*9ヶ月*


 もう帰る時間を気にしたり、一緒に過ごす時間が終わってしまう切なさを感じることもない。
 香穂子は幸せにひたりながら、吉羅とゆったりとした時間を過ごした。
 吉羅はウィスキーを片手に、クラシック音楽を聴きながら、静かに夜の時間を楽しんでいる。
 アルコールが駄目な香穂子は、ホットミルクを啜っている。
「このCDは胎教に良いクラシック音楽らしいよ。じっくりと聴いて貰って良い子にしないとね。まあ、君と一緒ならば、いつも素晴らしい音楽を聴かせて貰っているだろうからね」
 香穂子はまだ平らなお腹を慈しむように撫でる。
「…私にも触らせて貰って構わないかな?」
「どうぞ。だけど、まだまだ平らですから、何も感じないと思いますよ?」
「お母さんは子供と繋がっているからスキンシップが何時でも出来るだろうが、父親は生憎、出来ないからね。こうして触れないと」
「…そうですね…」
 吉羅は香穂子の腹部を慈しみ溢れるように撫でる。腹部を見つめる瞳は、この上なく優しかった。
「…暁彦さん…」
 お腹のなかの子供は、この上なく幸せな子供だと、香穂子は思う。
 吉羅は香穂子の腹部にそっと抱き付くと、そこに耳を宛てた。
「まだ聞こえないですよ? 胎動は…」
「いいや…。良いんだ。暫くこうしていたいんだ…。私は…」
 香穂子はくすりと笑うと、吉羅の髪を柔らかく撫でてやった。
「香穂子…。これからの検診は、ずっと着いて行くから…」
「お仕事は?」
「休むよ。君と子供が大切だからね」
 吉羅はフッと微笑むと、ギュッと香穂子の躰を抱き締めた。
 仕事の鬼である吉羅がここまでするなんて思ってもみなかった香穂子は、幸せで熱いものが込み上げてくる。
「有り難うございます。だけど無理はされないで下さいね」
「解っている。君こそ無理は禁物だよ。良いね?」
「はい」
 暫くじっとしていると、香穂子は悪阻が込み上げてきて、吉羅の肩を叩く。
「暁彦さん…気持ちが悪くなりました…」
「気分が悪いのか。直ぐに洗面所へ行くんだ」
「…はい…」
 吉羅は素早く香穂子から離れると、洗面所へと向かう。
 香穂子は手洗いに駆け込むと、食べたものを吐き出した。
 総て吐き出した筈なのにまだ気分が悪くて、香穂子はふらふらになりながら、何とか洗面所から出た。
「香穂子!? 大丈夫かね? 直ぐに横になりなさい」
「はい…、暁彦さん…」
 吉羅は香穂子はを抱き上げられる。
 そのままベッドに運ばれて、柔らかな上に寝かされた。
「…余り無理をしないほうが良い…。君は大事な時期なんだからね?」
「…はい…」
 吉羅は香穂子の頬を撫でると、心配そうに見つめて来た。
「少し大学を休んだら良い」
「だけど病気ではないですから…」
「…君が心配なんだよ」
「有り難う…、暁彦さん」
 吉羅は温かくしたタオルを香穂子の胸元にあてがってくれる。それがとても気持ちが良かった。
「…気持ち良いです…」
「余り無理はしないように。悪阻が辛いようなら、大学には行かないようにね。途中で気分が悪くなったら大変だからね…」
「先生にも迷惑が掛かりますからね…」
「君が苦しんでいるのに、何処にも休むことが出来ないのは、私が心配だ…」
 吉羅は大袈裟なぐらいに香穂子を心配すると、額を柔らかく撫でてくれる。
 大きな愛情を強く感じて、香穂子は微笑んだ。
「有り難うございます。だけど誰もが通る道ですから、大丈夫です。安定したら治まります」
「…香穂子…」
「だから明日からちゃんと大学に行きます。心配されないで下さい。それとお受けしている仕事はしますが、それ以外は様子を見ます」
「…だったら良いんだがね…」
 吉羅は香穂子を心配そうに見つめた後で、唇にキスをくれる。
「気分が悪いだとか、辛いとかあれば、必ず私に言うように」
「はい。有り難うございます」
 吉羅は頷くと、香穂子にもう一度キスをしてくれた。

 吉羅がお風呂を沸かしてくれ、香穂子はゆったりと疲れを癒す。
 躰の疲れがほわほわと取れて気持ちが良かった。
 お風呂から出ると、吉羅が髪を乾かしてくれる。
 それを気持ちが良いと思いながら、香穂子は目を閉じていた。
 きっと子供が出来ても、こうして髪を丁寧に乾かしてくれるだろう。子供の髪と一緒に。
 女の子だったら、吉羅は箱入り娘どころでは済まない程に、娘を可愛がることだろう。
 息子だったら、可愛がると同時に、厳しく叱ることがあるかもしれない。
 香穂子はそんなことを想像しながら、幸せな気分になった。
 子供は出来たらふたり以上が良い。
 男の子と女の子の一人ずつは最低でも欲しい。かそんなことを思いながら、香穂子は機嫌良く微笑んでいた。
「機嫌が良いね」
「色々と想像していたんですよ。暁彦さんは子供にもきっとこうして髪を乾かしてあげるだろうとか、女の子なら甘くて、男の子なら甘くて厳しいだろうとか…、色々と。私は男の子と女の子が一人ずつ欲しいと思っていますよ」
「最低でも…だろう?」
「そうですね。最低でも…」
 香穂子がくすりと笑うと、吉羅は背後から強く抱き締めてきた。
「…あ…」
「髪を乾かし終わったよ。良い夢を見るんだよ」
「…はい…」
 吉羅は香穂子を抱き上げるとベッドへと寝かせてくれる。
「おやすみ。しっかりと睡眠を取るんだよ…」
「はい。有り難うございます。おやすみなさい」
 香穂子が目を閉じると、吉羅はベッドサイド以外の電気を消してくれた。

 いつの間にかしっかりと眠っていたらしい。目を開けると、吉羅が香穂子をしっかりと抱き締めてくれていた。
 ゆっくりと吉羅の目が開かれる。
「おはよう、香穂子」
「おはようございます」
 お互いに甘いキスをした後で、香穂子は躰を起こす。
 今日は随分と気分が良い。
「暁彦さん、茶粥を作りますね。今日はかなり調子が良いんです。だから、支度をさせて下さい」
「ああ。じゃあ頼んだよ。気持ち悪かったら直ぐに言うんだ」
「はい」
 香穂子はベッドから出ると、手早く身仕度をしてキッチンに立つ。
 二人分の茶粥を作り、それに合う香の物や塩昆布などを皿に少しずつ盛る。
 フルーツや野菜の常備菜のおかずを添えて完成だ。
 吉羅の蓮華は、かつて香穂子がプレゼントしたもので、それを大切に使ってくれていた。

 朝食を済ませた後、香穂子が先に出ようとすると、吉羅に腕を掴まれる。
「私たちは夫婦だ。もうコソコソする必要はないんだ。一緒に行こう。それに満員電車で、君に何かあったら困るからね」
「有り難うございます。暁彦さん」
「後、今日は一緒に帰ろう。帰りに病院に行くよ」
「暁彦さん、どこか調子が悪いんですか?」
 香穂子が心配の余りに泣きそうな顔で言うと、吉羅は静かに首を振った。
「君の悪阻を軽くする方法を医師に尋ねようと思ってね。今日、行く病院はまた別のところだよ。こういうことは、何人もの医師に訊いたほうが良いからね。セカンドオピニオン、サードオピニオンも必要だからね」
「…大丈夫ですよ。本当に」
「初めての子どもだし、私たちも馴れてはいない。念には念を入れなければね」
 吉羅は相当心配してくれているらしく、いつもは見せない動揺を香穂子に無意識に見せている。
 それが可愛くて、香穂子はくすりと微笑んでしまう。
 本当にこころから愛されていることを強く感じられて、香穂子は嬉しくてしょうがなかった。
「心配だからね」
「こんなに心配してくれる旦那様で嬉しいですよ」
 香穂子が笑うと、吉羅はそっと手を握り締めてくれる。
 その温もりがとても温かくて、香穂子は安心が躰中に広がるのを感じていた。



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