*相生*

前編


 もうすぐ、新しい世が成る。

 小松が夢見て、尽力した世界が始まるのだ。

 ゆきは、それを傍らで見つめることが出来て、本当に嬉しい。

 ゆきは小松の妻として、傍らでずっと見つめてこられたことが、幸せだ。

 神子としての責務を終えてから、ゆきは表舞台からは去り、小松をサポートすることに、喜びを見出だしている。

 邸の者ともすっかり打ち解けて、ゆきは楽しく暮らしている。

「今日の糠漬けは上手く漬かっているかな」

 小松が好きな糠漬けを作ることが、今、一番、熱中していることだ。

 糠漬けの壺を開けた途端に、その香りに、ゆきは気持ち悪くなる。

「……糠漬け、腐ってるのかなあ……。発酵食品に、腐るって表現はおかしいかもしれないけれど……」

 ゆきは蓋を開けたままでは気持ちが悪くなり、慌てて蓋を閉じた。

「奥方様、如何されたのですか!?」

 直ぐに台所を取り仕切る女性がやってきた。

「何だか、糠漬けが腐っているような気がするんですよ……。気持ち悪くて……」

「糠床は毎日かき回してしますからね、大丈夫ですけれどね……」

 女性はいつものように壺の蓋を開けて、確認をしてくれる。

「……大丈夫ですよ。全くいつもの香りだと思いますが……」

「そう。だったら良いけれど、私の鼻がおかしいのかな……。だけど、気持ち悪い……」

 ゆきはこれ以上、臭いを嗅いでいたくはなくて、慌てて蓋を閉めた。

「体調がお悪いのかもしれないですね……。お休みになられたほうが、良いのかもしれませんわ……」

 女性はゆきを心配そうに見つめてくる。

「お熱はないようですけれど……」

 女性は心配する余りに、ゆきを切なそうに見つめている。

 その眼差しを見つめながら、ゆきは母親を思い出した。

 もう二度と会えない母。

 ゆきが、体調が悪いと、こうしていつも心配してくれていたことを思い出す。

「御家老には、体調が悪いからお休みされると、お伝え致しましょうか?」

 女性からの申し出を、ゆきは首を横に振った。

「更に心配されてしまうから」

「ですが……」

「食事のお手伝いをしますね」

 ゆきは気を取り直すと、食事の支度を手伝う。

 だが、食べ物の匂いがことごとく駄目で、ゆきはぐったりぎみになっていた。

「奥方様、大丈夫でございますか?」

「平田さんのごはんの支度だけでもするね」

「平田殿は、御家老とゆき様にしかなつかれていませんからねえ……」

 ゆきはニコリと笑って頷くと、平田殿の食事を作った。

 そうすると、今度は大丈夫のような気がする。

「治ったかもしれません。帯刀さんと食事をご一緒します」

 ゆきがニッコリと微笑むと、女性は更に心配そうな顔をする。

「左様でございますか。奥方様、食べた後に気持ちが悪くなったりしましたら、遠慮なく仰って下さいまし」

 女性は柔らかな笑顔を浮かべながら、そっと頷いた。

「分かりました。有り難うございます」

 ゆきは笑顔で強く頷いた。

 

 小松とふたりで食事をする。

 なんて幸せなことなのだと、ゆきは思う。

 愛するひとと、一緒に食事をするのが、何よりも嬉かった。

 食事を楽しく進めていると、また気分が悪くなる。

 食べると治まったり、治まらなかったり。

 ゆきは不思議な気分の悪さに翻弄されてしまう。

「ゆき、どうしたの?」

 ゆきの調子の悪さに、小松はいち早く気づいたのか、眉を怪訝そうに寄せた。

「気持ちが悪かったら、直ぐに眠っても良いんだから……」

 小松はゆきにそっと寄り添って、華奢な背中を何度か撫でてくれた。

 こうされると本当に安心する。

「……有り難うございます、帯刀さん……」

「余り無理はしないようにね。君は神子の時から、人一倍頑張ってしまう癖があるようだからね」

「はい」

 小松はゆきを気遣って、そばにいて抱き寄せてくれる。

 今は二人きりだから、こうして甘えさせてくれる。

「明日は、千鳥ヶ淵に遠乗りをしようと約束をしていたけれど、大丈夫かな?無理なら延期をすれば良いよ。千鳥ヶ淵は逃げないからね……」

 小松はクスリと笑うと、ゆきを更に抱き寄せてくれた。

「有り難うございます、帯刀さん。今は、大丈夫みたいです。波があるんですよ、珍しく」

「……そう。だけど、遠乗りの最中に気持ちが悪くなったら困るでしょ?延期にした方が、良いのかもしれないね」

 小松はゆきに言い聞かせるように、呟きながら、守るように抱き締めてくれた。

 小松に守られている。

 誰よりも愛されている。

 それが実感出来るだけで、ゆきは嬉しかった。

 食事のあと、酸味のある果物が食べたくなり、ゆきはミカンに手を伸ばした。

「美味しいですね。ミカン」

「先ほど気持ちが悪いと言っていたのは、何処の誰なんだろうね」

 小松は苦笑いを浮かべながら、ミカンを貪るゆきを見つめている。

「美味しいですよ。帯刀さんも、いかがですか?」

「私は遠慮しておくよ、ゆき」

「平田さんは欲しいの?」

 いつの間にか傍に来ていた猫に、ゆきはミカンを差し出した。

「流石の平田殿も、ミカンは食べないよ」

 小松は苦笑いしながらも、ゆきと平田殿を交互に見つめた。

「しかし、先ほどまで気分が悪いと言っていたのに、よく食べるね」

「食べているほうが楽なんですよ」

「不思議だね」

 小松は不思議そうにゆきを見つめる。

「一度、医者に診てもらったほうが良いんじゃないの?」

「大袈裟だと、あ、また」

 ゆきは再び気持ちが悪くなってしまい、離席せざるをえなかった。

「ゆき」

 小松が制止するのを聞かずに、ゆきは気持ちが悪くて戻してしまう。

 不思議な感覚だ。

 今までに体験したことのない感覚だ。

 不安になる。

 やはり、慣れない世界ではあるから、どう対処をしてよいのかを、即座に判断出来なかった。

「奥方様、如何されました?」

 ゆきが最も信頼している女性が、直ぐに駆けつけてきてくれ、背中を擦ってくれる。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫なんだけれど、変なんです……」

「……変、で、ございますか?」

「はい。食べている間は気持ち悪くないのに、食べるのを止めると気持ち悪かったり、ミカンが沢山食べたかったり……」

 ゆきの言葉に、女性が反応する。

「奥方様、もしや……」

 少し嬉しそうに女性は微笑む。

「もしや?」

 ゆきは小首を傾げてながら、反芻する。

「ご懐妊ではございませんか?」

 女性の言葉に、ゆきはただ驚くしかなかった。




モクジ ツギ