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出産前のラストリサイタルが、みなとみらいホールで始まる。 ”日野香穂子”としてのラストステージだ。 出産後は、”吉羅香穂子”として活動再開の予定だ。 出番前、吉羅は香穂子に付き添うために楽屋にいた。 「今度ステージに立つ時には、この子は生まれているんですよね。何だか信じられないです…」 「そうだね。音楽の祝福を受けて生まれてくる彼か彼女は、きっと今日のステージを楽しみにしているよ」 「だったら嬉しいです。楽しんで貰えたら、これほど嬉しいことはないです」 香穂子が微笑みながらお腹を撫でると、子どもが僅かに動くのが解る。 「今から興奮ぎみみたいです」 「きっと誰よりも、音楽が好きだろうからね」 「そうですね」 吉羅も、香穂子のお腹に手をあてがって、その胎動を感じている。 父親を大好きらしく、いつも派手に動くのがたまにきずだ。 「お父さんに触れられると、余計に嬉しいみたいですよ?」 「だったらこちらも嬉しいけれどね」 「大事にして貰っていることが、嬉しいみたいです。暁彦さんに触れて貰うと、いつも派手に動きますから」 香穂子が目を細めて笑うと、吉羅もまた微笑みながらお腹を撫でてくれた」 暫くふたりでじっとしているとノックの音が響き渡る。 「日野さん、そろそろ開演です。準備をお願いします」 スタッフが気遣ってドアを開けずに声を掛けてくれる。 みなとみらいホールでは、既にふたりがかなり熱い仲であることは知られていて、恋人関係の頃から気遣われている。 「じゃあ、私も行くとしよう。客席で君を見守っているから」 「はい。頑張りますね」 香穂子が笑顔で言うと、吉羅は瞼にキスをくれた。 吉羅が控え室から出た後、香穂子は凜と背筋を伸ばして、ステージへと向かう。 お腹の子どもに、愛する男性に、そして今までずっと見守ってくれていた人々に精一杯の感謝を示すために、香穂子はステージに立った。 スポットライトを浴びているのは確かに自分だが、本当にスポットライトが当てられるべきなのは、客席にいる香穂子を支えてくれている人々だと思う。 だからこそ、彼らに感謝を込めて、ひとり、ひとりに返事をするように、香穂子はヴァイオリンを奏でた。 リサイタルが盛大なスタンディングオベーションで幕を引いた時、香穂子は瞳から大粒の涙を零した。 当分の間、直接オーディエンスと触れ合うのはお預けだけれども、それまでの間、彼らに何かを返すことが出来ればと、思わずにはいられない。 出産で華やかなステージからは離れることになるけれども、その間はもっともっと精進をして、より素晴らしいヴァイオリニストになりたいと、香穂子は思った。 客席にいた顔には見知った顔が沢山あった。 香穂子が当分はステージから離れることを知って、海外組である王崎、都築、月森がやってきてくれた。 学院の大学に通っているメンバーも、誰もがやってきてくれた。 教師をしている火原、そして金澤も。 そして誰よりも支えてくれていた吉羅が客席で見守るように見つめてくれていたのが、何よりも嬉しかった。 香穂子はステージで何度も頭を下げて礼を言った後で、控え室へと戻っていった。 座って水を飲みながら、楽しげに我が子の胎動を感じる。まるで「お疲れ様」と言って貰っているようで、香穂子は嬉しくてしょうがなかった。 暫くすると、リサイタルに来てくれていた、かつてのコンクールメンバーが、控え室にやってきてくれた。 「リサイタルおめでとうっ!」 代表して火原が大きな箱を、香穂子に手渡してくれる。 「あ、有り難うございます!」 香穂子は思いがけないプレゼントに表情を崩しながら、丁寧にお礼を言う。 「凄く嬉しいです。有り難うございます」 「香穂ちゃんだけじゃなくて、今日、初めて共演した赤ちゃんの為のものでもあるよ」 火原は眩しそうに言いながら微笑んでいる。 「きっとお腹の赤ちゃんも喜んでくれると思って、みんなで選びました」 冬海は穏やかに微笑みながら、香穂子の丸みを帯びたお腹を羨ましそうに見ていた。 「ま、理事長様の子どもだから、産まれてからすぐにファータに色々とされるんだろうから、せめて恰好だけでも、ファータと対抗しないとな」 金澤は笑いながら、一番後ろにいる吉羅をちらりと見つめていた。 「…嫌なことを思い出させないで下さい。金澤さんも…」 吉羅の刺々しくも硬い声に、誰もが苦笑いを浮かべていた。 「有り難う、皆さん。ね、開けて良いですか? 暁彦さん、一緒に見ましょう」 一番後ろにいた吉羅は、香穂子に呼ばれて横にくる。 「何だか嬉しいです。赤ちゃんも喜んでいるようで、また、暴れていますよ」 香穂子が苦笑いを浮かべると、吉羅もまた同じように幸せな苦笑いを浮かべていた。 そっと丁寧に包装を外す。 コンクール仲間のみんなが、こうしてプレゼントしてくれたのが何よりもうれしい。 「わあ! 可愛い! 赤ちゃんのお出かけセットだ!」 男の子でも女の子でも大丈夫なように、白いお出かけ用の服になっている。 産まれて暫くすれば、直ぐに着られるようなものだ。 仲間たちの心遣いが、香穂子には嬉しくて泣きそうになった。 「後、これもいると思って、ウィーン組でお土産に買ってきたんだよ」 王崎が差し出してくれたのは小さな箱。 「有り難うございます」 何が入っているのか不思議に思いながら、香穂子はそっと包みを開けた。 「…あ…!」 そこにあったのは、子ども用のヴァイオリンを弾く時の肩当てだった。 「必要だと思ってね。君も理事長もヴァイオリニストだし、何よりもファータに愛されるのは確実な子どもだからね」 月森の言葉に、香穂子はニッコリと笑ったが、吉羅は複雑な笑みを浮かべていた。 「…ヴァイオリンを選択するかは、この子の自由だからね…。だが、有り難く貰っておくよ。感謝する」 吉羅の言葉に、誰もがその気持ちを組んで微笑んだ。 「本当にどうも有り難うございます。皆さん」 「私からも有り難うございます」 吉羅と香穂子はふたり揃って礼を言うと、誰もが幸せそうに笑顔で返してくれた。 そこからは華やいだ談笑が始まり、都築などは突き出た香穂子のお腹を思い切り抱き締める。 「…私、日野さんをお嫁さんに貰いたかったのよねー。この赤ちゃんだけを連れて、私のお嫁さんにならない?」 「都築君、それは遠慮するよ」 吉羅が苦笑しながら言うと、都築は「理事長には訊いていません!」とキッパリと言い切った。 これには香穂子も微笑んでしまう。 「この子は、暁彦さんのことが本当に大好きなんですよ。だから離れるのは難しいかもしれないですね」 「そうかー」 都築は残念そうに言うと、もう一度だけ香穂子を抱き締めてくれた。 「幸せにね。私が指揮であなたがコンミスでまた共演したいわね」 「はい。私も楽しみにしていますから」 「ええ、待っているわ」 こうして誰もが香穂子が再びステージに戻るのを待ってくれている。 香穂子はより成長をしてステージに戻って来ようと強く誓った。 家に戻ると、やはり寂しい気分になる。 香穂子がしんみりとしていると、吉羅が背後から抱き締めてきてくれた。 「大丈夫かね?」 「…はい。暁彦さんに抱き締められると安心します…。だけど少しだけ寂しいですね…」 「…またステージに立てるのだから、その日のために精進すると良い…」 「そうですね。そう思って頑張りますね」 「ああ」 香穂子が笑顔を向けると、吉羅はキスをくれる。それはこのうえなく甘くて、ロマンティックだった。 |