2
結局、男も狭井の君の回し者だったのだろうかと、千尋は思わずにはいられなかった。 掴まれた手を離そうとしても、離れられないぐらいにきつく結ばれてしまっている。 しかも逃げてしまえば、何がおこるかが解らない。 千尋は致し方がなく、ただじっと捕らえられるしかなかった。 歩いてホテルの見合い会場に連れていかれ、狭井の君に引き渡される。 「まあ! アシュヴィン殿! 自ら千尋様をお連れになるとは思いませんでしたよ」 狭井の君は何処かホッとしたように微笑んではいたが、千尋への威嚇は忘れてはいない。 そのまなざしが怖い。 アシュヴィン----その名前を聞いてハッとする。 千尋の見合い相手の名前だ。 このエキゾチックな青年が見合い相手だとは思いも寄らなかった。 「…あなたがアシュヴィン…」 千尋が目を見開いて呆然とすると、アシュヴィンはフッと微笑んだ。 「さあ、早速ですが、お食事会を始めましょうか」 狭井の君はふたりに席に着くように促す。 食事会と称する見合いではないかと、千尋はこころの中で言いながら、むっすりとした気分で、席に着いた。 アシュヴィンは、そんな千尋を、かなり面白そうに見つめている。 艶があり、何処かいたずらめいた笑みに、千尋はドキリとさせられた。 食事をしながらも余裕のない千尋に対して、アシュヴィンは、大人の余裕を見せている。 それが千尋には悔しかった。 食事をしながらも、全く味がしない。 千尋は、情けない気分になりながら、ただ食べていた。 狭井の君に監視をするように見つめられるが嫌だ。 全く落ち着かない。 見合いの席なのに、何だか重い場所に来てしまった気分だった。 「少し庭に出て話をしないか」 アシュヴィンの声掛けに、千尋はホッとして頷く。 こんなにも仕切り屋ばかりの中では、本当に息が詰まりそうだった。 「俺たちは少し中庭に出て散策をしてきます。あなた方はゆっくりされて下さい」 アシュヴィンはさらりと言うと、席から立ち上がる。 千尋もその後に続いた。 ふたりでレストランスペースを出ると、本当にホッとして大きな深呼吸をしてしまう。 「…本当に息が詰まってしまうな…。お前が息が詰まりそうになるのは当然だろう。こんな日柄の良い日に、 あんな息苦しい奴等と一緒にいると、気が狂いそうになるな」 アシュヴィンはネクタイを少し緩めると、僅かに口角を上げる。 その表情がとても魅力的で、千尋はドキリとしてしまった。 ふたりで中庭に出て、ゆらゆらと歩く。 こうしていると本当にホッとするのを感じた。 「…こうして監視の目から逃れると、やっぱりホッとするな」 「そうですね」 千尋は、敬語を使わなければ失礼になると思い使ったが、かえってアシュヴィンには苦笑いをさせる結果になってしまったようだ。 「敬語なんかは使わなくて構わない。先ほどのお前のほうがお前らしくて良かった。礼儀は大切だが、俺に対してはそのようなものは必要とはしないからそのつもりで」 「…有り難う…」 アシュヴィンは薄く笑うと、軽く頷いてくれる。 その仕草、そして微笑みが、千尋のこころの中に、ゆっくりと満たされて幸せな甘さをもたらしてくれる。 「こうしてふたりでブラブラしていたら、仕切り屋さんたちは喜ぶんじゃないのか?」 「そうだね…。恐らくは…」 「だったらほとぼりが冷めるまでこうしていよう」 「うん、有り難う」 アシュヴィンとならば良い時間を過ごせるような気がする。 秋の素晴らしい日よりにふさわしい時間を。 「俺はこのような茶番な結婚はする気はないから、お前も安心すると良い」 アシュヴィンはフッと微笑むと、千尋を見守るような優しいまなざしで見つめて来た。 このようなまなざしで見つめられたら、息が詰まってしまいそうになるぐらいにドキリとしてしまう。 アシュヴィンはきっとこの想いには気付かない。 「有り難う。あなたとの縁談がなくなったとしても、今度はまた別口の縁談を持って来るよ。あなたも大変じゃないの?また同じようなことが起こるよ」 「俺はうちを出るつもりだから大丈夫だ」 アシュヴィンはさらりと言うと、千尋を見る。 「え…?」 アシュヴィンの家は、名門中の名門で、家を出て何かをするということが、果たして赦されるのだろうかと、千尋は思う。 「そんなことをしたら大変じゃないの?」 「大丈夫だ。家は兄が継げば良い。それに弟もいるからな。俺が継がなくても、全く問題はない。二人とも優秀だからな」 アシュヴィンはさらりと言うと、千尋を見た。 「お前も家になんか縛られることはないと思う。見合いをすっぽかそうとした勢いで頑張れば良いんじゃないのか?」 「そうだね。徹底交戦はするつもりなんだけれど、なかなか敵も手強くて…」 千尋が苦笑いを浮かべると、アシュヴィンも頷いた。 「狭井の君か…。確かに手強いひとだな」 「うん」 千尋は、果たして狭井の君と闘っても最後は力尽きてしまうのではないかと思う。 「…しょうがないよな…。ま、あのひとは確かに…」 アシュヴィンはそこまで言ったところで、一旦、言葉を切った。 「…だったら…、このまま、俺と婚約してしまって、お互いにカモフラージュするのはどうだ?」 「…え?」 確かにアシュヴィンも自分自身もかなり好都合だとは思う。 千尋は魅力的だとは思いながらも、何処か切ない気分になる。 その理由がよく解らない。 どうしてこんなにも切なくて痛いのか。 千尋は頷くのを一瞬ためらった。 ためらう理由なんて、何もないというのに。 なのにこうしてためらってしまうのは、やはり、何か口では言い表すことが出来ない感情があるからだろう。 「…どうした?」 アシュヴィンの声に、千尋はハッとする。 「…うん。解った、そうしよう。あなたにとっても、私にとっても好都合だものね。うん」 千尋は早口で言いながらも、何処か切なさを感じてしまう。 逢ったばかりの相手だというのに、どうしてこんなにも痛いのか、千尋には分からなかった。 「じゃあ、契約成立だ、千尋」 アシュヴィンは堂々と千尋を呼び捨てにすると、そっと手を差し延べた。 「俺のことはアシュヴィンと呼んでくれて構わない。そのほうがよりリアリティが生まれるだろう」 「そうだね、アシュヴィン」 逢ったばかりの、しかも年上の男性を、こうして呼び捨てるなんて、やはり慣れてはいない。 千尋はほんのりとドキドキしながら、アシュヴィンの手をそっと握った。 「宜しくな、これから」 「うん。宜しく、アシュヴィン」 千尋はほんのりと頬を初めると、笑顔で頷いた。 「…じゃあ、らしさを演出するために、手を繋ぐか…」 「…あ…」 しっかりと手を握り締めると、アシュヴィンは千尋の手を引いて、レストランスペースへと戻っていく。 狭井の君たちを見ると、かなり幸せそうな表情をしていた。 これだとかなり満足しているということだろう。 千尋はホッとしながら、アシュヴィンを見つめる。 するとアシュヴィンは、甘さの含んだ余裕のある笑みを浮かべてくれる。 こんな表情を浮かべられると、蕩けてしまいそうになる。 アシュヴィンに恋なんてしていないはずなのに、なんだけれど恋をしてしまったような気になる。 このままこの手を離さないで欲しい。 このまましっかりと手を握り締めていて欲しい。 そんなことをぼんやりと思ってしまった。 アシュヴィンはきっと合理的な関係だとしか思ってはいないだろう。 だが、千尋はそんなことでなかなか割り切ることが出来ない自分がいることを感じていた。 |