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アシュヴィンと婚約者のふりをする。 そう考えるだけで、鼓動が激しく高鳴るのを感じる。 ふたりの仲睦まじい姿を見ているだけで、狭井の君は満足といったかたちだ。 「俺の連絡先を教えておくから、何かあったら連絡をくれ」 「うん。有り難う。私の連絡先も教えておくね」 お互いに携帯電話の番号と、メールアドレスを交換する。 「何かあったら呼べ。仕事で立て込んでいる時以外は、駆け付けよう」 「有り難う」 アシュヴィンの携帯電話とメールアドレス。千尋は力強い武器を手に入れたような気分になる。 千尋は思わず微笑んだ。 「俺もどうしてもお前が必要な時には必ず呼ぶから」 「うん。立て込んでいない時以外はちゃんと駆け付けるから」 「解った」 お互いに微笑みあうと、ふたりは頷きあっていた。 狭井の君が待つレストランへと、ふたりは何食わぬ顔で戻った。 すっかり意気投合したと信じこんでいる狭井の君は、かなり上機嫌だった。 「やはり若いおふたりだけで逢うのが一番でしたわね」 狭井の君は企んだような笑みを浮かべている。 これで葦原の家は安泰とでも思っているのだろう。 千尋はこころの中で溜め息を吐いた。 偽装婚約だなんて夢にも思ってはいないだろう。 「千尋さんとは正式にお付き合いをしたいと思っています」 「わ、私もアシュヴィンさんと正式にお付き合いをしたいです…」 千尋は本当にドキドキしながら言うと、頬をうっすらと赤らめた。 「まあそれは良いことですわ姫様。アシュヴィン殿とおふたりでしっかりと新しい人生について予行演習をしなければならないですね」 狭井の君は、ふたりが付き合うことになり、かなりホッとしているようだった。 自分が思い描いていた通りになったからだろう。 「では今日はこのあたりで。姫様、帰りましょうか」 「はい」 千尋が素直に返事すると、狭井の君はご機嫌そうにしっかりと頷いていた。 「ではまたな千尋」 「じゃあアシュヴィン」 アシュヴィンはホテルの車寄せまで送りにきてくれた。 手を差し延べられて、千尋は素直に手を差し出すと、アシュヴィンとしっかり握手をする。 アシュヴィンの手は力強くて大きくて、千尋は握り締められるだけでドキドキするのを抑えることが出来なかった。 ふたりが付き合うことは、あくまで偽装であるはずなのに、それを忘れてしまうほどにときめいてしまう。 まるでミイラ盗りがミイラになった気分だ。 「また連絡をする」 「…うん。有り難う」 アシュヴィンの手がゆっくりと千尋から離される。 本当は離してなんて欲しくはない。 手を離された瞬間、胸がキュンと音を立てるほどに苦しかった。 アシュヴィンの手の温もりと強さの余韻にぼんやりとしていると、狭井の君が咳払いをしてくる。 「千尋様、橿原に帰りますよ」 「あ、う、うんっ。帰ろうか」 千尋が慌てて早口で言うと、狭井の君は諦めたように溜め息を吐いた。 「千尋様、アシュヴィン殿を気に入られたのはとても良いことではありますが、余り溺れないほうがよろしいですよ。恋に溺れれば、冷静さを失ってしまいますからね」 「…狭井の君…」 冷静さと恋心が反比例することは、姉を見ていた千尋には痛いほどに解る。 恋に溺れたくない。 恋には溺れない。 そう思っているものの、溺れてしまうのではないかと思ってしまう。 それに何処か憬れている自分がいるから。 「アシュヴィン殿とのえんだ、進めさせて貰いますよ。構いませんね」 念を押すように言われて、千尋は頷くしかなかった。 アシュヴィンと出会って、人生が全く違う方向に進んでいくのを千尋は感じる。 アシュヴィンは、千尋の世界をひっくり返してしまったのだ。 恋なんてしていない、なんて言えなくなってしまっている。 アシュヴィンに恋なんてしていないと考えるだけで、心臓がおかしくなってしまうほどにドキドキしてしまった。 新しい生活が始まる。 千尋はそんな気分になっていた。 アシュヴィンから何の連絡がないままで、時間は過ぎ去っていく。 千尋は、アシュヴィンは自分のことを忘れているのではないかと思ってしまっていた。 学校からの帰り、不意に携帯電話が鳴り響き、千尋は慌ててそれに出た。 「…はいっ!」 「俺だ千尋」 笑みを含んだ魅力的な声を聴くだけで、ドキドキしてしまう。 鼓動がおかしくなるほどだ。 ずっとアシュヴィンからの連絡を待っていたのだと、こころが伝えていた。 「今から時間はあるか?」 「あ、あるけれど…」 狭井の君の監視はないのである程度の時間までは大丈夫だ。 平日だから狭井の君は葦原の家の仕事にかかっているから大丈夫だ。 「…だったら、橿原神宮駅まで出て来られるか?」 「うん大丈夫だよ」 「だったら来てくれ。どうしてもお前の協力が必要になった。あのばあさんには俺からきちんと話すから、何も心配しなくても良い」 「有り難う」 アシュヴィンから話してくれれば、狭井の君も納得してくれることだろう。 千尋はホッとして笑顔になった。 「だったら駅まで歩いて行くよ」 「ああ頼んだ」 千尋は電話を一旦切ると、足速に駅まで向かう。 クラシックなデザインの駅舎を目指して歩く。 駅に近付いていくと、直ぐにアシュヴィンが何処にいるかが解った。 黒い主張の激しいスポーツカーが停まっておりー直ぐにアシュヴィンの愛車であることが解る。 行動もかなり派手だが、持っている物もかなり派手だと千尋は思った。 車に近付いていくと、ゆっくりと窓が開けられる。 サングラスをかけたアシュヴィンが顔を出してきた。 「乗ってくれ」 アシュヴィンは助手席のドアを開けると、乗るように促してきた。 千尋は訳が解らないままに車に乗り込む。 「少し付き合って欲しいことがあってな。“婚約者”としてね」 「…あ…」 千尋がアシュヴィンの顔を唖然と見ると、薄い笑みを浮かべてくる。 「財界のパーティがあって、どうしても出なければならないんだよ。で、うっとうしい連中もいるから、お前に協力をして貰おうと思ってね」 「協力って、いったい何をしたら良いの?」 「ただ一緒にいてくれたら良い。うちの家のネームバリューだけで近付いてくるやつらがいるからな。とっとと追い払いたいんだよ」 アシュヴィンは唇を歪めて、不快そうな表情をする。 かなりの嫌悪感を抱いているのは確かな様子だった。 「解ったよ。婚約者のふりをすれば良いんだね」 「流石、話は早いな。この借りは必ず返すから、済まないが宜しく頼む」 「解った」 アシュヴィンは車を静かに出すと、京都方面に走らせていく。 「制服だと拙いから着替えて貰う」 「解った」 流石にこの格好でパーティなんて出たくはない。 千尋は、アシュヴィンがパーティ用の洋服を用意してくれていて、とても助かった。 「ここは田舎だな」 アシュヴィンのしみじみとした言葉に、千尋は苦笑いを浮かべる。 「だけど気に入っているよ」 「ああ。この田舎さが悪くないって思っているよ」 市内に入ると、アシュヴィンは高級セレクトショップが並ぶ目抜き通りに向かう。 近くの駐車場に車を停めると、アシュヴィンは千尋をエスコートしてくれた。 慣れているのかかなりそつがない。 「じゃあ行くか」 アシュヴィンは千尋を導くように半歩前を歩く。 その後に着いていくと、アシュヴィンは女性のファッションアイテムならば何でもそろう、セレクトショップへと入っていった。 |