*愛人契約*

12


 小松に恋人がいるかもしれない。

 その事実は、ゆきをひどく切なくさせる。

 小松のことだから、恋人がいてもおかしくない。

 端から見れば同じような立場にあるのかもしれないが、恋人には健全の、愛人には背徳の響きがある。

 小松は電話を切ると、ゆきをまっすぐ見る。小松の眼差しは、ひどくクールだ。

 ゆきなんてどうでも良いとすら思っているように見えた。

「ゆきくん、この書類だけれど、フォーマット使ってきちんと残しておいて」

 小松はテキパキと指示をして、次の仕事をする。

 ゆきは胸がチリチリと痛むのを感じながらも、仕事に集中することにした。

 ここで失敗をしてしまったら、小松のゆきに対する評価が下がってしまうだろう。

 女子としてきちんと見てもらえない以上は、せめて仕事だけでもきちんとしておこうと思う。

 それぐらいしか、自分に出来ることはないのだと、ゆきは感じた。

 キスをしてもそれだけだ。

 それ以上は進展しない。

 小松はきちんとそのあたりはコントロールをしているのだろう。

 仕事をしても、つい小松のことばかりを考えてしまう。

 仕事に集中しなければならないと想いながらも、小松から意識を逸らすことが、ゆきにはなかなか出来ないことだった。

 感情を持ち込んで仕事をするのは、小松が一番いやがることだろう。

 だが、ゆきはそうせずにはいられなかった。

 ゆきは指示を出された仕事をやり終えた後、ホッとして次の仕事にかかる。

 ひとつの仕事を終えると、ゆきは何とか次の仕事に集中することが出来た。

 終業の時間となり、ゆきは小松に呼ばれる。

 明日は来なくても良いということだろうか。

 小松のプライベートには立ち入ることは出来ない。

 ゆきは複雑で重い気持ちになる。

 愛人契約を結んでいるとはいえ、ゆきは小松のプライベートに踏み込めない。逆に小松はゆきのプライベートには踏み込んでくる。

 これがゆきを余計に切なくさせた。

「ゆきくん、明日も宜しく頼むよ。明日は少し忙しくなるかもしれないから、しっかり頑張って」

「はい、明日も頑張ります」

 小松に休みを言い渡されると思っていたのに、明日も更に頑張るようにと言われて、ゆきは驚いてしまった。

「今日の仕事はこれで終わりだよ。さあ、帰ろう」

 小松は手早く後片付けをし、ゆきもまた素早く片付ける。

「行こうか」

 小松はゆきの手をそっと取ろうとする。

 小松には恋人がいる。

 そう考えると、ゆきは手を離してしまう。

「ゆきくん、君は手を繋ぐのが嫌なの?」

 小松は明らかに不快そうな表情を浮かべてくる。

「誰かに見られたら、困るとか……?」

 小松の声は不機嫌で、明らかにゆきを責めていた。

 小松の表情は静かに怒りを表している。

「……いません。そんな相手は。だけど、小松さんこそ、見られてはマズイ相手が要るのではないですか?」

「それはないね。安心して構わないよ。まあ、こんなことを言ったところで、君が信じてくれるとは、考えにくいけれどね……」

「だったら……」

 だが、小松は手を再び繋いではこなかった。

 小松を起こらせてしまった。

 ゆきは、なんて迂闊なのだろうかと、思わずにはいられなかった。

 とぼとぼと小松の後を歩く。

 かなり失礼なことをしてしまったのだろう。

 ゆきは、嫉妬をする余りになんてことをしてしまったのだろうかと、思わずにはいられなかった。

 駐車場に着くまでは気まずくて、小松とは全く話することはなかった。

 それがゆきには苦しい。

 いつもは助手席に乗るが、それも遠慮をしたほうが良いのだろうか。

 そんなことを、ゆきはぼんやりと考えてしまう。

 だが、小松はそんなことなど分かりきっているとばかりに、助手席のドアを開けた。

「早く乗りなさい」

「は、はい。あ、有り難うございます」

 ゆきが助手席に乗り込むなり、小松は強く抱き締めてきた。

 まさか抱き締められるとは思ってはいなくて、ゆきは驚いて目を見開いた。

 そのままゆきは、覆い被されるように、深いキスを受ける。

 まるで、ゆきの総てを従わせるかのように、小松は激しいキスをしてくる。

 今まで、もう何度もキスをしてきた。

 だが、そんなキスとは比べ物にならないくらいに、小松のキスは激しかった。

 ゆきの総てを奪い尽くしてしまうぐらいに力強くて、激しかった。

 立っていたら、とてもではないが、ずっと立っていることは出来ないぐらいだっただろう。

 唇がぷっくりと腫れ上がるまで吸い上げられ、口腔内をくまなく愛撫をされて、ゆきはシートに身体を預けてはいても、小松にしっかりと抱きついていなければ、いられないぐらいだった。 

 呼吸を総て奪われて、ゆきは小松がいなければ、何も出来ないぐらいに骨抜きにされてしまった。

 唇がようやく離れたあと、小松はフッと微笑んだ。

「どうしたの? 焼きもちかな?」

 小松に大人の余裕を見せつけられる。

 図星なので、ゆきは真っ赤になったままで、反論できない。

「……あ、あの……」

「君は何も気にしなくても構わないから」

 小松はゆきの額と自分の額をしっかりとくっつけた後、フッと艶やかに微笑んだ。

 本当にズルい男だとゆきは思う。

 だが、その大人の狡さに惹かれているのは、確かだ。

「嫉妬する君は本当に可愛いね」

「からかっていたんですか?」

「まあ半分はね。それぐらいは許されるでしょ?」

 小松はくすりと笑うと、ゆきをしっかりと抱き締める。

 こんなにしっかりと抱き締められると、ゆきは他には何も考えられなくなる。

「さあ、行くよ。君が嫉妬をする可愛いところも見られたところだしね」

 小松はゆきから抱擁を解くと、シートベルトをして、ステアリングを握る。

 小松をこんなにも自分の傍にいて欲しいと思ったことは、なかった。

 独占欲が強くなってしまう。

 そうなればなるほどに、ゆきは苦しくなるのを感じる。

「ゆき」

「はい」

「君は私のものだからね……。そのことは忘れないように……」

 小松はキッパリと言い切る。

 ゆきは小松のもの。

 それは完全にそうだと、言い切ることが出来る。

 だが、小松はゆきのものかと言えば、そうではない。

 小松もゆきのものであると言い切ることが出来るのであれば、こんなに幸せなことはない。

 だが、そのような日が来るのだろうか。

 来ないほうが可能性としてはかなり高いだろう。

 ゆきにとっては、それが苦しくてしょうがなかった。



マエ モドル ツギ