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宿に戻って、ゆきは、暫くは、文箱を眺めていた。 この文箱に間違いない。今はそう確信出来る。 ゆきは、暫く、文箱を眺めた後で、そっと箱の中を開けた。やはり、同じように、下板がある。きっと、これも開けることが出来るに違いないと思い、ゆきは、剣の先端を使って下板を上げてみることにした。 「……開いてね……。お願い」 小松とゆきにしか解らない、秘密の連絡場所。ここに入っていた文は、いつしか、読むのが楽しみでしょうがないものになった。 ゆきの人生を華やかに彩ってくれるものにすらなった。こんなに華やかな気持ちにさせてくれたのは、小松がくれた文しかない。 ゆきは祈るような気持ちで、下板を外そうと試みる。神経をかなり集中させていたからだろうか。下板が外れる音がした。 「あ!」 下板が浮き上がり、外れる。ゆきは慌てて、下板を取り払った。するとそこには、まだ変色する前の、とても綺麗で、触り心地がゴワゴワとしていない、半紙が出てきた。 小松が文を認めたものかもしれない。 触れた瞬間、電流が走るような緊張を覚えながら、ゆきは半紙を手に取る。心臓が激しいダンスをしても、しきれないほどに興奮しているように思えた。 息が出来ない。 ゆきは心臓が飛び出してしまうのではないかと感じながら、ゆっくりと半紙を広げた。 そこには、ゆきが美しいとずっと思っていた小松の男らしくも綺麗な文字で、文が認められている。時間が余り経っていないせいか、墨の色はとても鮮やかだった。 蓮水ゆき殿 君からの文が届かなくなって暫くになる。 息災だろうか。 そんなことを訊かなくても、直ぐに解る。 君は龍神の神子として、今私の目の前にいるのだから。 君が龍神の神子で、私が君の八葉だなんて、思っても見ないことだった。 あれは、本当に、お伽草子の中の話だと、私はずっと思っていたから。 だが、それが、そうではなかったことを、君自身が私に知らしめてくれた。 君に初めて逢った時、私は、何故だか懐かしい温かな気持ちになった。 そして、君の名前を知った時。私は確信した。 君こそ、文の相手であることを。 だから、君には深入りしてはならないと、私は思っている。 君は、私が龍神の神子に戀焦がれて死んでしまうと、文に書いていたのだから。 そんなことはしない。したくない。 私は、薩摩藩を預かっている者。私情で行動することは出来ない。そうすれば、多くの藩士、民が路頭に迷うことになる。 だから私は君には恋をしない。 絶対に。 これは君への手紙と言うよりは、自分への戒めなのかもしれない。 この文は君には届かないだろう。 君はもう、文箱を持ってはいないようだから。 だからあえて、こうして最後の手紙を記す。 君が見つけた、大坂で認めたという私の手紙は、きっとあり得ない。 私はそんな手紙を金輪際認めないだろう。 君と私が出逢って、歴史が変わったのだ。 君に恋をしない。 これは絶対だ。 親愛なる君の八葉として。 小松清廉帯刀 ゆきは手紙を読んで、胸に重しがあるかと思うぐらいに締め付けられる。息が出来ないぐらいに苦しい。 文を読んでいて、ゆきは瞳に涙が一杯になって、溢れそうになった。 恋をしない その一言が、ゆきに絶望を与える。 小松には、徹底的に拒否をされてしまったような、そんな気持ちになった。 胸が痛くて、苦しくて堪らない。 ゆきは文を読みながら、奈落の底に突き落とされているような気持ちになった。 小松はゆきに恋したくはないのだ。 ゆきは、それがどうして哀しいのか、今、ようやく解る。 小松と文のやり取りをしてからずっと、小松に恋をしていたのだ。 ずっと小松のことが大好きで、大好きで堪らなかったのだ。 だからこそ、ゆきは、小松の文によって励まされ、留学の日々も乗り越えてゆくことが出来たのだ。 小松のお蔭で、今まで頑張っておられたのだ。 なのに、小松に拒否をされてしまうなんて、ゆきには思っても見ないことだった。 小松は宣言通りに、きっとゆきには恋をしないだろう。 それが本当に悲しくて堪らなかった。 初めて好きになったひとなのだと、ゆきは今更ながらに気がついた。 初めて好きになった人に、あからさまに拒否されるなんて、これほどまでに重い事実はないとゆきは思った。 立ち直れるだろうか。 それよりも、小松ときちんと顔を合わせることが出来るのだろうか。 ゆきは唇を噛みながら、鼻からすうっと大きく息を吸っては、大きく吐く仕草を何度か繰り返した。 小松がちゃんと手紙を認めてくれたのだから、自分もきちんと手紙を書かなければならない。 ゆきは何度か呼吸をして気持ちを整えた後で、背筋を伸ばして、机に向かうことにした。 ここには電気のような明るく便利な物はない。ゆきが手紙を書いていた万年筆のようなものもない。だからゆきは、行燈の明かりを頼りに、墨と筆を用意して、小松に最後の手紙を書こうと決意した。 紙は、小松をイメージして買った、あの薄緑色の紙だ。最後の手紙に使う紙としては、これ以上相応しいものはないのではないかと、ゆきは思った。 ゆきは、紙を卓の上に広げて、渾の想いを込めて、小松への最後の手紙をつづり始めた。 小松清廉帯刀様 文を有難うございました。 やはり、あなたが、私の文の相手だったのですね。 それを知って、私はとても嬉しかったです。 あなたの神子でいられること。 あなたが私の八葉であること。 これ以上の喜びはありません。 あなたが私の八葉でいて下さって、本当によかったです。 あなたは、他のどの八葉よりも、重いものを背負われていることを、充分に解っています。 あなたは、八葉の任をすることが出来ないほどに、お忙しく、薩摩だけではなく、この時空の民に必要とされているということも、解っています。 だから、あなたはどうか、あなたが為すべき道を進まれて下さい。 そんなあなただからこそ、私は、文を通して、あなたのことを好きになったのだと思います。 あなたが私に冷たくする理由も、そのあたりにあるのでしょう。 どうか、あなたが、自分の信念で道を進まれることに、少しでも協力が出来ればと思っています。 今までどうも有難うございました。 あなたと文を交わすことが出来て、こんなに幸せな時間は他にありませんでした。 あなたの文は、いつも私に、幸せな気持ちをくれました。 いつも私を励ましてくれました。 だから今度は、私があなたにお礼をしなければなりません。 これからは、あなたの神子として、出来る限りのことを恩返しさせて下さい。 この文をもう返さなくても大丈夫です。 これを、あなたへの最後の文に致します。 親愛を込めて あなたの龍神の神子蓮水ゆき 手紙を書き終わると、ゆきは今にも泣き出しそうになった。 こんなに苦しい気持ちで書いた手紙は初めてかもしれない。 涙をボロボロと零しながら、ゆきは小松への手紙を書いた。 これで、本当に最後の手紙なのだ。 もっと情熱的に、小松のことを慕っていると、書けばよかっただろうか。 だが、そんなことをしても、小松は、何も思わないだろうし、かえって迷惑だと思うだろう。 ゆきは手紙をたった一度だけ、愛おしい気持ちで胸に抱くと、そっと、文箱に入れた。そのまま下板を乗せる。 これを小松に渡そうと思う。そして、その後、小松がどうしようかは、彼の自由だ。 ゆきは瞳に涙を滲ませながら、何度も文板の上を撫でた。 翌日、怨霊を沈める為に、また京の町に出ようとしていると、小松が訪ねてきた。 ゆきを見るなり、半ば怒っているような視線を向けてきた。 「神子殿、返して貰いたいものがあるんだけれど。ここまで言えば、あなたも解るでしょ?」 小松は苛々したような表情をしている。 小松がこのような表情をするのは、本当に珍しい。あからさまな不快を表に出すのは、本当に珍しいのだ。 「はい。文箱ですね。お返しいたします」 ゆきは素直に応じると、自分の部屋に行き、文箱を取りに行った。 もうこの文箱を手にすることはないと思うと、少しだけ寂しい気持ちになる。 だがそれだけだ。胸が切なくて、ノスタルジーを感じるだけだ。 ゆきは丁寧に文箱を持っていくと、それを静かに差し出した。 「どうぞ、小松さん」 「有難う、神子殿」 小松は、相変わらず、他人行儀に言うと、ゆきから文箱を受け取った。 「私は手伝いが出来ないから、帰るよ。神子殿」 「はい。小松さん、また」 ”また”はないかもしれない。そんなことを思いながらも、ゆきは小松を笑顔で見送った。 最後の手紙が小松の手元にゆく。 いや、そもそも、最後の手紙を小松が読むことは、もうないかもしれない。 そんな寂しい予感がしながら、ゆきは小松の背中を見えなくなるまで、見送っていた。 |