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それがどのようなことなのか、朧気には解っている。 だが、両親への恩返しの為だ。 それに、正確には、「嫌」なわけではない。 これは自分でも不思議でならない。 どうして小松なら嫌じゃないのか。答えは自分のなかでは、見付からなかった。 ゆきは小松のオフィスに呼ばれて向かう。 今後のことを伝えて貰うためだ。 流石は薩摩グループなだけあり、立派なビルだ。 ゆきは、薩摩グループの高層ビルを見上げて、緊張で喉を鳴らした。 こんなビルを牛耳る男の愛人になるなんて。 今まで考えたことなど、一度としてなかった。だからこそ、ゆきは、どうなるのかが全く読めなかった。 しかも相手があの小松帯刀だなんて。 ゆきが引き受けた地位が、喉から出るぐらいに欲しいと思っているひとは、山ほどいるだろう。 だからこそ、余計に構えてしまう。 揺るぎない地位。しかもそれは常に上昇し、更には精緻なまでに整った容姿。 何処を取っても、端から見れば“完璧”な男なのだ。 その小松帯刀と、“愛人契約”を結ぶなんて。 構えずにははいられなくなる。 ゆきは、時計を神経質に見つめた後、真っ直ぐ前を見上げる。 小松がいるのは、この立派過ぎる高層ビルの最上階だ。 ゆきは深呼吸をすると、もう一度しっかりと、小松がいるだろう部屋を見つめた、 まるで闘いに行くような気分だ。 ゆきは気合いを入れて、自分を奮い立たせると、ビルの中に堂々と入っていった。 ゆきは、先ず、受付に向かう。 「本日、18時より小松様とお約束を頂いている、蓮水ゆきと申します」 「はい、伺っております。こちらがセキュリティガードでございます。CEOのお部屋に向かわれる途中で、セキュリティチェッカーが三ヶ所ございますので、こちらを通してお通り下さいませ。セキュリティは一名が入ったと認識すると、再びセキュリティが掛かりますので、ご注意下さいませ。CEOの部屋は、70階でございます。高速エレベータをご利用くださいませ。エレベータはセキュリティをかけておりますので、カードを通して、お乗り下さいませ」 受付からしてかなりのクオリティだ。 流石は、日本を代表する企業体だと、思わずにはいられない。 「いってらっしゃいませ」 ゆきは受付に見送られて、エレベータに乗った。 セキュリティを解除して、最上階へと向かう。 ゆきは緊張で呼吸が上手く出来ずに、何度も酸素を求めて深呼吸をした。 最上階でエレベータが静かに止まる。 ゆきは呼吸を整えると、背筋を真っ直ぐ伸ばして、エレベータから降り立った。 さあ、戦争が始まる。 そんな気分だった。 ゆきはフロアに入るのにセキュリティを解除し、更にはもう一度セキュリティを通らなければならなかった。 やはり、きちんとセキュリティが施されているのは、それだけ小松帯刀がすごい人物であるということなのだろう。 とうとう、小松帯刀のいる、CEO室にたどり着いた。 ゆきは呼吸をして、ドアをノックした。 「蓮水ゆきです。小松さん」 名乗ると、静かにドアが開いた。 「どうぞ、入って」 「はい。失礼致します」 ゆきが緊張した笑顔で答えると、小松は僅かに皮肉げに唇を歪めた。 「ソファにかけて。飲み物は日本茶で良い?」 「あ、有り難うございます」 CEO自らが、てきぱきとお茶の準備をしてくれる。どうも、身の回りの世話をしてくれる“秘書”はいないようだ。 「小松さん、秘書はいらっしゃらないのですか?」 「秘書?そんなもの、合理的じゃないでしょ?お茶なんて自分で入れられるし、書類のファイリングなんて、その場でやれば必要ない。スケジューリングなんて、今は携帯電話ひとつで出来るよ。秘書よりも、私は、マスターマインドが沢山欲しいけれど。基本、マスターマインドが色々と精査してくれるから問題はないし」 小松はさらりと言うと、ゆきの前にお茶を出した。 「まあ、秘書がそばにいて、更に、私の仕事に助力してくれたら嬉しいけれど、いしのない、楽したいことしか考えるようなほわほわするタイプはいらないからね」 小松の言葉は、辛辣かつ的確だと、ゆきは思わずにはいられなかった。 「それに君なら、そんなことはないだろうと思ったからね」 小松はソファに腰を掛けると、ゆきに書類を差し出す。 まさか、きちんとした契約書が用意されているとは、ゆきは思わなかった。 仕事時間は、月曜日から金曜日までの、17時30分から20時30分だった。小松が休日出勤する日は、一緒に勤務すると書かれている。 きちんと給料は支払われる。 そして条件は、小松の家に“住み込み”だった。 「学費は支払うから、昼間はしっかりと大学に行きなさい。学ぶことはかけがえない、貴重な機会だからね。それも君の仕事のひとつだ。学ぶことは、いずれは君を助けてくれる。自立することは、良いことだからね。ただ与えられて学ぶのは、大した学びにはならないけれど、自らの意思で学ぶのは効果がある。だからしっかりと学びなさい」 「有り難うございます……」 小松が、ゆきのことをきちんと考えてくれているのが、本当に嬉しくて、気持ちが高揚する。 本当に有り難いと、感じずにはいられなかった。 「ゆきくん、後は、私の家に引っ越して来なさい。君は、私の家から、大学と仕事に通いなさい」 小松の淡々とした冷たい事務的な言葉に、ゆきは思わず構えてしまう。 やはり、身体を固くせずにはいられない、最大の契約事項だ。 これを含めて、小松からの条件を総て受け入れると決めたのだから。 ゆきは、深呼吸をして心を落ち着かせた。 本当に、深呼吸というのは、自分でコントロール出来る唯一のものだとよく言ったものだ。 「分かりました」 ゆきは腹を括り、生真面目に答える。すると小松は苦笑いを浮かべた。 「そんなにも気は張らなくても大丈夫だよ。後、早目に引っ越してくること。君が引っ越してくることで、この契約は完了する」 小松の言葉に、ゆきは頷く。どうしても、このことに触れられると、全身に力が入ってしまう。 それが辛いところだ。 「ほら、そんなに力を入れないの。私からの話はそれだけだよ。後、これはビジネスの契約と同じだからサインをして」 小松にきっぱりと言われ、ゆきは震える手で、なるべく平常のサインが出来るように心がけた。 「はい、これで、契約は成立だ」 小松の冷たく機械的な声に、ゆきは後戻りできないことを、感じ取った。 小松が手を差し出す。 ゆきも手を差し出し、固く握手を交わした。 この瞬間から、本当の意味でゆきの人生は回り始めた。 |