*愛人契約*


 結局、初日はゆきが考えていたような艶めいたことは、一切起こらなかった。

 気負いすぎた。

 何だか自分が恥ずかしいと、ゆきは思う。

 朝はいつものように起きて、ゆきは支度をする。

 朝食を作ろうとキッチンに向かうと、小松は既にスーツに着替えて、仕事に出ようとしていた。

「ゆきくん。おはよう」

「おはようございます、小松さん。もうお出かけされるのですか?」

「仕事が立て込んでいるからね。当然でしょ? 紅茶があるから自由に飲んでくれて良いよ。後、クランベリーのベーグルがあるから、適当に食べて。冷蔵庫には、ハムや卵と、レタスとかは入っているから、適当に使ってもらって良いから」

「有り難うございます……」

「私は、行くよ。ではね」

「いってらっしゃい、小松さん……」

 小松はさっさと家を出ていってしまった。

 ゆきは、時間に余裕があるために、小松が用意してくれていた食材を使って、手早く朝食を作った。

 朝食を作りながら、小松の勤勉ぶりには感心せずにはいられない。

 本当によく働くとゆきは思う。

 小松は、昨日も遅くまで仕事をしているようだった。

 やはり、薩摩グループという、大きな企業体を導くというのは、かなりの重責があるのだろう。

 優秀な小松にしても、かなり働かなければ、支えられないのだろう。

 ゆきはそう思わずにはいられない。

 小松の仕事への真摯さと厳しさを垣間見たような気がした。

 このような、陰の尽力が見られただけでも、ゆきは小松と一緒に暮らした価値があると思った。

 小松のそばにいると、様々なことが学べるような気持ちになった。

 ゆきもまた、手早く朝食を食べると、大学に向かう。

 小松のそばにいることが、ゆきにとっては一番の勉強になるかもしれない。

 そんなことを思わずにはいられなかった。

 

 授業の後、ゆきは小松の会社に向かう。

 個人秘書として、今日から働くためだ。

 ゆきは、小松のそばで出来る限りのことを吸収し、成長したいと強く思う。

 これは貴重で、とても勉強になる。

 小松から色々と学ぶことが出来るのであれば、かなりのプラスになるからだ。

 ゆきは、先ず、秘書課に立ち寄り、IDカードを附与された後、使い方のガイダンスを簡単に受けて、小松のところへ行くように言われた。

 小松の部屋に入ると、昨日、ゆきを家まで送ってくれた中年の女性が待っていた。

「蓮水さん、私は、日中、CEOのサポートをしております。あなたは、夕方から私の代わりにCEOのサポートをしてください。サポートはパソコンの操作、そして、お茶をお出ししたり、時には必要な書類を出したり、そして、必要な方のコンタクトを取ったりと、様々です。やらなければならないことは、この書類に記載していますから、読み込んだ上、仕事をされてください。後、パソコンはあなた専用のものを準備しています。あなたのIDカードでログインをして使って下さい。あなたがログインしなければ、使えないようにしていますから」

 女性が事務的な説明をしている間、ゆきは神妙な気持ちで聴いていた。

 小松のサポートをしっかりとしなければならない。これがゆきの仕事だ。

 本当は、おままごとのような仕事内容を予測していたが、現実は違っていた。

 本当に、ゆきを個人秘書としてしっかりと使うつもりなのだ。

 これにはゆきは感謝以外にないと思った。

 小松はちゃんと仕事を学ばせてくれるのだ。

 ゆきのやる気が断然出てきた。

「こちらをしっかりと読んで、CEOのサポートを頼みますよ」

 女性は笑顔すら見せない。だが、ゆきはこのチャンスが嬉しくてしょうがなくて、つい笑顔になった。

「解りました。マニュアル準備して下さいまして、有り難うございます!」

 ゆきは満面の笑顔で女性を見つめて、深々と頭を下げた。すると女性は、ほんの少しだけ笑顔になった。

「ではしっかりと読んで下さい。昼間にお時間がおありになる時は、一緒に仕事を致しましょう」

「有り難うございます!」

 ゆきは嬉しくて益々笑顔を浮かべた。

 すると女性は、まるで学校の教師のような堅苦しい笑顔になり、頷いた。

「では、私はこれで。蓮水さん後は頼みますよ」

「はい、お疲れさまでございました」

 女性は静かに部屋から去る。

 ゆきは清々しい気分で、女性を、見送った。

「ゆきくん、マニュアルを読んでしっかりね。仕事は、手取り足取り教えてもらうものではなく、見て、学んで、覚えて、創造力を働かせるものだからね。私もそのつもりで君には接するから」

 小松はいつも以上に厳しく言う。

 これがビジネスなのだ。

「解りました」

 ゆきは、なにがなんでも食らいついていこうと思った。

 ゆきは凜とした眼差しを、真っ直ぐ小松に向ける。

 小松はゆきの表情に、フッと甘い笑みを浮かべた。

「良い目だ。しっかりと仕事をするんだよ」

「はい」

 小松が愛人としてではなく、きちんとひとりの従業員として扱ってくれるのが、ゆきには何よりも嬉しいことだった。

「早速だけど。ゆきくん、お茶を淹れて。パントリーは奥、私は湯呑みで。君には、蓮の花のマグカップを用意しているから」

「有り難うございます」

 ゆきは嬉しくてパントリーに向かい、小松のためにお茶を淹れる。

 個人秘書の最初の仕事が、お茶だし。

 そこから色々な仕事に広げていけたら良いから。

 ゆきは小松のために、先ずは丁寧にお茶を淹れることにする。

 小松は、ゆきのことを然り気無く考えてくれている。それはとても有り難いことだと、深く思った。

 それに、ゆきのためにと、マグカップを用意してくれているのは嬉しい。

 自分と小松のために、お茶を淹れて、ゆきはそっと運ぶ。

 小松は、ひたすら仕事をしている。

 邪魔にならないようにと、そっとお茶を出した。

「有り難う」

 小松のさりげない声がけに、ゆきは笑顔になる。

 小松に益々惹かれてゆく。

 それは隠しようのない事実だと、ゆきは強く感じる。

 小松を愛しいと思う気持ちが、胸に溢れ出す。

 だが、それが、本当はどのような意味を持つのか。

 ゆきは具体的には分からなかった。

 ゆきは席に戻って、マニュアルを読み始める。

 秘書の仕事は、雑務が多い。相手をサポートするのだから当然だ。

 だが、ゆきは、夕方からのパートタイムのためか、ファイル整理などはなく、何処にどのような書類があるのかなど、様々なものの位置が書かれていただけだった。

 ゆきは、小松の様子を見る。

 本当に真摯なまでに仕事をしている。

 いつか、あのように、仕事をすることが出来るようになればと思わずにはいられなかった。



マエ モドル ツギ