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小松にキスをされた。 初めてのキス。 初めての情熱。 初めての苦しいぐらいに甘くて、幸せな感情。 小松を、本当の意味で、男だと認識した行為。 初めてのキスは、なんて素敵なものだろうか。 想像していたものよりは、キスはずっと生々しいものであったのは確かだが、それでもゆきには、それを越えるロマンティックさがあった。 うっとりしてしまうぐらいにロマンスを感じる。 フィクションの世界よりもずっとずっとロマンティックだと、ゆきは思った。 こんなにもうっとりするほどのロマンスが他にあるのだろうかと、思う。 唇が離れたあとも、ゆきはつい小松の唇を見つめてしまう。これが物欲しそうに見えたのか、小松は苦笑いを浮かべた。 「ゆきくん、まだ、して欲しいの?」 からかうように小松に言われて、ゆきは真っ赤になってしまう。本当に恥ずかしい。 ゆきが何も言わないままでいると、小松はもう一度、唇を近づけてきた。 ゆきは、それをためらうことなく受け入れる。 熱くて甘い唇は、ゆきの唇にしっとりと重なってきた。 甘くて、そして沸騰してしまうのかと思うぐらいに熱い。 小松はゆきの口腔内を、しっかりと舌で愛撫をしてきた。 ゆきを逞しく抱き締めながら支えてくれる。 情熱的な小松にならば、ゆきは何をされても構わないとすら思ってしまった。 それほどまでに、ゆきは小松のキスに溺れてしまう。 今まで知らなかった世界が開けてくるような、そんな感覚があった。 息が出来なくなるぐらいにキスを受けたあと、ようやくふたりの唇が離れた。 そのまま、小松の胸にしっかりと抱き寄せられた。 こうしていると、本当に安心する。 だが、これ以上のことをしてみたいと訊かれたら、ゆきは正直言って判断に困る。 「……ゆき、判断は君に任せるよ。キス以上のことをして欲しいなら言って。私は君の判断に任せるよ」 小松は判断に任せてくれる。 それはありがたい。 キス以上のことを望むのか。 そう訊かれたら、今の段階では、進む勇気はない。 「……ごめんなさい。今の段階では難しいです……」 ゆきは小松に申し訳ないと想いながら、その顔を見た。 すると小松は、しょうがないとばかりに、微笑んでくれた。 「しょうがないね。少しずつ慣れていくしかないからね。慣らしてゆくことで、君は構わないかな?」 「は、はいっ」 ゆきが返事をすると、小松はフッと微笑んだ。 「しょうがないね、君のペースに合わせることにするよ」 「有り難うございます」 小松の気遣いに、ゆきは感謝するしかないと思った。 「今日はこれでおしまいだよ。ほら、お風呂に入って寝なさい」 まるで親が言うように呟くと、小松はゆきからゆっくりと離れてしまう、 小松の温もりが離れた瞬間、ゆきは喪失の切なさに泣きそうになった。 「おやすみ、ゆきくん」 「……おやすみなさい……」 小松は、書斎に戻り、仕事を再開する。 その姿を見つめながら、ゆきは胸がいたくなる。 この先を進めたほうが良かったのだろうか。 そうすれば、想いは満たされたのだろうか。 複雑な想いに、ゆきはどうして良いのかが分からなかった。 まだ、この先に踏み込む勇気は持てない。 だが、このままではいられないし、そうしたくないことも、ゆきは分かっている。 選択肢を与えてくれ、無理強い出来るにしない小松には本当に感謝している。 小松が更に好きになる。 好きで好きで、堪らなくなる。 小松のことを考えるだけで、ゆきは切ないぐらいに、鼓動が高まるのを感じていた。 小松を追いかけずにはいられない自分がいる。 少しでも長く、小松帯刀のそばにいたいと、強く思う自分がいる。 ゆきは切ないぐらいに、小松のことばかりを考えてしまう。 大学のあとの仕事の時間が待ち遠しくてたまらなかった。 ゆきは毎日、走って小松のオフィスに向かう。 今はそばにいられる個人秘書の仕事が、嬉しくてたまらなかった。 「ゆきくん、今日は、私は用があるから、帰って構わないよ。今日の仕事はこれで終わりだ」 「はい」 朝には、早く仕事が終わることを知らされてはいなかったから、急に入った仕事なのだろう。 ゆきは手早く片付けて、帰る支度をする。 何だかつまらない。 小松のそばで仕事をしていることが、何よりも幸せだったからだ。 ゆきが片付けている間、小松は何処かに電話をかけているようだった。 「ああ、君? 直ぐに迎えに行くから……。そうだね……」 小松が誰かと話している声が聞こえる。 とても幸せそうな響きだ。 ゆきはその声の弾み具合で、好きなひとなのではないかと、思った。 そう考えるだけで、ゆきの気持ちはどんよりとしてしまい、何も考えられなくなってしまった。 息苦しくなるぐらいに、本当に何も考えられない。 「ゆきくん、聞いてる?」 モヤモヤとしていて、ゆきは小松が何かを言うことを、聞いていなかった。 「ご、ごめんなさい、小松さんっ! あ、あの、何でしょうか……?」 ゆきは失敗したと強く思いながら、小松を見た。 小松は、呆れるような表情をしている。 「仕事中は注意力が散漫だと困るからしっかりして。社会人として使い物にならないと、私が判断しなければならないようなことは、本当に止めて」 小松の声のトーンはいつもと同じだったが、厳しさが言外に滲んでいる。 今のは完全に自分が悪いという自覚は、ゆきにはある。 それであるがゆえに、ゆきは複雑な気持ちになった。 「……気を付けます……」 「今週は、もう、個人秘書に来なくて良いよ。私が忙しいから、構っている暇はないからね、と、言ったんだよ。家に帰って勉強でもしておきなさい。ただし、私の家に帰ること。これだけは守って」 「……はい……。失礼しました。申し訳ありませんでした……」 小松に叱られるというのは、ゆきにとってはかなりこたえる。 ゆきは仕事の片付けを終えた後、ひとりでとぼとぼと小松の家に戻った。 胸が痛くて、張り裂けそうだ。 これ以上に苦しいことなんて他にないのではないかと、ゆきは思う。 小松に否定するように言われてしまうこと。 ゆきにとっては、それが一番苦しくて、厳しいことだった。 一週間、来なくても良い。 それは、ゆきにとっては、謹慎を言い渡されたのと等しいことだった。 |