前編
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自分自身には、そう言い聞かせてはいる。 じぶんでは、至極、冷静だと思っているし、いつもとは変わらない自信がある。 誰に言われてもだ。 だが、愛しい者と一緒にいるだけで、ほわほわと雲の上を歩いているような気分になった。 うわついているのとは、また違う感覚のような気はする。 こんなことは今までなかったし、このような感情を、受け入れ、認めることも出来なかった。 今までの自分には。 ゆきと出逢ったことで、そのような感情を認めることになった。 だいたい、ゆきに出逢わなければ、そのような感情は出て来なかった。 小松は、自嘲ぎみに笑いながらも、このような感情を認めるに至ったのは、やはりそれだけゆきのことを大切に思っているからだろう。 ゆきと一緒にいるだけで、ただそれだけで幸福でいられるのだ。 小松はこんなにも心境が変化するのは、本当に愛しいと思った相手に、初めて出逢ったからだ。 こんなにも誰かを愛しいと思ったことは、なかった。 今までも、花を愛でることはしていたが、それでも何処か冷めていた。 なのに、ゆきは、冷めて見ることが出来ない。 冷めて見ることが出来ないのは、それだけゆきのことを愛しいと思っているからだ。 ゆきに笑顔でいて貰いたくて、小松はゆきに贈り物をするが、何も欲しがらないし、小松の財力や地位にもなびかない。 一筋縄では全くいかない相手なのだ。 それは、小松が身をもって感じていることだ。 先日、ゆきは、お世話になったり、好きな人に贈り物をする日だと言って、小松を始め八葉や、その周辺にいる者に、甘い菓子を配っていた。 お返しをしなければならないと、小松が申し出ると、ゆきは何もいらないと言った。 他の八葉からは、菓子やお茶などを素直に貰っているのに、どういうことかと、小松は思った。 嫌われているかもしれない。 そんな不安が心によぎる。 今までは、そのようなことを気にしたことはなかった。 嫌われても構わないとすら、思っていた。 だが、ゆきだけは、嫌われたくない。好きでいてほしいという、ワガママな感情が小松を支配していた。 燻るような重い感情に、小松は苦々しい思いを抱いていた。しかし、ゆきは小松に、笑顔で意外な提案してくれた。 「小松さんと一緒に、京の町を歩きたいです。一日、一緒に過ごしてくれませんか?」 物よりも一緒にいる時間がほしいと、ゆきは言ってくれたのだ。 最も良いお返しをしてくれたと言っても良い。 ゆきは、ひとつだけ条件を出した。 駕籠は嫌だと言ったのだ。 これも小松には、好都合だった。 小松も狭い駕籠は好きではない。圧迫されるような気分になるのだ。 小松は、お花畑と呼ばれる自宅から、ゆきの泊まるたつみ屋に向かった。 華をどこかに連れていくのは、初めてではない。 なのに、緊張してしまう。 それは、ゆきが相手だからだ。 ゆきだからこそ、そんな想いをいだいてしまうのだ。 小松がたつみ屋に到着すると、ゆきは嬉しそうに走ってきた。 まるで人懐っこい猫のように駆けてくる。このようなところは、平田殿のようで、とても可愛かった。 毒されている。 薩摩藩家老ともあろう者が。 だが、小松はそれでも良かった。 ゆきになら毒されても良い。 平田殿なら毒されても良い。 小松にとっては、何よりも純粋な存在なのだから。 「さて、今日は散策をしようか。祇園界隈や清水あたりに足を伸ばそうか」 「はい」 ゆきは嬉しそうに笑っている。 この笑顔を見るためならば、どんなことでもしたいなんて、つい思ってしまう。 ドキドキするなんて、いつぶりだろうか。そもそも、女人の笑顔だけでドキドキするたんてことが、今まであっただろうか。 小松は自分自身に問いかける。 いや、きっとなかったに違いない。 そう思えてしまうほどに新鮮な気持ちだった。 小松は、ゆきを連れて、祗園社前の大通りの小間物屋に向かう。 薩摩がひいきにしている、舞妓や芸妓にばったりと出会うかもしれない。 だが、接客において、超一流の彼女たちが、小松が誰かに逢っているなどと、噂をするとは考えられない。それは、彼女たちの信用にかかわることだからだ。 「このあたりは華やかですね」 「そうだね。だが、華やかなのは表面的なところだけだよ。この場所は、世の中を変えるための智恵が集結している。しかも、それが洩れることはない。華やかに見えて、魔物が棲んでいる場所だよ……」 ゆきが相手だからだろうか。 つい、本音が出てしまう。 ゆきには、綺麗事を語りたくなかった。裏を返せば、ゆきを心から信頼しているということなのだ。 ゆきを裏切ったり、がっかりさせたくはないという気持ちが大きいのかもしれない。 いつもは、華に対しては、はぐらかしてばかりだった。 聡い華もいたが、それでもはぐらかし通した。 ゆきだけはそれをしたくはないと思ったし、それは出来ないとも思った。 「小松さん、有り難うございます。楽しいです」 「それは良かった」 ゆきの素直な笑顔を見る。 これだけで最高の贈り物を受けた気分に小松はなれた。 可愛く透明な飴玉が売られている店を見つけた。 「小松さん、この飴、キラキラしていてきれいですね。食べるのが勿体ないかも。だけど、頭が疲れた時に、飴玉が、良いから、おみやげに買ってゆきます」 ゆきは、あくまで小松には全く頼らない。自分で欲しいものは自分で買う。それが小松にはしゃくにさわる。 「待って。ゆきくん、飴玉は私が買うよ」 ゆきを制止すると、小松は飴玉を買い求めた。 「有り難うございます。本当に嬉しいです」 飴玉なんて高価でもない。なのに最高級の着物を贈られたような顔をする。それが、小松には不思議だった。 だが、それもゆきらしくて、好ましかったのもまた事実だった。 この笑顔をいつまでも見つめていたい。 小松は胸の奥が甘く乱れるのを感じながら、そう祈らずにはいられなかった。 いつまでも純粋なゆきをそばに置きたい。 それが小松の強い願いだった。 いつまでもこのような時間が重ねていければと思った。 「さあ、祗園社にお詣りにいこう」 このひとときを大切にするために、小松は先へと進んだ。 |