*大切なひと*

中編


 ゆきの顔が見たい。

 ゆきの笑顔が見たい。

 それだけを胸に、小松はゆきのいる宿へと向かう。

 ゆきを薩摩藩邸に連れて帰る。

 それだけなのだ。

 小松は揺るぎない信念を持ちながら、宿へと急いだ。

 途中でゆきの大好きな、甘いものを買い求める。

 甘いくず切りぐらいならば食べられるだろうから。

 ゆきの笑顔が見たい。

 あの笑顔が過るだけで、世界で一番の幸福者だと感じずにはいられない。

 ゆきが、小松にとっての幸せの象徴であるということを、ようやく気付いた。

 だからこそ、ゆきを離したのだ。

 危険な目には遭わないようにと。

 だが、今は、違う。

 側に置かなければ、お互いに駄目になってしまうことに気付いたのだ。

 ようやく宿に着く。

 宿に着くまでは、とても長く感じる。

 早く逢いたい。

 その想いが胸の奥までせりあがり、堪らなくなるくわらいに胸が苦しくなった。

 

 ゆきは起き上がれない自分をもどかしくてしょうがないと思いながら、ため息を吐く。

 小松に逢いたい。

 逢いたくてしょうがない。

 ゆきは、どんな特効薬よりも小松がいるだけで元気になれるのにと思わずにはいられなかった。

 ふらふらとしながら、ゆきは何とか起き上がる。

 せめて、小松の側にいたい。

 同じ場所、より近い場所にいたい。

 追い返されても構わないから、ゆきは薩摩藩邸に向かおうと思った。

 だが、なかなか身体が思うように動いては、くれなかった。

 ゆきが起き上がり、支度をしようとすると、下からずいぶんと賑やかや雰囲気を感じた。

 遠くから大好きなひとの気配を感じる。

 まさか。

 まさか、手を伸ばすところまで、大好きなひとが来てくれているのだろうか。

 ゆきは期待に胸が高まる。

 静かなのに力強い足音は、ピタリとゆきの部屋の前で止まった。

「ゆきくん、邪魔をするよ」

 凛とした透明な声。

 小松だ。

 その声を聴くだけで、ゆきは鼓動が甘く高まるのを感じた。

「ど、どうぞ!」

 思わず声が上擦ってしまう。

 本当は、髪を綺麗に整えて、美しくしたいのに、ボサボサでひどい顔をしている。

 寝てばかりいたから、見せられないような顔になってしまっている。

 しかも。

 直している余裕なんて、あるはずもないのだ。

 ただ、背筋だけを伸ばして、ゆきは小松を受け入れた。

 

 ゆきが消え入るような状態だったらどうしたら良いのか。

 そんな不安を感じながら、小松は障子戸を開けた。

「……ゆきくん」

「おはようございます、小松さん……」

 ゆきがにっこりと微笑んで、小松を迎えてくれる。

 清らかで透明な笑顔がとても美しい。

 だが、何処か窶れているようにも見えた。

 本当に綺麗だ。

 だが、好ましくない笑顔には違いなかった。

「具合はいかがかな、ゆきくん」

「有り難うございます。大丈……」

「大丈夫だなんて言わせないよ。明らかに大丈夫ではないからね」

 小松はキッパリと言うと、ゆきの側に寄る。

「薩摩藩邸に来なさい。こちらのほうが養生が出来るからね」

 小松が言い切ると、ゆきは驚いた様子で、目を丸くしながら小松を見た。

「小松さん……、それは出来ないです。私だけが離れるわけには……」

「早く治さなければならないでしょ!?でなければ、神子としての働きが出来ないよ。君は龍神の神子としてやらなければならないことが、沢山あるんだから……」

 小松はなるべくゆきには、冷静沈着な大人であることを滲ませながら、呟く。

 本当は思いきり抱き締めて、病を何処かに飛ばしてあげたかった。

 だが、それはとても難しい。

 胸が苦しくて堪らなくなる。

「……神子として、早く良くなるようにがんばります。みんなのところで。小松さん、お気遣い有り難うございます。私、笑顔でいられるように頑張りますね。お見舞い有り難うございます」

 ゆきはあくまで儀礼的であることを崩さない。

「ここでずっと寝ているだけでは、埒があかないんでしょ?だったら来なさい、薩摩藩邸に。ゆっくりと出来るからね」

「……小松さん……」

 ゆきは切なそうな泣きそうな顔をしている。

 当然だろう。

 今まで小松はゆきを拒んでいるのも同然のことをしていたのだから。

 ゆきはただ静かに笑っている。

 こんな風に笑うことなんて、今までなかった。

 ゆきがこのまま消えてしまうのではないかと、思わずにはいられない。

 小松はゆきが、その名前と同じように、消えてなくなってしまうのではないかと、危惧した。

 ゆきを危険な目には遭わせないようにと離れたはずなのに、こうして望まない方向になってしまっている。

 小松は、ゆきをじっと見つめた。

「……来なさい、薩摩藩邸に。君が神子としてやらなければならないことをするために、養生するために。八葉として、そして薩摩藩家老として、私は君を歓迎する」

 本当はそんなことじゃない。

 ゆきを、ひとりの男として守りたいからに他ならない。

 ゆきを守りたいから、連れて帰るのだ。

 自分の側に置くのだ。

 核心が言えない。

 ゆきは俯いたままだ。

 唇を咬んでいるのが解る。

「……小松さんにご迷惑をかけることになるでしょうから、私はここで良いです。小松さん、お気遣い有り難うございます」

 ゆきは俯いたままだ。

 ずっと遠ざけていたからだろうか。

 そう考えると、胸が痛くてたまらない。

「迷惑じゃない。だが、ここで寝付いてしまうほうが、かえって迷惑ではないの。薩摩藩邸に行けば、ここにいるよりも早く元気になれるしね。ゆっくりと出来るからね」

「……有り難うございます」

 ゆきはようやく顔を上げるが、切なそうな表情をしている。

「……小松さんは、私がそばにいるのはお嫌ではないのですか?」

 ゆきは声を震わせる。

 嫌われたのだと思っているゆきは、傷付いた鳥のように見える。

 前向きでしっかりと強い意思を持った女の子。

 そんな印象を持っていた。

 だが、違った部分があった。

 傷付きやすい部分が有るのだということを、小松は改めて感じた。

 守ってやりたい。

 守ってやらなければならない。

 ゆきは泣きそうになりながら、震えている。

「……私は君を嫌いになった覚えはないよ。君を全力で守りたいと思ったことはあっても……」

 小松が誠実に伝えると、ゆきは驚いた様子で小松を見た。

「……嫌われているのだと思っていました。だから、私を近付けないと……。私のことは嫌いではないのですか?」

 ゆきが震える声で呟く。

 小松は、答える代わりに、ゆきを思いきり抱き締めた。




マエ モドル ツギ