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| 吉羅はきっと、香穂子を楽にするためだけに、圧迫を取り払ってくれたのだろう。 確かにそれは有り難い。 だが、そのことについて、吉羅が何も感じないというのが、切なくてしょうがなかった。 何か感じて欲しいなんて思うのは、間違っているのだろうか。 それが重くて切なくてしょうがなかった。 吉羅がじっとこちらを見る視線が気になって仕方がない。 恥ずかしいと言っても良い。 「…あ、あの…。服を直すので…、あちらを向いて下さいませんか?」 はにかんだ香穂子の言葉に、吉羅は状況を酌んで直ぐに後ろを向いてくれた。 恥ずかしいが、それよりも吉羅が何とも思っていないことが分かりきっているのが悔しかった。 香穂子は服の乱れを直すと、ベッドから起き上がり、吉羅に笑顔を向けた。 「…吉羅さん、お待たせしました」 「じゃあ行こうか」 「…はい…」 吉羅が部屋を出るのを着いて行く。 何処か切ないぎこちなさを拭い去ることが出来なかった。 吉羅が連絡をすると、二人分のディナーが用意されていた。 香穂子は少し恐縮しているようだった。 「…私がお腹を壊して熱中症にならなければ…こんなことにならなかったですよね…? 本当にごめんなさい…」 「神様から休暇を貰ったと思えば良い。余り気にするんじゃない」 「はい。有り難うございます」 香穂子が素直に礼を言うと、吉羅はこころごと包み込むような笑みをくれた。 「…だが、余りはしゃがないほうが良いかもしれないね。君は」 「ごめんなさい…。反省しています」 「だったら良いのだがね」 吉羅は相変わらずクールだ。その完璧なまでのクールさが香穂子を切なくさせることを知らないだろう。 「気をつけます、ごめんなさい」 「本当に気をつけたまえ」 「はい」 香穂子が恐縮していると、食事が運ばれてくる。 「今夜はあっさり目のメニューだそうだ。少し助かったね」 「…はい。そうですね、助かりました」 香穂子はにっこりと笑った後で気持ちを切り替える。 ここはディナーを楽しんでしまおう。 「では、いただきます」 香穂子は、運ばれてきた冷製スープを食べながら、ニコニコと微笑む。 吉羅は珍しくアルコールを少しだが口にしていた。 「アルコールを口にされるのを久し振りに見ました」 「いつもは車だからね。君を送らなければならないからね。今夜は明日の朝に残らない程度に、少しだけ口にすることにするよ」 「いつも有り難うございます。…感謝しています」 「私は基本は車の運転が何よりものストレス解消になっているからね。気にしなくても構わないよ」 「はい」 いつもは気遣ってアルコールを口にすることのない吉羅が、こうして飲んでいる姿を見るのはとても新鮮だ。 あくまで嗜むようにアルコールを口にする吉羅が、とても素敵に思えた。 食事が終わり、デザートの時間になる。 デザートはお腹に優しそうなヨーグルトだった。 「これなら食べられそうです」 「明日はアイスクリームを食べるのは禁止だからね。解っているかとは思うが」 「解っていますよ」 少し拗ねるように言うと、吉羅は意地悪く笑った。 ふたりで部屋に戻ったところで、香穂子ははたと気付く。 今夜はこの部屋でふたりきりなのだ。 吉羅は香穂子のことを子どもとぐらいにしか思ってはいないが、香穂子にとっては本当に大好きなひとだ。 緊張の余りに香穂子は喉がからからになってしまった。 「…吉羅さん…、あ、あの…」 香穂子はひとつのベッドに視線を這わせながら、緊張の面差しを吉羅に向けた。 「…君はベッドを使うと良い。私はソファを使うから安心したまえ」 「わ、私こそソファで寝ます」 「君はまだそれほど回復はしていないだろう…。だからベッドを使いなさい」 「…吉羅さんこそベッドを使って下さい」 香穂子が言っても、吉羅は首を横に振るばかりだ。 「…とにかく君がベッドを使いなさい。シャワーでも浴びてきたらどうかね?」 「…はい。そうします」 香穂子はこれ以上言ってもしょうがないと思い、バスルームに向かうことにした。 バスルームは、流石はジュニアスィートというだけあり、かなりシックで美しかった。 ゆっくりとバスタブに入ると、躰の奥が切なく疼く。 吉羅は、結局、香穂子のことを妹程度にしか思ってはいないのだろう。 それはよく解る。 守るべき保護するべき相手だと思っているのだろう。 「…吉羅さん…大好き…」 まるで呪文のように呟くと、香穂子は泣きそうになった。 お風呂に入り終わり、片付けをしてから、パウダールームを出る。 素早くパジャマに着替えて、髪を乾かす。 鏡に映る姿は本当に小さな子どもみたいだ。 これでは吉羅も女とは認めてはくれないだろう。 彼にとっては香穂子は幼稚園レベルなのかもしれない。 香穂子はパウダールームを出ると、吉羅のそばに向かった。 本当は同じベッドに寝て、抱き締めたかった。 だが、今の状況でそれは不可能だ。 香穂子と同じベッドに眠ればどうなるかは自分が一番よく解っていたから、何も言えなかった。 吉羅は眉を寄せる。 香穂子とふたりだけの夜。 それは何よりも甘美な響きがある。 だがそれは決して求めてはならないような気がした。 吉羅は溜め息を吐くと、ネクタイを外して、白いカッターシャツだけになる。 ソファにどかりと腰を掛けながら、香穂子を待った。 今夜は眠れそうにない。 眠れないのには慣れているから、そんなには大したことはない。 吉羅は、明日のためにも数時間は仮眠をしなければならないと思いながら、じっとしていた。 香穂子がパウダールームから出てきた。 すっぴんになったが、相変わらず魅力的だ。 パジャマを着て、いささかぎこちなくする姿は、まるで妖精のように愛らしい。 妖精。僅かにこころ苦しくなる。 香穂子は、あの忌々しい妖精どもよりも幾分か品があり、何よりも麗しかった。 吉羅は思わず見とれてしまう。 「お風呂、先に頂きました。有り難うございます」 「ああ。今夜はゆっくりと眠ると良い」 「有り難うございます」 吉羅がソファから立ち上がると、バスルームへと向かった。 躰の奥に欲望が疼いている。 この沸騰する感覚を沈めるためにも、頭の上から水を被らなければならないと、思わずにはいられなかった。 吉羅がバスルームに入ると、香穂子の緊張はかなり高まる。 「…吉羅さん…」 何ともないという態度をあからさまに取られると、流石に女としてはヘコんでしまう。 魅力などないと感じているのだろう。 かといって、吉羅を誘惑するなんていう術は持ち合わせてはいない。 香穂子は大きな溜め息を何度も吐くと、吉羅がいるパウダールームの扉を、何度も恨めしそうに眺めた。 暫くじっとしていると、吉羅がバスルームから出て来た。 艶やかな風呂上がりの姿に、香穂子は息が詰まるほどに、ときめいてしまう。 「日野君、まだ起きていたのかね? 今夜は疲れているだろう。早く寝なさい」 「…解っています…」 香穂子はふと小さな子どものように、吉羅を見上げる。 「吉羅さん…、いつも有り難うございます…。いつも私を妹のように…、見守って下さっているんですね…。こうして気遣って頂けるのが嬉しいです。有り難うございます…」 妹のよう。 自分で言っておいて、香穂子は傷付いてしまう。 「…妹…ね…。…私は…、一度も君を妹だなんて思ったことはないよ」 吉羅の瞳が香穂子をしっかりと捕らえていた。 |