*恋想曲*

 
 涙が溢れてしまうほどに素敵なキスだった。
 ずっと夢見ていたキスと同じもの。
 うっとりとしてしまうほどのファーストキスに、このまま溺れてしまいそうになった。
 吉羅に唇を柔らかく吸い上げられて、甘い吐息を零さずにはいられない。
 本当に夢見るような瞬間だった。
 吉羅の艶やかなまなざしが、ゆっくりと瞳に下りてくる。
 まるで誓いのキスのようだ。
 香穂子はうっとりとしながら、はにかんで見つめた。
 これが本物のキス。
 だが、吉羅のこころはどうなのだろうか。
 吉羅のこころが伴っていれば良いのにと、思わずにはいられなかった。
 吉羅は何も言わない。
 だが、見つめてくれる視線だけは蕩けるように甘かった。
 吉羅の手が頬から離れた瞬間、夢見る時間から覚めたようで切なかった。
「行こうか…タイムリミットのようだ。横浜へ帰らなければならないね」
「…はい…」
 先ほどまで甘い艶のある表情だった吉羅が、いつものように冷たいものになる。
 愛の言葉すらない。
 香穂子は今すぐ泣いてしまいそうな感情を何とか抑えると、吉羅を涙目で見上げた。
 吉羅は、まるで小さな子どもの手を引くように香穂子の手を繋いで歩いていく。
 それが堪らなくて、今すぐ泣きたくなった。
 吉羅がどうしようもないぐらいに好きだ。
 好きでいることを止められない。
 だからこそキスされた意味が気になってしょうがない。
 キスの意味は何なのか、香穂子はこころの中で何度も訪ねた。
 吉羅は何も言わずに、ただ車まで連れて行ってくれる。
 瞳に滲む紅が、香穂子を益々切なくさせていた。

 吉羅は今までで一番神聖なキスをしたのではないかと思った。
 これ以上に清らかなキスは他にないとすら思う。
 香穂子を汚したくなくて、けれども汚したくて。吉羅は香穂子に深いキスをすることが出来なかった。
 キスだけでもこんなに素晴らしいと思える相手は、恐らく香穂子だけだ。
 それ以外存在しない。
 吉羅は香穂子の初々しい反応にときめきを感じながらも唇を外す。
 慣れない香穂子を驚かせたくはなかった。
 香穂子の瞳はうっすらと潤んでいて、驚くほどに美しい。
 こんなにも綺麗な香穂子は他に知らない。
 香穂子以上に美しい女性も他にいないと吉羅は思った。
 このまま奪い去りたい。
 胸に欲望と恋情が盛り上がるのを感じていた。
 こんなにも誰かを好きになるなんて、吉羅は思ってもみなかった。
 時計を見ると無情にもタイムリミットを告げている。
 このまま香穂子を連れて、軽井沢で一夜を過ごすことが出来たなら、こんなに良いことはないのに。
 だがそれは出来ない。
「行こうか…タイムリミットのようだ。横浜へ帰らなければならないね」
「…はい…」
 香穂子が半ば泣きそうな顔をするから、吉羅は思わず手を繋いでしまっていた。
 香穂子の手を引いて、このまま教会を出る。
 余りに綺麗で、余りに切ない香穂子の横顔に、吉羅はこころを乱されるばかりだった。
 駐車場まで向かい、香穂子を車に乗せる。
「…行こうか…」
「…はい…」
 楽しい時間は直ぐに終わってしまう。
 子どもの頃の遊園地に行った帰りの切なさを思い出す。
 楽しい時間というのは、瞬く間に過ぎ行くことを教えられた体験だった。
 吉羅は車のエンジンをかける。
 いつもは車を運転するのは大好きだが、今日ほどそれが空しいと思った瞬間はなかった。
 暫く無言のまま車を走らせていると、香穂子がお腹を押さえているのが見えた。
「…どうしたのかね…?」
「…冷たいものを食べ過ぎたのか…お腹が痛くて…」
 香穂子の苦しげな声に、吉羅は慌てて車を路肩に停めた。
「日野君!? 大丈夫かね?」
「…だ、大丈夫です…。本当に…」
「休んだほうが楽だろう。待ちなさい…」
 吉羅は直ぐに携帯電話を取り出すと、馴染みのホテルに電話を掛けた。
「吉羅です。部屋の空き状況を教えて頂きたいのですが…。ジュニアスィートなら空いていますか…。そこだけですか…。解りました。押さえておいて下さい」
 吉羅は直ぐに電話を切ると、香穂子の様子を見る。
「途中でドラッグストアがあれば、そこで痛み止めを買おう」
「…はい。ご迷惑をかけてごめんなさい…。吉羅さんが止めるのに、あんなにもアイスクリームを食べたから悪いんです…。私って懲りないですね」
 香穂子が苦笑いを浮かべると、吉羅もそれにつられるように困ったような笑みを向ける。
「…薬を飲んで少し横になると良いから」
「…はい…」
 香穂子が縋るように見つめてくるのが本当に愛しい。吉羅は甘く微笑んだ。
 ホテルに向かう途中で、吉羅はドラッグストアを見つけ、薬と水、栄養ドリンクやスポーツドリンクを買い求める。
 香穂子のためには必要なものだ。
 恐らくは冷たいものを子どものように食べ過ぎたこともあるが、夏の陽射しにあてられたのだろう。
 避暑地だとはいえ、かなりの暑さであったから。
 吉羅は香穂子に痛み止めを飲ませると、その額を撫でる。
「…少し休みなさい。もう少しで目的地には着くから」
「有り難うございます…」
 香穂子のホッとしたような笑顔が、吉羅を安堵させてくれた。
 車は程なくホテルに到着する。老舗のとても優雅なホテルだ。
 駐車場に車を入れると、直ぐに支配人がやって来てくれた。
 吉羅は車を降りると、直ぐに香穂子を抱き上げる。
「熱中症にかかったみたいです。直ぐに休ませたいのですが」
「解りました。直ぐに部屋にご案内します」
 吉羅の前を素早く歩いて、支配人は客室に案内をしてくれる。
 暫く休めば、恐らく香穂子は復活するはずだ。
 そうすれば横浜に素直に帰ることが出来るだろう。
 吉羅は部屋に入って直ぐに、香穂子をベッドに寝かせた。
 香穂子は痛み止めが効いたのか、うとうとしている。
「致し方がないか…」
 吉羅は、香穂子のワンピースのベルトを抜き取り、苦しくないように、背中に手を宛てて、ワンピースのファスナーを開けて、ブラジャーのホックだけを外してやる。
 圧迫から開放されて楽になったのか、香穂子はホッとしたように深呼吸をすると、更に眠りを深くする。
 吉羅はホッとしたように香穂子の頬を撫で付けた後、家族に連絡をした。

 どれぐらいうとうととしていたのかが解らない。
 香穂子が目覚めた時に、吉羅の顔が近くにあった。
「大丈夫かね?」
「…私…どれぐらい眠っていたんですか…?」
「1時間ほどだね。今は七時を過ぎたぐらいだ。ご家族には連絡をしておいた。明日、早くにこちらを出るから、今夜はもうゆっくりしなさい」
 ぼんやりとした頭で、香穂子は頷く。
 両親は吉羅を全面的に信頼しているから、恐らくは安心していることだろう。
「…お腹が空いたら言いなさい。レストランが空いていればそこに連れて行こう。無理ならルームサービスという方法があるからね」
「…有り難うございます」
 香穂子はにっこりと笑うと、徐々に体力が戻ってくるのを感じる。
 そういえばお腹が空いた。
 我ながら凄いと思いながらも、吉羅を見上げた。
「吉羅さん、お腹が空いてきたみたいです。随分と気分がよくなってきたみたいです」
「そうかね。じゃあ、起き上がって、レストランに行こうか」
「はい、有り難うございます」
 香穂子は躰を起こしたところで、圧迫がなくなっていることを感じる。
「…あ…」
 吉羅に圧迫を解かれたのが恥ずかしくて、耳まで紅くするしかなかった。



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