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病院から出た後、吉羅は車を郊外へと走らせる。 「香穂子、今日からうちで暮らすんだ。君と離れるのは、たとえ少しでも我慢出来ないからね」 「…暁彦さん…」 香穂子がほんのりと頬を染め上げると、吉羅は頬を柔らかく撫でてきた。 「君のスケジュールは、どうなっているのかね?」 「今月はのんびり出来るんですが…、CDの録音が来月の半ばにあります。後はみなとみらいホールで再来月にコンサートが…」 「それ以降の予定は、なるべく入れないようにしなければね。大切な躰だからね。君に何かあったら大変だからね…」 吉羅はあくまで香穂子の体調を気にしてくれているようだ。 「暁彦さん、病気じゃありませんから、大丈夫ですよ?」 「…無理はしてはいけないよ」 香穂子がやんわりと微笑んでも、吉羅はまだ納得いかないとばかりに見つめてきた。 「大丈夫ですから、暁彦さん」 香穂子は微笑むと、吉羅は心配そうな顔で髪を撫でた。 吉羅が車を停めたのは、郊外型のデパートだった。 「君の靴や服を買わなければならないだろう? 」 「まだ早いですよ?」 「ヒールで躓いたら困るだろう?」 吉羅は車から降りると、香穂子の手をギュッと握り締めた。 先ずは靴売り場に行き、ローヒール、スニーカー、ローヒールのサンダルを買い、お腹を冷やさないようにランジェリーを買う。そしてマタニティ代わりになるワンピースを何枚か買い求めた。 香穂子は何度も吉羅には「まだ早い」と言ったが、半ば押し切られる形で買うことになってしまった。 同時に、香穂子の両親へのお土産を買い求めた。 吉羅はきちんと挨拶をしてくれるのだ。 「これから慌ただしくなるからね。明日は籍を入れにいって、後はささやかな結婚式も挙げないとね。その準備も必要だからね。君のお腹が大きくなっても大丈夫なようにしないとね」 吉羅がテキパキと言うものだから、香穂子は感心せずにはいられなかった。 「君のご両親は怒るかな?」 吉羅は苦笑いしながら、香穂子をちらりと見る。 「怒らないと思いますよ。ただ少し複雑に思うかもしれませんが」 香穂子がくすりと笑うと、吉羅は香穂子の腹部に軽く手をあてがう。 「まあ、心配はしていないが、仮に激怒されて君をやらないと言われても、力ずくで強奪するつもりだからね」 吉羅の言葉に、香穂子は「強奪して下さい」と、幸せを滲ませた声で呟いた。 途中で遅めのランチを取った後、横浜の香穂子の家へと向かう。 ランチは、お腹の子供のためだと、オーガニックレストランで取る徹底ぶりだった。 吉羅は車を近くの駐車場に入れて、香穂子と一緒に家へと向かう。 吉羅は、香穂子が躓かないようにと、しっかりと腰を抱く徹底ぶりだった。 「お母さん、ただいま」 香穂子が声を掛けると、母親が慌ててやってくる。 横にいる吉羅を見て、幾分か緊張しているようだった。 「いらっしゃい。さあ、どうぞお入りになって下さい」 「失礼します」 吉羅は香穂子を気遣って先に家に上げた後で、後に続く。 リビングに入ると、香穂子の父親が、幾分か緊張してソファから立ち上がった。 「こんばんは」 「こんばんは。どうぞ掛けて下さい」 吉羅がソファに腰を掛けた後で、香穂子も同じように腰を掛ける。 こうして両親と改めて顔を合わせると、思わず緊張してしまった。 「お時間を割いて頂いて有り難うございます。早速ですが、率直に言わせて頂きます。お嬢さんを今直ぐに私に下さい」 吉羅はストレートに言うと、真摯なまなざしを香穂子の両親に向ける。 プロポーズらしいプロポーズはなかったが、こうして両親にきちんと挨拶をしてくれたのが、泣きそうなぐらいに嬉しかった。 横にいる香穂子が泣きそうになって洟を啜っていると、吉羅が気遣うように香穂子の頬を撫でてくれた。 吉羅のこの上なく甘い瞳に、香穂子は幸せな気分で微笑む。 ふたりの甘い様子を見ていた両親も、当てられたとばかりに微笑んでいた。 「解りました。何も出来ない子ですが、香穂子をどうか貰ってやって下さい。これからもこの子を宜しくお願い致します」 父親は、ふたりの想いを受け入れるように言うと、深々と頭を垂れた。 「こちらこそ有り難うございます」 吉羅もまた頭を深々と下げてくれる。 ふたりのかけがえのない男性に愛されていることを感じて、香穂子は大きな瞳から止めどなく涙を零した。 感きわまり、胸が圧迫されてしまうぐらいの幸せを感じてしまう。 こんなにも幸せで良いのだろうかと、思わずにはいられなかった。 「…君は泣き虫だね…」 吉羅は香穂子の涙を指先で拭いながら、フッと柔らかな笑みを浮かべた。 「有り難うございます。早速ですが、明日には婚姻届を提出したいと思っております。結婚式ですが早急に手配致します」 吉羅はそこまで言うと、父親を真っ直ぐ見つめる。 「…私と香穂子に子供ができました。三か月です」 吉羅の静かな告白に、両親は一瞬目を丸くする。 「…子供…孫…」 余りにもの急展開に、香穂子の父親は着いていけないようだ。 「今日、病院に行ってきたんだ。小さな小さな赤ちゃんがお腹にいるって聞かされて、私も暁彦さんも、凄く嬉しかったんだ」 ふたりが幸せそうに見つめあっているのを見て、父親も母親も顔を見合わせて溜め息を吐く。 「…香穂、これからが大変よ。お母さんもなるべく手伝うけれど、しっかりね」 「有り難う、お母さん」 母親は孫の誕生が嬉しいのか、香穂子を温かいまなざしで見つめてくれている。 だが父親は、少しばかり複雑そうな顔をしていた。 「お父さんはこんなに早くおじいちゃんになるとは思わなかったよ」 父親はしみじみと呟きながらも、何処かしんみりとしていた。 「…吉羅さん、香穂子と孫を宜しくお願いします」 父親は改めて頭を下げる。 吉羅もそれに応えるように頭を下げた。 「こちらこそこれから宜しくお願いします。香穂子さんを幸せにします」 吉羅はキッパリと宣言をすると、父親にもう一度頭を下げた。 母親は今すぐ泣きそうになるほどに涙を瞳に溜めて、香穂子と吉羅を見ている。 香穂子は、両親の愛を感じ取りながら、ただ吉羅に寄り添っていた。 急遽、結婚することになってしまったから、そこからはバタバタが始まった。 先ずは香穂子の荷物を吉羅の家に引越しする作業があった。 吉羅が直ぐに業者を無理矢理手配してくれたお陰で土曜日の午前中で終わった。 吉羅の家に荷物は置いているものもあったので、荷物は少なくすみ、家財道具も運びいれることはなかった。 業者に荷物を運んで貰っている間に、役所に行き、婚姻届を提出する。 書類に名前を書き入れながら、本当に吉羅の妻になるのだという実感が湧いて来て、香穂子は泣きそうになっていた。 婚姻届を出したのと同時に、香穂子は母子手帳を受け取る。 母親である自覚が芽生えて、じんわりとした喜びが込み上げてきた。 母親の欄には吉羅香穂子、父親の欄には吉羅暁彦と書かれている。 それが嬉しくて、香穂子は涙ぐんだ。 「嬉しいのかね?」 「はい。とっても。暁彦さんの子供を産むんだと思うと、とても嬉しいです…」 「…私も嬉しいよ。君と人生を歩んでいくことが。子供と共に素晴らしい家族を作ろう…」 「…はい…。暁彦さん…」 香穂子は小さく頷くと、吉羅にそっと寄り添った。 |