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吉羅の仕事が終わり、連れていかれたのは、重厚な美しさがある洋館だった。 お屋敷という表現が当てはまるほどの優美な邸宅で、学院からも香穂子の実家からも程近い、理想的な場所だった。 「綺麗なところですね」 「私が高校生の頃まで住んでいた、吉羅家の本家だ。私が受け継いだのだが、住まずにいたんだよ。だが、君を得て、子供も生まれるから、そろそろ越して来ようかと思っているんだよ。君もここなら理想的だろう?」 吉羅の気遣う溢れた言葉が嬉しくて、香穂子は思わず頷いてしまう。 「有り難うございます、暁彦さん。凄く嬉しい」 香穂子は吉羅に寄り添うと、お腹の子供を優しく撫でる。 「それに私たちの今の住まいは、子供には余り良くないようだからね。ああいう超高層ビルの高層階は、建物を維持するために常に揺れているんだよ。今は慣れてしまっているから気にならないが、その揺れがお腹の子供に影響がないとは言えないからね」 「そうですね…」 子供のことも香穂子のことも、きちんと考えてくれているのが嬉しい。 「じゃあなかに入ろうか。リフォームは済んでいるから、後は引っ越すだけだ。こんなにも何度も引っ越しをさせてしまって、君には申し訳がないがね。疲れないようにはするから」 「有り難うございます」 吉羅は、玄関のセキュリティを解除すると、香穂子の手を引いて、中へと案内してくれる。 古き良き時代のロマンティックが詰まった内装になっていて、香穂子の好み通りだ。 「こんなお家に住めるなんて、何だかとても嬉しいです。凄く良い胎教になりそうですね」 「それは良かった」 廊下を歩いていくと、立派な肖像画を見つけた。 「これ…暁彦さんですか」 「違う。学院の創立者だ。アルジェントにも私はよく似ていると言われるからね」 「あ! リリもいますよ! リリ可愛いなあ」 リリの姿に香穂子が燥いでいると、吉羅は奇妙な顔をする。 「アルジェントのことは持ち込まないで欲しいね」 「だけど暁彦さん、本当に創立者の方に似ていますね。創立者の血が流れているから、当然なんでしょうけれど…」 香穂子は、創立者とリリの肖像画を見て、優しい幸せな気分になり、思わず微笑んだ。 「そうだ。君にどうしても見せたいものがあるんだよ。私は…最初…君を見た時に…ある意味驚いたんだよ。余りに似ていたから…」 「似ていた…?」 吉羅は香穂子の手を握ると、ゆっくりと家族のためのリビングルームに連れていってくれた。 「先祖が見守ってくれていると、父親なんかは言っていたけれどね」 「…先祖が…」 吉羅がリビングの電気をつけると、香穂子は驚いて息を呑む。 リビングを見守るように掲げられている肖像画は、一瞬、自分と吉羅ではないかと思った。 だが良く見ると肖像画はかなり古くて、創立者の時代のものであることが解る。 吉羅に生き写しの創立者の横にいるのは、ヴァイオリンを持った赤毛の女性。 その顔は、明らかに香穂子その者だった。 「…初めて君を見た時、曾祖母にとても似ていて驚いたんだよ…。余りに似ていたから、私は本当に驚いたんだよ」 吉羅は香穂子を抱き寄せると、額に口づける。 「香穂子、私はね、小さな頃、この肖像画の曾祖母が好きでたまらなくてね、生意気にも、将来はこの女性と結婚すると、言っていたんだよ…」 吉羅は懐かしそうに甘くフッと笑う。 「…小さな頃の夢は叶えたよ。君と一緒になって、子供が出来たんだからね…」 「暁彦さん…」 運命だ。 それをひしひしと感じて、香穂子は泣きそうになる。 本当に吉羅と結ばれて、こうして一緒になれたのは、きっと運命なのだ。 神様が見せてくれた奇跡なのだ。 「…何だか…運命を感じられて、凄く嬉しいです…」 「香穂子…」 吉羅は、香穂子を愛しげに見つめて笑うと、そっと髪を撫でてくれる。 「…愛しています暁彦さん。凄く嬉しいです…」 「私も君を誰よりも愛しているよ…」 吉羅は、香穂子のまろやかな頬を撫でると、そっと唇を重ねてくれる。 その甘さに、うっとりと酔い痴れていた。 吉羅は香穂子の手を引いて、屋敷のなかを案内してくれた。 まだ荷物はどこにもないが、これらの部屋の住人が決まる頃には、きっと賑やかで明るい雰囲気になっていることだろう。 「創立者…曾祖父たちはね、とても仲の良い夫婦で、子供も沢山いたんだ。だから私たちも、沢山家族を作ろう」 「はい。小さな子供達がここを走り回っているのを想像するだけでも、楽しいです」 「そうだね」 吉羅はふと一室の前で止まる。 「この部屋と隣の部屋だけは、以前の住んでいた状態に保存してある。右側が私の部屋、左側が姉の部屋だ」 「お姉さんの…」 吉羅は頷くと、姉の部屋のドアを開けた。 かつて吉羅の姉が使っていた部屋は、シンプルなシックで落ち着いた雰囲気だった。 そこには音楽以外に何もないかのような、そんな部屋でもあった。 「音楽のためだけに生きて音楽のために死んだ、姉らしい部屋だろう…? 本当にあの女性らしい」 「暁彦さん…」 音楽への愛が溢れている部屋に泣きそうになりながら、香穂子は中の様子を見つめた。 「珍しい楽譜も沢山あるから、君も使うと良い…」 「はい、有り難うございます。この部屋は音楽で何時までも満ち溢れた場所にしたいですね…」 「そうだね」 吉羅は微笑むと、また、香穂子の唇にキスをくれた。 その後は、吉羅の部屋に入る。 吉羅の少年時代を想像してしまい、思わずくすりと笑う。 「ここで、暁彦くんは、悩んだり笑ったりしたんだよね」 「そうだね。私にもガキの時代はあったんだよ。…これでもね」 吉羅は苦笑いをしながら、久しぶりに椅子に腰を掛ける。 膝の上に、香穂子を乗せた。 「ここで、曾祖母のように美しいひとと結婚が出来ますようにって、真剣に祈っていたんだよ」 吉羅はニヤリと笑うと、香穂子の唇を啄む。 「お陰様で叶ったけれどね。さしずめ、ここは夢が叶う部屋なのかもしれないね」 「ロマンティストですね」 「まあね」 ふたりはくすりと笑いあうと、再び、唇を重ねた。 新しい家の冒険が終わった後で、ふたりは六本木へと戻った。 あの家でこれからずっと吉羅のためにいる。それが嬉しくてしょうがなかった。 「引っ越しは早目に手配をしないといけないね。セキュリティもきちんとしてあるから、より安心して住めるはずだ」 「はい。ものすごく楽しみですよ。暁彦さん」 香穂子がにっこりと笑った瞬間、お腹のなかの小さな子供が、蹴飛ばしてきたような気がした。 「あっ!」 香穂子がいきなり声を出すものだから、吉羅は驚いて息を呑む。 「…どうしたのかね!?」 「…赤ちゃんが、今、お腹を蹴っ飛ばしたんですよ!」 興奮するように言うと、吉羅は直ぐに駆け寄ってきた。 「本当かね!?」 ソファに座っている前で吉羅は跪くと、香穂子のまあるいお腹を、ゆっくりと包み込んできた。 「…香穂子…」 吉羅は子供に話し掛けるように抱き締めて、腹部に顔を宛てている。 香穂子は吉羅の髪を撫でながら、柔らかく包み込んでいた。 どうか。お腹の赤ちゃんが、お父さんに挨拶をしてくれますように。 香穂子が祈ったのが功を奏したのか、赤ん坊は再びお腹を蹴飛ばしてきた。 「…挨拶をしてくれたね」 「…そうですね…。きっとお父さんに言いたかったんですよ…」 「そうだね…」 ふたりはこのままじっとしながら、幸せを噛み締めていた。 |