*9ヶ月*


 確かに、吉羅と“男女の付き合い”を始めてからというもの、子供が出来てもおかしくはない行為をしている。
 身に覚えならば掃いて捨てるほどあるのだ。
 そして。今さらながら気付いたが、暫く、生理が来ていなかった。
 悪阻のような症状といい、見事に妊娠条件を満たしている。
 香穂子は心臓が強く鼓動を打つのを感じる。
 もしそうならば、素直に嬉しい。愛する男性との愛の証なのだから。
 だが不安もある。
 吉羅が新しい命の誕生を喜ばないとしたら? そんなことが一瞬、頭に過ぎる。
 あれこれ考えていると、天羽が真剣なまなざしでこちらを見つめていた。
「…吉羅さんに言わないといけないよね…」
「そうだね…」
 香穂子は何処かこころが重くて、きちんと笑うことが出来ない。
 最悪のことばかりを考えてしまう。
「…ちゃんと避妊はしたの?」
「…暁彦さんまかせだった…」
「そうか…。香穂子からは言えないよね」
「…うん…」
 香穂子は小さく俯くと、運ばれてきたミルクを口に含む。
「だけどあの吉羅さんのことだから、そのあたりはきちんとしていると思うんだよね。まあ、そう出来ない程に、香穂子に溺れているからかもしれないんだけれどねー。それか確信犯!?」
 天羽の言葉を聞いていると、吉羅が子供を欲しがっているようにしか見えない。
 そうだったらどれほど嬉しいだろうか。
「…もし、赤ちゃんが出来ていたら、暁彦さん、喜んでくれるかな? 喜んでくれるなら、凄く嬉しいんだけれど…」
「大丈夫だって。私は喜ぶと思うよ。今だって香穂子への溺愛ぶりは凄いじゃない? いつもはあんなクールな顔をしてさ、香穂子なんて興味ないとばかりな態度を取るのに、週末になると独占欲を露にして香穂子を独り占めするじゃない? あれ絶対に狡いよ」
 天羽は半ば呆れるように言うと、コーヒーを啜った。
「…検査薬買ってみようかな…」
「そうだね。それが一番良いかもしれないね」
「うん。そうするよ。ドラッグストアに買いに行って、ショッピングモールのトイレで試してみるよ」
「私も着いて行くから」
 天羽が頷いてくれたのが、香穂子には何よりも嬉しかった。
 ミルクを飲んで、カフェを早々に後にした後、香穂子は近くのドラッグストアで検査薬を買った。
 買うだけでドキドキしてしまう。
 こんなことは初めてだからだ。
 ドラッグストアから出たところで、不意に携帯が鳴り響いた。
 電話の主は吉羅だ。
「はい、香穂子です」
「私だ。今、何処にいるのかね?」
「菜美と一緒に、ドラッグストアの近くにいます」
「私も直ぐ近くにいる。直ぐに行くから待っていてくれ」
「あ、あのっ! 暁彦さんっ!?」
 名前を呼んで制止しようとしても、吉羅は直ぐに電話を切ってしまう。
「もう…」
 香穂子が溜め息を吐きながら電話を切ると、天羽は苦笑いする。
「吉羅さん、香穂子の都合を考えられないぐらいに、あんたに逢いたいんだね」
 天羽は頷くと、優しい瞳で香穂子を見つめた。
「香穂子、吉羅さんにちゃんと話して、検査薬で検査したらどうかな? それが一番のような気がするよ」
「菜美…」
 吉羅に話せば、解ってくれるだろうか。
 切ない気分になり、香穂子が唇を噛んだ時だった。
 フェラーリのクラクションが鳴り響いたかと思うと、ゆっくりと香穂子の前に停止する。
「香穂子」
「暁彦さん…」
「乗りたまえ。天羽君も良ければ送っていくが」
 吉羅の申し出に、流石の天羽も苦笑いをしながら否定する。
「電車で帰ります。馬に蹴られたくないので。それじゃ」
 天羽は、香穂子に“頑張れ”の意味を込めて笑うと、背中をポンと叩く。まるで勇気を注入してくれているかのようだ。
「じゃあね! 香穂子」
「またね」
 天羽に手を振って見送った後、香穂子は助手席に乗り込み、シートベルトをした。
「香穂子、今夜も私の家で泊まれないか?」
「…連絡をすれば大丈夫ですが…」
「だったら連絡をしてくれたまえ。私は今夜も君と一緒にいたいから」
「…はい」
 香穂子が家に電話している間に、吉羅は車を発進させる。
 吉羅とは、両親公認の下で付き合っているせいか、直ぐに許可が出た。
 付き合いを始めた頃に、吉羅がきちんと両親に挨拶をしてくれたのだ。
 将来のことを見越してお付き合いをすると。
 だからこそ両親はかなり吉羅を気に入っているのだ。
「電話しました」
「ああ。有り難う。このまま六本木方面に出て構わないね?」
「はい」
 吉羅は、みなとみらい入口から首都高湾岸線に乗ると、六本木へと向かう。
 ここから見る横浜の夜景は本当に美しくて、うっとりとしてしまう。
 お気に入りの風景だ。
「今晩はうちで食事をしよう。私が作ろう」
「有り難うございます。私も手伝います」
「頼んだよ」
 吉羅は甘く笑うと、真っ直ぐ前を見つめる。
 子供が出来たかもしれないことを告げるには、今がチャンスだ。
 だが、なかなか言い出すことが出来ない。
 車を運転している最中に、ある意味衝撃的な告白をすれば、動揺し過ぎてしまうかもしれない。
 もやもやと考えていると、再び吐きそうになり、思わずハンカチで口を押さえた。
「…大丈夫か?」
「…はい。酔ったかもしれません…」
 香穂子が弱々しく言うと、吉羅はその手を握り締めてくれる。
「いつもは酔わないだろう…。今日はそれほど体調が悪いのかね?」
「…波があるので解らないです…」
「…そうか…。だったら今夜は私の家で正解だね」
 吉羅は香穂子から手を放すと、再び運転に集中した。

 麻布十番のスーパーに立ち寄り、 夕食のための買い物をする。
「香穂子、何か食べたいものがあるかな?」
「カルパッチョとか食べたいです。後、グレープフルーツとオレンジ…。レモンも良いですね」
「何だか酸っぱいものばかりを欲しがるね、君は」
 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子のリクエストに応えたものを籠のなかに入れる。
 吉羅が一瞬、香穂子の秘密を見透かしたように見つめてきたものだから、鼓動を大きく跳ねあげさせた。
「後、パスタでも作ろう。トマトソースタイプが良いかな」
「はい。トマトソースが良いです!」
「それと牛乳がいるね」
 吉羅が意味深に言うものだから、益々焦ってしまう。
 妊娠したかもしれないことを、吉羅は気付いているのかもしれない。
 香穂子の鼓動は更におかしくなっていた。

 買い物が終わり、吉羅のマンションへと向かう。
 今や週の半分を過ごす場所は、香穂子の自宅のようになってしまっている。
 部屋に入ると、香穂子はダイニングテーブルに座るように促された。
「香穂子、今日は私が作るから、そこにいなさい」
「はい」
 吉羅はネクタイを外して、素早くカフェエプロンをつけると、慣れた手つきで用意を始めた。
 吉羅が料理をしているのを見ているのはとても楽しい。
 これこそ最高のアペアリフだと思う。
 香穂子は機嫌良く料理の様子を見ていた。

 吉羅が作ってくれた料理はどれも美味しくて、香穂子はにんまりと笑っていた。
 食事の片付けをする段になっても、吉羅はさせてはくれない。
「暁彦さん、それぐらいはさせて下さい」
「今夜はじっとしていなさい」
 吉羅はぴしゃりと言うと、手早く片付けて食器洗い乾燥機に使ったものを入れた。
「さてと。君にはこれからやらなければならないことがある筈だよ」
 吉羅は総てを見透かすように香穂子を見つめてくる。
 心臓が痛くなるぐらいに緊張してくる。
「…検査薬で調べなければならないだろう?」
「…暁彦さん…」
 香穂子は驚いたように見つめると、頷くしかなかった。
 総てを見透かされている。



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