ち上がってキッチンへと向かった。

 ふたりきりの夜の時間が始まる。
 吉羅は、普段はあんなにも香穂子のことを心配しているというのに、こうして躰で愛することは止めない。
 今夜も愛情を確かめあった後で、寄り添って眠る。
「…香穂子、子どもがびっくりしない程度には抑えているつもりだが、君は大丈夫かね?」
「大丈夫です。暁彦さんが気遣ってくれるから、大丈夫です」
「…そうか…」
 吉羅は香穂子をギュッと抱き締めると、気遣うように背中を撫でてくれる。
「このまま、君と温もりを分かち合いたいが、子どもと君のためにはならないね…」
 吉羅は苦笑いをすると、香穂子がパジャマを着るのを手伝ってくれた。
 その後、自分も手早くパジャマを着る。
「おやすみ。良い夢を見ると良い…」
「はい。おやすみなさい…」
 吉羅の腕のなかに閉じ込められると、気持ち良いまどろみが訪れる。
 香穂子はそのまま気持ち良く眠りに落ちた。

 香穂子が寝息を立てたのを確認すると、吉羅はあどけない寝顔を堪能する。
 とても無邪気で清らかな寝顔だ。
 綺麗と可愛いが同居している。
 吉羅は瞼にキスをすると、じっと香穂子を見つめた。
 こんなにも愛しいと思った女性はいなかった。
 自分は一生結婚せずに、子どもも持たないと考えていた。
 だが、香穂子と出会って、その想いは消え、彼女と結婚をし、子どもを得たいと考えるようになった。
 香穂子には本当に感謝をしている。こんなにも愛し愛される相手に巡り逢えるとは思ってもみなかったから。
 吉羅は幸せを噛み締めながら、微笑みを零さずにはいられなかった。



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