*9ヶ月*


 授業中、何度か悪阻のせいで気分が悪くなってしまったが、それを何とか乗り越えて、ランチタイムを向えた。
 いつものように天羽と一緒に温かな食事を取る。
 妊娠が解ってからというもの、栄養のバランスにはかなり気を遣っている。
「香穂子、あんたを見ているとこっちまで幸せになるんだよね! 赤ちゃんのファーストポートレートは、私が撮るからね!」
 天羽はまるで自分のことのように幸せそうに微笑むと、香穂子を真っ直ぐ見つめる。
「有り難う。この子が無事に育って生まれた暁には、お願いするね」
 まだお腹は平らだから、胎動やそこに子供がいる実感は余りない。
 だが腹部を撫でると、幸せな気分になるから不思議だ。
「式も慌ただしくなっちゃうけれど、何だかそれも幸せだなって思っちゃうよ」
「だろうねえ。巷ではさ、あのクールビューティ吉羅暁彦を落とした女は誰だ、なんて話になっているけれど…、逆に吉羅さんが香穂子を落とした感じがするんだよね〜。今回も、香穂子を離さない為の確信犯っぽいし。なんたって香穂子争奪戦の勝者だからね」
 天羽の言葉に、香穂子は半ば苦笑いをした。
「ね、香穂子、授業の後は予定ある?」
「…うん。暁彦さんが、悪阻を軽くする方法はないか、色んな病院の先生に訊いてみようって言って、病院に行くことになっているんだ」
「…やっぱり香穂子命なんだね、相変わらず」
 くすくすと笑いながら、天羽はスープを飲む。
「クールビューティだと言われた男も、愛し過ぎている妻の前では形無しか…」
 天羽がからかうように言うと、香穂子ははにかむように視線を下げた。
「…まあ、そういうことならしょうがないね。吉羅さんさ、悪阻が治まっても、今度は香穂子が痛い思いをしない病院を探すのに、奔走しそうだよね」
「…確かにね…」
 香穂子は、吉羅の様子を想像すると、くすりと笑った。

 食べた後の授業は、やはり少しだけ辛い。
 だが、ヴァイオリンを弾いている時だけは、悪阻は治まってくれていた。
 これには流石に子供に感謝してしまう。
 授業が終わり、吉羅と待ち合わせの場所に向かう。
 約束の時間ぴったりに、フェラーリが迎えにきてくれた。
「待たせたね」
 吉羅は、いつも以上に香穂子をエスコートして車に乗せてくれる。
 妊娠する前から大事にして貰ってはいたが、今はそれ以上に気遣ってくれている。
「悪阻が軽くなる方法を教えてくれれば良いんだけれどね…」
「暁彦さん、大丈夫ですよ。今日は殆ど苦しくはありませんでしたし、ヴァイオリンを弾いている時は、必ずと言って良い程に、悪阻は治まるんですよ。だから、お腹の子供はとても良い子なんですよ」
 香穂子がお腹を撫でて幸せそうに言うと、吉羅も微笑む。
「…そうか…。だが、君が感じる辛さは、少しでも軽くしたいんだよ。解ってくれるかね?」
「…はい…。それは有り難いと思っています。だけど、頑張れない訳ではないので大丈夫です。悪阻があると、赤ちゃんも頑張っているんだって解りますから」
「…そうなんだけれどね…」
 吉羅は香穂子のお腹を軽く撫でると、子供に話し掛ける。
「お母さんを余り苦しめないでくれ。お父さんは気が気でなくなるからね」
 吉羅の言葉に、本当に愛されているのを実感しながら、香穂子は微笑んだ。

 吉羅がアポイントメントを取っていたのは、やはり著名な産婦人科医師だった。
 何故か共通して総て女性の医師だ。
 悪阻の気分を和らげる方法として、気分転換などの精神的なことを教わった。
 その後で、吉羅は“親教室”という、夫婦で出産に備えるセミナーを申し込んだ。
「最初は月に一回、六か月以降は月に二回だよ。しっかりと準備をしなければね」
「はい、暁彦さん」
 診察の後、吉羅は、栄養がついてしかも躰に良いという食事を出してくれるレストランへと連れていってくれた。
 本当にかなり甘やかされていると思わずにはいられない。
 ここまで甘えても構わないのかとすら、思ってしまう。
 こんなにも吉羅が親身になって支えてくれるとは、正直、思わなかった。
「本当に気分が悪かったり、体調が優れないことがあったら、直ぐに私に言うんだよ。いいね」
「はい。ちゃんと言いますね。だけど暁彦さん、たまには厳しくして下さいね。それに暁彦さんはいつも激務でお疲れだから、そんな時は遠慮なく、私に甘えて下さいね」
「有り難う…。遠慮なく甘えさせて貰うよ。だが、君に甘えて貰うのは、何よりものストレス解消になるのだがね」
「そう言って頂けると嬉しいです」
 香穂子が吉羅に微笑み掛けると、柔らかな笑みで返事をしてくれる。
 こうして笑顔で会話が出来るようになったことが、何よりも嬉しかった。
 初めは冷たいひとだと思った。冷徹で、利益優先主義だと思った。
 しかし実際は違った。さり気ない気遣いが出来る、温かなこころを持った男性なのだということを、こころを近付ける度に感じた。
 厳しい部分も温かなこころの裏返し。厳しくも冷たい言葉を香穂子のために言ってくれているのを知って、恋に落ちていった。
 理事長と生徒。その関係性から、恋人になるまでには高校を卒業するまで待たなければならなかったが、 それを待ったかいがあるというぐらいに、甘えさせてくれた。
 こうして吉羅と言葉がなくても、愛情を交わすことが出来るようになったのが、何よりもかけがえのないものとなっていた。
 今は昔の切ない冷酷さが信じられないぐらいだ。
「…香穂子、帰ろうか」
「…はい」
 こうして手を繋いで貰い、吉羅に導かれて歩くのが何よりも嬉しかった。

 自宅に戻ると、香穂子は気持ちが悪くなり、直ぐに洗面所に駆け込む。
 気持ちが悪いが、子供を得るための喜びだと思うと、それもまた嬉しかった。
 洗面所から出てくると、吉羅が心配そうに抱き締めてくる。
「大丈夫かね!? 悪阻のせいか、最近、凄くやつれていないか?」
「大丈夫です。これぐらいは平気ですよ。元気な赤ちゃんを産むために、お母さんなら通る道ですもの。だから最近、以前よりも母親を尊敬することになりました。お母さんって、やっぱり偉いんだなって…」
 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅は苦笑いを浮かべる。
「女性は強いんだね…。とてもじゃないが、私には堪えられそうにないよ…」
 吉羅の言葉に、香穂子はくすりと笑わずにはいられなかった。
「大丈夫ですから。心配しないで下さいね…」
「…香穂子…。理性では解っているんだが…、君が苦しそうな姿を見ていると、心配で溜まらないんだよ…」
 吉羅を抱き寄せて、香穂子はその背中を柔らかく撫でた。
 暫くふたりで抱き合いながらじっとしている。すると甘い愛情を感じずにはいられなかった。

 悪阻が少しずつ軽くなっていく。
 大学の授業も随分と楽に受けられるようになってきた。
 吉羅とのささやかな結婚式を挙げる日も近付いてきて、香穂子のこころは日に日に華やいだものになる。
 ウェディングドレスは、マタニティ用のものをオーダーした。レンタルでも良いと思ったのだが、吉羅が記念だからと譲らずに結局はオーダーをしたのだ。
 式には、コンクール仲間が勢揃いすることもあり、精一杯のもてなしをするために頑張っている。同窓会のような交流の場になれば良いとも思っている。
 準備に余り無理はするなと吉羅には言われてはいるが、香穂子は出来る限りのことをしようと決めていた。
 友人の為に。
 そして誰よりも愛しい旦那様のために頑張らずにはいられなかった。



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