*愛人契約*

23


 仲居たちが料理を並べる時間すらもどかしいと、ゆきは思う。

 かなり高級料亭だから、並べられた数々の日本料理は美味しいのだろうとは思う。

 だが、ゆきが一番、“美味しい”と感じるのは、きっと小松自身だと思った。

 早く話したい。

 早く続きが聞きたい。

 聞かなければならないと思った。

 食事が運ばれた後、再び二人きりになる。

 ふたりはお互いに向き合う。

 向き合わなければならないと、お互いにわかっていた。

「話の続きをしなければならないね」

「そうですね」

 ふたりはこれを乗り越えなければ未来はないと、分かっていた。

「ゆき、私が、エントリー用紙を破ったのは、君をただのうちの従業員としてそばに置きたくはなかったんだよ。もっと違う意味で、そばに置きたかった」

 小松は淡々と話してはいるが、いつものような歯切れの良さは全くないと言っても、良かった。

「違う意味……ですか?」

 ゆきは、上手く考えがまとまらなくて、小松が何を言いたいのかが、予想出来なかった。

「そう、私は、君を、ただの仕事のパートナーとは、見てはいないよ」

「……愛人……ですか?」

 ゆきは胸がチクチクと痛むのを感じながら、小松をちらりと見た。

 確かに、今までは、恋人でもなく、仕事上のパートナーとしてではなく、ただの愛人として生活をしていたのだから。

 ゆきの言葉に、小松は苦笑いを浮かべた。そこに自嘲するような色も含まれていた。

「……確かに、君には、そのように言ったし、契約書にも、サインさせてしまったからね」

 小松は苦々しい表情を全く崩さなかった。

「……確かに、そのようなものはあったけれども……、私は、今までで一度として、君を愛人と扱ったことはないよ。そんな気持ちで、君とは対峙したことはないよ。真っ直ぐ、誠実に対応しようと、努めたつもりだよ」

 確かに、一度として、吉羅がゆきを愛人だと扱ったことはなかった。

 恋人のように、ゆきに向き合ってくれたのは、事実だった。

「……小松さんは、いつも紳士に対応して下さいましたから……」

 ゆきは頷く。

 愛人として最初から扱われていたのなら、結ばれるまで、あんなにも時間がかかることはなかった。

 いつも、ゆきの気持ちを一番に優先してくれた。

 これには本当に感謝をしている。

「……それは、有り難いと思っています。だって、小松さんは、私の気持ちを一番に考えて、いつも接して下さいましたから……」

 ゆきはそれは心から認める。

「私は、いつも君とは誠実な気持ちで向き合いたかったんだよ……」

「……小松さん……」

 甘い苦しさで胸がいっぱいになる。

「君を愛人として最初から扱っていたら、私は無慈悲に君を抱いていたよ。ただの欲求を満たすケダモノと同じようにね。まあ、結果的には、君を抱いてからは、ケダモノのように抱いてはしまったけれど……、だが、君を大切に思っていたよ」

 小松は苦笑いを浮かべたが、その後の眼差しは翳り、何処か切なそうだった。

「君の気持ちを考えながら、時期を伺っていたつもりだったけれど、なかなか上手くはいかなかったね……。私のほうが限界だった。君が欲しくて、欲しくて、堪らなかったから……」

 小松は、こちらが切なくなってしまうぐらいに、胸に迫る声で呟く。

「ゆき、私は、本当のことを言うとね、君を一度も、愛人だと思ったことはなかったよ」

 小松に真っ直ぐ見つめられる。

 眼鏡の奥の眼差しは、とても誠実で、真剣だということは、直ぐに感じ取れた。

 小松はきちんとゆきと向き合ってくれている。

 ならば、自分も小松と正しく向かい合わなければならないと、ゆきは思った。

 なにも隠し伊達は出来ない。

 揺れていた意志が、ピタリと止まり、強固になった。

 腹を括る。

 腹を括って話をしなければ、ゆきのほうが不実だと感じたのだ。

 ゆきは深呼吸をする。

 こうするとかなり落ち着いた。

「……小松さんは、私のことをどのように思われていたのですか?」

 一番知りたかったこと。

 ゆきは率直に訊いた。

「君のこと……、ね」

 小松はフッと寂しげに笑う。その表情がとてもきれいで魅力的で、ゆきは思わず引き込まれてしまった。

「……君はどうなのかな? 私を嫌な男だと思ってた? 嫌な上司、援助と引き換えに、身体を欲求するような、最低な男だと、君は思っていた? まあ、実際に、私が、欲求したことは、最低なんだけれどね」

 小松は目を伏せる。

 とても哀しそうな視線に、ゆきは胸が軋むほどに痛んだ。

 小松を心ごと抱き締めてあげたい。

 そう思わずには、いられなかった。

「……そんなこと、一度も思ったことはありません……」

 ゆきはふわりと、小松を抱き締めるような笑顔を向けた。

「……え?」

 小松は驚いたように目を見開き、息を呑む。

「私は、小松さんのことは、厳しくて、冷たくて、冷静で、物事を見極める目を持った、素敵な人だと、ずっと思っていました……」

 ゆきは誠実に素直に、自分の気持ちを、小松に伝えた。

 それが一番だと思ったからだ。

「……ゆき……」

 小松は信じられないとばかりに、ゆきを見つめる。

「小松さんが、私にとても気遣って下さっているのは、気付いていました。だって、小松さん、私の気持ちを汲んで下さっていたから……」

 ゆきは泣きそうになりながら、小松に気持ちを伝えた。

「……だったら、どうして、私のそばから離れたの?」

「……もうそばに置きたくはないと思われていると、感じたからです」

 言葉にするだけでゆきは辛く思う。

 こんなに苦しいことなんて、他にない。

「……あり得ない。そんなこと」

 小松は苦し気に呟く。

「……だったら、どうして、あのとき、突き放したのですか? ……私は、小松さんに完全に嫌われていると思いましたから……」

「君は困った子だね……」

 小松は困ったように呟くと、ゆきを、真っ直ぐ見つめてくる。

 まるで、心を矢で射抜かれるような気持ちになった。

「……それはね、私も、君が私を嫌って離れたいと思っていると、感じたからだよ……」

 小松は透明感のある声で、切なく呟いた。

「……小松さん……」

 小松の告白に、ゆきは胸が軋むほどに苦しくて、涙がこぼれ落ちた。

 お互いに、お互いを気遣いすぎるが故の結果だったのだ。

 まだ遅くない。

 ゆきは小松に笑みを向けた。



マエ モドル ツギ