*愛人契約*

22


 小松は、自宅だとゆきが萎縮すると思ったのだろう。

 個室のある、静かで誰にも邪魔されない、日本料理店を、話し合いの場所に設定してくれた。

 これはかなり有りがたかった。

 とはいえ緊張しすぎて、ゆきは全く落ち着かなかった。

 本当にどうして良いのかが、解らない。

 それよりも、大きな壁がある。

 果たして、小松には妊娠していることをどのようにして告げれば良いか。

 それよりも、そもそも、告げるか、告げないかの決断も、ゆきの中では出来てはいなかった。

 様々な想いが、ゆきのなかで交錯してしまい、パンクしてしまいそうになる。

 正直言って、全く、余裕がなかった。

 ゆきは小松の顔をまともに見ることが出来ない。

「どうしたの?落ち着かない?」

 小松はかなり落ち着いているようで、とても静かな雰囲気だった。

 それに比べて、自分は全くダメダメだと、ゆきは思った。

 余裕がないうえに、何も話せないなんて。

「……そんなこと、ありません」

「ゆき、そんなに堅苦しくならないで。私は、君と腹を割って話がしたいだけだから……」

「はい」

 腹を割って話すなんて、なんて皮肉な話なのだろうか。

 ゆきは居心地の悪さを感じながら、頷くしかなかった。

「ゆき、君は、薩摩グループの面接を断ったよね。どうして?」

 小松は遠回しに訊くのが嫌なのか、ストレートに訊いてきた。

「ご縁がないと思ったからです」

 それにもう働ける状態ではないからだ。

 小松にはもう言わないほうが良いのかもしれないのだ。

「縁がない……、か。確かに、私が、君にしたことは大人げなかったとは思う。君は、薩摩グループに、自分の力で入りたかった。というだけなんだろうけどね」

 小松はフッと冷たく鋭い瞳を曇らせた。

「……確かに、そうです。自分の力で試したかったんです。コネで入るのは嫌だったから……」

「ゆきくん、君らしいね」

 小松は静かに頷く。

「だけど、もうそれも良くなりました。頑張れるところは、薩摩グループだけではないですから」

 ゆきは自信を持ってそう言い切ることが出来た。

「本当に君らしいね。だから、今回のことは断ったのかな?」

 小松の言葉に、ゆきは頷く。

 嘘を吐いているのは自覚していた。

 だが、しょうがない。

「そうです。お話はこれだけでしょうか?」

 ゆきはあっさりとした口調で言う。

「いいや。そんなことで、私が、わざわざ、君を待ち伏せしたりすると思う?」

「それは……」

 確かに、合理主義の小松が、このようなことぐらいで、ゆきをわざわざ待ち伏せなんてしない。

「小松さん、用件は……」

「簡単なことだ。私のところに戻って来なさい」

 小松はキッパリと言い切る。まるでゆきが自分の所有物だとばかりに。

 これには驚く。

 ゆきがあからさまに驚いた表情をしたからか、小松は厳しい眼差しになる。

「契約は続いているよ。だからこそ、君のご両親の会社の立て直しにも協力しているんだから」

 小松はクールに言うと、真っ直ぐゆきを見た。

 まるで支配者のような小松の眼差しに捕らえられてしまうと、ゆきは追い詰められたような気持ちになる。

 小松からは逃げられない。

「……なら、どうして、私を直ぐにご自分のところに呼び戻そうとされなかったんですか?」

 ゆきは自分でも解っている。

 直ぐに迎えに来て貰えたら、こんなにも重苦しい気持ちにはならなかったと。

「……私が、迎えに行ったら、君は直ぐに私のところに来た?」

 小松はゆきの心を見透かすように、ただ見つめてきた。

 息苦しいほどに切迫した眼差しを向けてきた。

「ゆき、君は私のところに戻るのは嫌?」

 小松はやはり遠回しではたく、率直に訊いてくる。

 嫌かと言われたら、正確には嫌ではない。

 妊娠していることを知らなければ、きっと直ぐにでも戻って来ただろう。

 だが、妊娠しているのは、もう、紛れもない事実なのだ。

 それを上手く伝える言葉が見つからない。

 ゆきが黙っていると、小松は更に厳しい表情を浮かべる。

 何処か怒っているように思えた。

「ゆき、黙っていては伝わらない」

 まるで駄々っ子をたしなめるかのように、小松は言う。

 それでも、妊娠していることを上手く伝えられない。言葉が見つからない。

 どうして良いのかが解らなくて、ゆきは更に唇を噛んだ。

「何か言えない事情でもあるの?君は明らかに、何かを隠しているようにしか、見えないけれど」

 小松の鋭い指摘に、ゆきは心臓が飛び上がってしまうのではないかと思った。

 ドキドキし過ぎて、ゆきは緊張が抜けなかった。

「……小松さんは、私を、どうして、そばにいさせたいと思ったのですか?エントリー用紙を破られた時は、もう私のことなんて、いらないんだろうなあって思いましたから……」

 本当にそのような雰囲気だった。

 ゆきなんていらないと。

 それに、恋人が他にいるのならば、そのひとのそばにいることを、優先して欲しいと、ゆきは思う。

 それぐらいに好きすぎる。

 ゆきは切なくて、苦しくなって、泣きたくないのに、涙が零れ落ちた。

「ゆき……」

 今までとても冷静だった小松が、明らかに切ない表情を浮かべた。

 そのまま抱き締められて、ゆきら逆に驚いてしまう。

 まさか小松がこのようなことをしてくるなんてないと思っていた。

 久々に小松に抱き締められて、ゆきは幸せの余りに胸がいっぱいになった。

 ずっとこの温もりに抱き締められていたかった。

 ずっとこの温もりを感じたいと思っていた。

 これほど欲しいと思っていた温もりは他にはない。

 抱き締められるだけで、幸せと安堵が一気に沸き立ってきた。

「……ゆき、君をいらないなんて思ったことは、一度としてないよ……。少なくとも、私はね……」

 小松は、更にしっかりとゆきを抱き込んでくる。

 この腕から、もう離れられたいと思った。

 小松の温もり以外に欲しいものなんてないと、ゆきは思わずにはいられない。

 やはり、小松が必要なのだ。

 小松がいれば、他は何を失っても構わないほどに。

「……エントリー用紙を破ったのは、理由がある」

 小松がようやく口を開き、ゆきは思わず顔を上げた。

「どうしてですか?」

 ゆきが訊いた瞬間、障子戸を柔らかく叩く音がした。

「お食事の準備が出来ました」

 仲居の声がして、ゆきと小松は、とっさに離れる。

「どうぞ」

 小松は外にいる中居に声をかける。

「続きは後で……」

「はい」

 ゆきはドキドキして、早く続きが聞きたいと思った。



マエ モドル ツギ