*愛人契約*


「ゆきくん、時間だよ」

 小松にこえをかけられて、ゆきはようやく我に還った。

 かなり集中してマニュアルを、熟読していたようだ。

「す、すみませんっ!こ、小松さんのお仕事は!?」

 ゆきが慌てて立ち上がると、小松はしょうがないとばかりに、苦笑いを浮かべた。

「私は終わったよ。食事をして帰ろうか」

「あ、有り難うございます」

 一緒に暮らしているから、帰る方向が全く同じなのは嬉しい。

 ゆきは慌てて支度をすると、小松を笑顔で見つめた。

「小松さん、お待たせ致しました」

「さあ、行こうか」

「はい」

 小松は、あくまでビジネスライクに、ひとりの従業員としてゆきを扱ってくれている。

 本当にこれから秘書として厳しく育てていくという気持ちを感じさせてくれた。

 小松とハイブリットカーで、会社を出る。

 小松の車に乗るのは初めてで、ゆきは緊張してしまった。

 だが、小松の運転はかなり巧みで、ゆきは安心して乗っていられる。

 安心してはいるが、同時に甘い緊張が身体に滲んでいるのも確かだった。

 ゆきが乗るのは助手席で、小松とかなり近い。

 近すぎてドキドキしてしまう。

 意識し過ぎて、体が堅くなってしまった。

 どうしても身体を小さくしてしまう。

 小松を男として意識せずにはいられない。

 ずっと意識してはいるが、今ほど意識をしたことはなかった。

「お腹が空いたでしょ?だけど、遅い時間だから、消化が良いものが良いでしょ?軽く和食を食べて行こう」

「はい、有り難うございます」

 お腹なんて本当は空いてなんかいない。

 今は、小松に全神経が集中してしまっている。

 緊張し過ぎて、ゆきは小松以外にはなにも考えられなかった。

 

 小松は、海鮮のお茶漬けと野菜のおかずを出してくれる店に寄ってくれた。

 よく使うとのことではあったが、ゆきに気遣ってくれているのは解った。

 ここ数日、小松のそばにいて思ったことは、最高の経済人というのは、相手を気遣い、思いやる心が深く、それをさらりとごく当たり前のようにやってみせるところが、素晴らしいのだと感じた。

 小松の気遣いの深さを、ゆきは見倣わなければならないと思う。

 目の前に最高の先生がいるのだということを、香穂子は今更ながらに感じた。

「有り難うございます、小松さん。美味しくて消化が良いのは、とっても嬉しいです」

「それは良かった」

 小松は静かに微笑む。

 ずっと誤解をしていたのかもしれない。

 あんなにも無体な条件を突き付けたのだから。

 だが、それも、ゆきのためだからかもしれない。

 小松の想いを深く感じ取り、ゆきは胸がきゅんと高まった。

 小松が思いやり溢れる人物であることを、心の何処かでは、解っていたかもしれない。

 だからこそ、小松の申し出を受け入れられたのかもしれない。

 自分のひとを見る直感は正しかったのだと、ゆきは強く思えた。

 食事を終えて、小松の自宅に向かう。

 小松とにいるだけで、幸せで、もっともっと一緒にいたいと思った。

「もうすぐ家だよ」

「はい」

 ゆきは甘い緊張に、思わず深呼吸をする。

 小松が運転をする車に乗っていると、まるでドライブデートをしているようで、楽しかった。

 車は静かに駐車場に滑り込む。

 これでドライブデートもこれでおしまい。

「さ、帰るよ。遅いからお風呂に入って寝よう」

「はい」

 車から降りるのが、どうしようもないぐらいに切ない。

 ゆきの気持ちが解ったのか、小松は手をしっかりと握りしめてくれる。

 そのまま手を繋いで、家まで一緒に行ってくれた。

 手を繋ぐと、小松の温もりがしっかりと伝わってくる。

 ゆきにとって、ときめき以上のものを与えてくれた。

 こんなにもドキドキすることがあるなんて。

 手を繋ぐなんて、幼稚園児だってやっているのに。

 こんなにもドキドキするのならば、キスした時はいったい、どうなってしまうのだろうかと、ゆきは思った。

 こんなにもときめくことなんて、他にはない。

 ゆきは小松を何度も見上げては、耳まで真っ赤にさせる。

 まるで身体中の熱が総てゆきの耳たぶに集中して、燃え尽きてしまいそうだ。

 それが嬉しいと同時にときめいてしまう。

 手を繋いで、家に入ると、小松はそこで手を離してしまった。

 ゆきにはそれが切ない。

 離れた喪失に、また苦しくなる。

「ゆきくん、今日は馴れないことをしただろうから疲れたでしょ?早くお風呂に入って眠りなさい」

「有り難うございます。小松さんは?」

 ゆきは無防備に何気なく訊いた。

 すると、いきなり小松が顔を近付けてきた。

 いきなりだったことや、小松のような美しい男に間近で見つめられて、ゆきは心臓が壊れてしまうのではないかと思うぐらいにドキドキしてしまった。

 艶やかに微笑まれて、ゆきは動けなくなる。

「……それは、私を誘っているって思っても、良いのかな……?」

 意味ありげに艶やかに囁かれて、ゆきは顔から火事になってしまうのではないかと思うぐらいに、顔を紅くさせる。それは若草山の山焼きよりも赤くて、限りなく達磨の赤に近かった。

 ゆきは緊張する余りに、木偶の坊のようになる。

「私は仕事をするからね。君は先に眠りなさい。明日も大学があるんでしょ?」

 小松はからかうように笑うと、ゆきの柔らかな頬に、手のひらを当てた。

 小松の想い伝わり、ゆきの更なる想いが熱くなってゆくのを感じる。

 小松への想い。

 朧気ではあるが、芽生えそうなことをゆきは自覚していた。

 

 ゆきが、お風呂に入り、眠る支度をしても、小松はまだ仕事をしていた。

 ゆきは、会社のなかで、小松が最も働いているのではないかと思った。

 それゆえに、素晴らしきCEOとして、社員が慕うのだろうと思う。

 小松のために何かしたくて、ゆきはお茶を淹れて、書斎に持っていった。

「小松さん、どうぞ」

「有り難う。今日一日で、随分と個人秘書の業務を覚えたようだね」

 小松は、満足するように頷いてくれた。

「小松さん、先に休みますね。お休みなさい。あまり無理をされませんように」

「有り難う、おやすみ、ゆきくん。明日も頼んだよ」

「はい」

 ゆきは笑顔で頷くと、小松の部屋から静かに出た。

 幸せで充たされた気持ちになる。

 小松の役に立ちたい。

 とにかく、ゆきにはそれしか今は思いつかなかった。



マエ モドル ツギ