*愛人契約*

21


「蓮水さんですね。ご懐妊されていますね。四ヶ月になりますよ」

「……え!?」

 医師からの言葉は青天の霹靂だった。

 考えもしないことだったので、ゆきは息を呑む。

 まさか妊娠しているだなんて、思ってもみないことだった。

「……妊娠……ですか」

「ええ。そろそろ安定しつつありますよ」

 医師はキッパリと言いきると、ゆきを見た。

 安定し始めるなんて、これもまた驚きだった。

 やはり、旅行の時だろう。

 そこしか思い付かない。

「気付かれなかったのですか?」

「……何だかずっとバタバタとしていたので……」

 ゆきは言葉を濁す。

 まさかこのようなことが起こるとは思わなくて、ゆきはどうして良いのかが分からなかった。

 父親は明白だ。

 子供が出来たと言ったら、両親は哀しむだろう。

 ゆきは、最初こそ驚いてしまったが、不思議と喜びが滲んでくるのを感じた。

 どうしてかは解る。

 初めて愛したひとの子供なのだ。

 ゆきは笑みすら滲ませた。

「有り難うございました」

「大丈夫ですか?」

 医師はゆきを心配するかのように、その顔を覗き込んできた。

「大丈夫です。有り難うございます」

 ゆきは医師に挨拶をすると、そのまま診察室から出た。

 ゆきはこれからのことを考える。

 選択肢は産むしかない。

 それだけだ。

 ゆきはこれからのことを綿密に考えなければならないと思っていた。

 

 妊娠の事実を両親に告げることが出来ないままで、数日が過ぎた。

 大学に通いながら、もやもやした日々が続く。

 これで就職活動は出来なくなってしまった。

 仕方がない。

 両親の会社は何とかなりそうだから、きっと大丈夫だろう。

 そう思い、ゆきは前向きに取り組むことにした。

 大学に行くと、ゆきは就職課に呼び出されて、部屋に向かった。

 就職活動をしないと、きちんと伝えなければならない。

「蓮水ですけれど……」

「蓮水さん、あなたに直接求人票が来ていてね。何でも洩れできちんとあなたのエントリーを受け付けられなかったみたいで。それであなたに面接を特別に受けてみないかと、いうものなんだけれど……」

 差し出された求人票を受け取りながら、ゆきは重い気持ちになる。恐らくは小松の差し金だろう。それ以外には考えられない。

 ゆきは余計に苦しくなる。

 そんな温情なんていらない。

「気遣って頂いて申し訳がないですが……、薩摩グループ様とは縁がなかったと、思っておりますので、試験と面接は受けないと、お伝え下さい」

 ゆきは深々と頭を下げる。

「お話はこれだけでしょうか?」

「そうですよ」

「だったら失礼します」

 ゆきはもう一度、頭を下げると、部屋から出た。溜め息が出る。

 ゆきはそのまま背筋を伸ばして歩いて行く。

 総てがふっきれたかと言われると、嘘になる。

 だが、新しい道を歩いていかなければならないのだ。

 ゆきは、まだ、小松を愛していることを、認めずにはいられなかったが、それもきっと時間が解決してくれると、思わずにはいられなかった。

 

 ゆきは、なかなか、子供が出来たことを両親に伝えることが出来なかった。

 そんなことを伝えたら、きっと両親は哀しんで、自分達を責めるだろう。

 だが、これは、男と女として、納得したうえの結果なのだ。

 だから後悔はない。

 だからこそ両親には、哀しい想いをして欲しくなかった。

 どうしたら上手く伝えられるだろうか。

 ゆきはそればかりを悶々と考えていた。

 両親もあえて小松のことを、話したりはしなかった。

 一度だけ、父親が、考え込むように訊いてきた。

「……ゆき、小松さんとは……」

 本当は何があったのかと、訊きたかったのだろうが、ゆきの表情を見て、止めてしまった。

 それ以来、話をしていない。

 両親は、ゆきが小松に恋をしてしまったことを、薄々は気付いているようだった。

 

 両親にどう伝えるか。

 考えが上手くまとまらないままに、ゆきは悶々としていた。

 ゆきが大学の門から出ると、見慣れた車が停まっていた。

 小松と同じ車種だ。

 シルバーのハイブリットカーだ。

 だが、小松ではないだろう。

 こんな場所に姿を見せるわけがないのだ。

 小松はかなり忙しいのだから。

 ゆきは気にすることがないようにと、自分で言い聞かせると、車の前を素通りした。

 その瞬間、車のドアが開く。

 余りにタイミングが良すぎると思った時だった。

「ゆき!」

 小松の透明感が溢れた鋭い声が、響き渡る。

 ゆきは驚きの余りに、思わず背中を強張らせた。

 ゆきは恐る恐るゆっくりと振り返る。

 するとそこには、背筋が綺麗に伸びた、小松が立っていた。

「ゆき、話したいことがある」

 小松には珍しく、何処か思い詰めたような表情をしていた。

「……小松さん……、私には特に話すことなんて……」

 ゆきは言葉を濁しながら呟く。

 本当にもう話すことなんてないと思う。

 小松とは終わったのだ。

 とはいえ、ゆきにはまだ心にもやもやしたことがあるのは、確かだった。

「私にはある。迷惑なのは解っているが、少しで良いから時間をくれないか?悪いようにはしない……」

 小松がこれほどまでに、懇願をするなんて、ゆきは思ってはいなかった。

 驚いてしまい、ゆきは思わず息を呑んだ。

「ゆき、お願いだ……」

 小松の懇願に、ゆきは頷くしか出来ない。

 結局は、ゆきは小松のことを愛しているのだ。

 愛して、愛して、堪らないのだ。

 こんなにも誰かを愛することなんてないぐらいに、愛しているのだ。

 だからこそ、受け入れずにはいられない。

 ゆきは切ない気持ちでいっぱいになりながら、小松に頷いた。

「……少しぐらいなら……」

「……有り難う、ゆき」

 小松はホッとしたように呟くと、息を吐いた。

「車に乗って。落ち着いて話が出来るところに行こうか」

「はい」

 ゆきは、胃が痛むのを覚えながら、ぎこちなく頷いた。

 ゆきの態度を見て、小松は一瞬、切なそうな顔をする。その表情は、本当に苦しそうで、ゆきの気持ちも重くなる。

 車に乗り込んでも、お互いに無言になる。

 重苦しい空気が、ふたりを包んでいた。

 解っている。

 小松とはきちんと対峙しなければならないことは。

 だが、この苦しい状況は、お腹の子供に良くないと、ゆきは無意識にお腹を庇うように手を当てていた。

 これが小松とは最後になるだろう。

 そんな切ない予感にうち震えていた。



マエ モドル ツギ