*愛人契約*


 小松に抱き締められている。

 強く抱き締められると、安心すると同時に胸がアイスクリームよりも甘い気持ちになる。

「ただいま、ゆき」

 小松はゆきを眩しそうに見つめた後、静かに離れてしまう。

 小松が抱擁を解いた瞬間、ゆきは胸が締め付けられるような切ない痛みを感じた。

 苦しい。

 小松の温もりがなくなるだけで、ゆきは何もかも失ってしまったような苦しみを感じた。

「部屋の片付けは終わった?」

「はい、終わりました」

「そう。それは良かった」

 小松はゆきの頬を柔らかく指先で触れた後、自室へと向かう。

 頬に触れられるだけで、喉がカラカラになるぐらいにドキドキした。

 小松にもっと触れられたい。

 もっと抱き締められたいと思っている自分がいるため

 ゆきはその感情の意味を、上手く理解することが出来なかった。

 小松が部屋に戻ってしまい、ゆきはおいてけぼりをされたような気分になる。

 何分、まだこの家には慣れてはいないから、どうして良いのかが分からなかった。

 ゆきが何をして良いのか分からないまま、リビングにいると、小松が戻ってくる。

「お風呂が沸いたら入りなさい。明日は、大学なんでしょ?君はしっかりと勉強することが、今の仕事だからね」

 小松は直ぐにお風呂の準備をしてくれる。

「小松さん、お風呂の沸かし方を教えて下さい」

「簡単だよ。風呂の栓を閉めて、キッチンにあるリモコンのボタンを押すだけだよ」

 小松はさらりと言い、リモコンの位置を教えてくれた。

「有り難うございます。明日からはお風呂沸かしはしますね」

「頼んだよ」

 小松はゆきを見つめて、くすりと笑う。

 何だか、小バカにされたような気になる。

「これでも、家事は全般出来ますよ」

「解っているよ」

 小松はフッと笑うと、まるで小さな女の子を扱うかのように、ゆきの頭を撫でた。

「小さい子ではないですよ」

「はい、はい。解っているよ。それぐらい。じゃないと、君に愛人契約なんて、持ち掛けたりはしないでしょ?」

 今更ながらに愛人契約を持ち出されて、ゆきは自分達の関係性を思い出す。

 ゆきは身体を固くして、緊張してしまった。

「そんなに構えなくても大丈夫だから、固くならないの。さっきみたいに力を抜いていれば良いから」

 小松は苦笑いを浮かべながらも、溜め息を吐いた。

「……は、はいっ」

「そうそう、黒蜜たっぷりのワラビ餅を買ってきたから、食べなさい。お茶を淹れるから」

 小松は、手早くお茶を準備してくれる。

 本当に小松はてきぱきとしている。

 きっとそれも、成功した理由だろう。

「座っていて、ゆきくん」

 そう言われても、ゆきは落ち着かない。何か手伝わなければならないと、思ってしまう。

「何かすることは」

「良いから。馴れるまでは私がするよ」

「……はい」

 小松に従うものの、ゆきは自分でも何か出来ないかと、ずっとそればかりを考えていた。

「どうぞ。今日は引っ越しご苦労様。私からの労いのつもりだから、しっかりと受け取って。そんなにも恐縮しなくても構わないから」

「はい。有り難うございます」

 ゆきは、軽く頷くと、小松が出してくれた、ワラビ餅を口にする。

「美味しい……!」

 蕩けるような食感と、上品な甘さに、ゆきは思わず声をあげた。

 それを小松はにっこりと静かな微笑みで受け取ってくれる。

「それは良かった。このお茶も美味しいから飲みなさい」

「はい。有り難うございます」

 ゆきは笑顔で受け取ると、お茶を啜った。

「本当にこのお茶も美味しいです。あ、小松さんはワラビ餅をは食べないんですか?」

「私は、甘いものが苦手なんだよ。だから、君だけ食べなさい」

「はい。余り甘くないですよ。召し上がりますか?」

 ゆきがひときれを小松に差し出すと、苦笑いをされた。

「有り難う。だけど、気持ちだけ受け取っておくよ。君が美味しそうな顔をすることが、何よりも楽しいからね。本当に美味しそうな顔をするね。君は」

 美味しいものを食べている時は、本当に幸せだ。それが甘いものであるのなら余計だ。

 それが表情に出ているなんて、恥ずかしくてしょうがない。

 ゆきがほんのりと顔を真っ赤にさせると、小松は愉快とばかりに更に笑う。

「それを食べたら、お風呂に入ってもう寝なさい。君は明日は大学なんでしょ?きちんと勉強するのが、君の最大の仕事だからね」

「はい。有り難うございます」

 ゆきはほんのりとドキリとする。

 愛人として契約した以上は、それに何がついているのか。考えることはひとつだ。小説や映画の世界でも、解る。

 想像力が逞しすぎるのだろうか。

「こ、小松さんは……」

「私?」

 小松は、ゆきの様子を見るなり、くすりとと笑う。まるで子供でも見ているかのように笑うのだ。

「ゆきくん、君はドラマや映画の観すぎじゃないの?」

「え?」

 ゆきが驚いて目を見開くと、小松が美しく整った顔を近づけてくる。

 顔から、ドラゴンが吐き出すのと同じぐらいの炎が出てくるのではないかと思うぐらいに、ゆきの顔は熱くなった。

「あ、あの……」

「……君が望んでいるのであれば、私は、やぶさかではないけれど?」

「あ、あの」

 心臓だけが飛び出して、走り出して何処かに行ってしまうのかと思うぐらいに、ゆきはドキドキしてしまった。

「……ほら、お風呂に入って、今夜は寝なさい。君が準備が出来ていないぐらいは解っているよ」

 小松は意地悪に甘く微笑むと、ゆきから離れた。

「私は、仕事をするから、寝なさい。おやすみ」

 小松は食器を手に取ると、手早く片付けて自室へと向かう。

 ゆきがドキドキの余韻に浸って動けなくなる間の、ほんの短い時間だった。

 ゆきは、自意識過剰過ぎることを反省しながら、浴室に向かった。

 バスタブにゆったりと浸かりながらも、未だにドキドキが収まらない。

 まだ、小松を意識しすぎてしまう。

 ゆきは何度も溜め息を吐きながら、喉がカラカラになるぐらいに意識をせずにはいられなかった。

 

 お風呂から上がり、ゆきは小松に挨拶に行こうと、部屋を訪れる。

 ドアが少しだけ開いていて、仕事をしているのが見えた。

 仕事に真剣に取り組んでいる小松は、完璧に素敵だった。

 その様子を見つめながら、心がざわつくのを感じた。

 なんて素敵なのだろうか。

 ゆきの甘いドキドキが止まらない。

 その感情が何物であるかを、ゆきは未だに気づいてはいなかった。



マエ モドル ツギ